第4話:生まれて初めての孤独

 ハデスの館は広大だ。

 持ち主の『富める者』という異名を示すかの如く、金や宝石の装飾が冷やかに煌めいている。

 そうしてあちこちに点る青白い妖火は、恐ろしげな彫刻類を照らしていた。


「新天地! 新天地!」


 コレーは大喜びで走っていた。

 冷たい黒曜石の床を駆け抜け、墓標めいた円柱の並ぶ廊下へと飛び込む。


「亡者どもよ、見るがいい! この私の愛らしさを目に焼き付けるといいわ! さぁ、コレーが来てやったのよ! デーメーテールの娘コレーが――!」


 コレーは、足を止めた。

 暗い廊下に、コレーの歓声が虚しく吸い込まれていく。

 ここはニューサの野ではない。ここはシラクサではない。ここは地上ではない。

 友はいない。ニュンペー達もいない。


「ひっ……」


 母はいない。

 かつて小舟で脱出した時でさえ、母の視線があった。

 それまでコレーは、母と二柱で一体の神だった。

 今は完全に、コレーはデーメーテールから切り離されている。

 生まれて初めて、コレーは自由だった。そうして生まれて初めて、コレーは孤独だった。

 その恐ろしいほどの空白が、華奢な体を飲み込んだ。


「ひっ、い……」


 ふらついたコレーは円柱に手をついた。

 視界が揺れる。呼吸が速まる。鼓動が乱れる。

 足元の地面が急にぐらぐらと心許ないもののように感じられた。あんなに自由を求めたはずなのに、今はそれが恐ろしくて仕方がない。


「お、おかあ……さま……」


 地上ならば、すぐにデーメーテールが駆けつける。

 しかし、ここは母の世界ではない。


「こ、こわい、こわい、こわい――ッ!」


 コレーは悲鳴を上げた。円柱にすがることもできずに崩れ落ち、頭を抱えてうずくまる。

 床に亀裂が走った。そうして、幻覚のように色鮮やかな花々が狂い咲く。

 声が聞こえたのは、その時だった。


「……あいつめ。まさか娘に力の制御を教えていなかったのか」


 そうして、コレーは強引に引き寄せられた。

 ハデス――陰鬱な顔をした冥王が今は必死の形相で、コレーの肩を抱き締めた。


「聞け。呼吸に集中しろ。深く吸って、吐く。一、二、三……」


 ハデスの低い声を聞きながら、コレーは震えながら呼吸する。

 そのうちに、爆発的な開花は徐々に落ち着いた。

 鼓動は静まり、不安も和らいでいく。


「落ち着いたのか」

「ええ……ありがとう……」


 コレーは弱々しい声で礼を言いながら、ハデスから離れた。

 もう一つ深呼吸をして、ゆるゆると顔を上げる。


「お、おじさま! 手が……!」

「大したことはない」


 淡々と言いながら、ハデスは自分の手からぶちぶちと花を引き抜いた。


「大したことだわ! 血が出てる……!」

「何、父親に呑まれた時に比べればどうということはない」

「やだ……私の近辺、父親に呑みこまれてる人多すぎ……」

「……しかし。この状態で地上に戻しても、いずれはまた暴発するだろうな」


 思わず口元を覆っていたコレーは、その言葉にハデスを見上げる。

 しきりに手をさすりながら、ハデスは渋面でコレーを見下ろす。先ほどまでは傷だらけだったその手は、今はすっかり癒えていた。


「相手が私だったからこの程度で済んだ。しかし、これがニュンペーや人間であったなら話は別だ。……体の内側から花が咲き乱れて死ぬぞ」

「ひぃ……でも、お母様は力の使い方とか教えてくれないもの。知らなくて良いって……」


 ヒマティオンの裾を握りしめて、コレーはうなだれた。


「…………教えてやる」


 ぱっと顔を上げると、なおも手をさすり続けるハデスと目が合った。


「……死者を裁くのは我々だ。死者が増えるのはどうでもいいが、お前がその死に関与した場合は死因に何をどう書けばいいのか判断に困る。故に……」

「力の使い方を教えてくれるの?」

「最低限必要な基礎のところまでだ。覚えたら、すぐに地上に帰らせる」

「やったわ! これで地上全部お花畑にできるわ……!」

「やめなさい。……しかし、冥界で行動するなら名前を考えた方が良いな」

「名前? なんで?」


 歓喜に震えていたコレーは、その言葉に首を傾げる。

 手をさすりながら、ハデスは物憂げな顔で赤い瞳を周囲に巡らせた。


「冥界には危険な霊も多い。そして神にとって名前とは重要なものだ。……コレー乙女という名前では、とって喰われるかもしれん」

「とって喰い返してやる」

「やめなさい。そうだな、ひとまずは……」


 ハデスはゆるゆると手を伸ばすと、コレーの額に人差し指を向けた。

 触れるか触れないかほどの距離にある指先を、コレーは期待のこもった目で見つめる。


「――冥界においては、ペルセポネーと名乗るがいい」


 冥王はその名を囁いた。

 途端、花の乙女はふらつくようにして後退した。


「ペルセポネー、ペルセポネー……」

「……地上の感覚では、少々厳めしい名前か」

「ふぉお、かっこいい……かわいい私にかっこよさまで備わってしまったわ……」

「……さっきから思っていたのだが、だいぶズレた感性をしているな?」

ペルセポネー光の破壊者……本当にそんなにかっこいい名前をもらっていいの?」

「……ああ。名乗るといい」


 ハデスは何故か曖昧な顔でうなずく。

 コレー改めペルセポネーは瞳を輝かせながら、「ペルセポネー」と新たな名を繰り返した。

 しかし、その表情が不意に曇った。


「ああ……でも私が戻らないと、お母様が……」

「私にも豊穣神の権能はある。だからお前はただ豊穣神の見習いにきたと、デーメーテールに取りなすようゼウスに伝える――さて」


 言いながら、ハデスはぱんと手を打った。

 するとどこからともなく黒い子犬が現われ、ペルセポネーの足に擦り寄った。


「かわいい。私とは違う種類のかわいさ」

「そいつについていけ。お前を部屋まで案内してくれる。――もてなしは期待するな」

「大丈夫。自分で自分のことをもてなすから」

「……待て。何をするつもりだ」

「さぁ、行くわよ。道中めいっぱい愛らしさを振りまいていきましょう」


 ペルセポネーは鞠のような足取りで、子犬についていった。

 ハデスはその後ろ姿に手を伸ばしかけて、やめた。そんな彼を、何者かが笑った。


「――坊ちゃん。やるねぇ」

「用事は済んだのだから去れ」


 くつくつと笑う声とともに、並ぶ円柱の陰から長身の女が現われた。


「お生憎様、あたしは『どこにいても良い』んだ。勝手にさせてもらうよ」


 派手な女だった。赤や青の入り交じった髪を腰に届くほどに伸ばしている。瞳は金色で、薄闇に煌めいてみえた。

 魔術の神ヘカテー――この冥界において、ハデスに次ぐ権力を握る強力な女神だ。


「しかし、あの笑わぬ者ハデスがデーメーテールのお嬢さんに一目惚れとはねェ……驚いちまったよ。それで? 婚礼はいつだい?」

「話を聞いていなかったのか。彼女が権能の使い方を覚えればすぐに返す」

「……本当に?」


 鋭い爪の生えた手で髪を掻き上げ、ヘカテーは目を細めた。


「名付けは執着の始まりだよ、坊ちゃん。しかも、あんな名前をつけておいて」


 ハデスは何も言わなかった。


「それにさ、お嬢さんに触れた感触を忘れられないんだろ。もう傷なんて残ってないのに、ずーっと手をさすってさ。気付いてないとでも思ったのかい?」


 途端、ハデスはさっと手を下ろした。


「これじゃ先が思いやられるねェ……」

「……どうやら相当退屈しているようだな。ちょうどいい。ここにいる間、お前はペルセポネーの侍女となれ。あれが頓狂な真似をしないよう見張っておけ」

「おやおや、いつになく堪え性がないねぇ。まっ、仰せのままにしておくよ」


 命令と同時に踵を返す、ヘカテーはひらひらと手を振った。

 そして、猫のような瞳を細めた。


「……もう少し、あんたは欲張っても良いと思うけどね」

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