第3話:冥王はとんでもない娘を攫ってしまいました

 光届かぬ冥界の底で、黄金馬車は止まった。


 御者は手綱を降ろし、一息を吐く。そして、抱えたままのコレーを見下ろした。

 コレーもまた、御者を見つめかえした。

 漆黒の長髪に、赤の瞳。角状の冠に黒衣。人間でいえば二十代後半かそこらかに見えるが、デーメーテールのように力ある古い神の気配がした。

 そして、男だった。

 ニューサの野に男はいない。かつてあらゆる男神がコレーに求婚をしに来たが、会話をする前に男嫌いのデーメーテールが片手でブチのめした。

 黒衣の男は、何も言わない。ただ赤の瞳を見開いて、コレーを見つめている。


「きさま、誰だ」


 コレーは怖い物知らずだった。


「じろじろ見るな。この私がとってもかわいいコレーと知っての狼藉か?」


 黒衣の男は、コレーを馬車の床に降ろした。

 そして直後、崩れ落ちた。


「なんということをしてしまったのだ、私は……!」

「えっ、ええっ……」

「ありえん! この私が! まったくなにをしている! 世界で最も理性的でなければならないこの私が、一時の気の迷いに突き動かされるとは! ありえん、ありえん! 冥王ハデスに呪いあれ! 呪われろ、永遠に呪われろ!」


 頭を抱え込み、床に這いつくばった黒衣の男は怨嗟の叫びを上げ続ける。

 コレーは対応に困り、とりあえず男をなだめることにした。


「えっと……落ち着いて。一体何が――」

「すまない。すぐに地上に返す」

「ああん?」


 黒衣の男は立ち上がると、青白い顔をコレーに向けた。苦悩の表情をしていた。


「私は一時の気の迷いでお前を拐かした。神として許されざる事をした。故にすぐさま馬車を駆り、お前をデーメーテールの元に返そう。……本当にすまないことをした」

「待て、不埒者」


 手綱に触れようとする男の手を、コレーは平手で打った。


「まずわけを話せ。話はそれからだ」

「いや……しかし……これは、本当に私の愚行で――」

「愚行かどうかは私が判断するから話せ」

「やめろ。手にツル草を絡ませてくるんじゃない。話す、つまびらかに話そう」


 ――黒衣の男は、クロノスの御子ハデスと名乗った。

 天界、海、冥界――三つの世界のうち、地下に存在する冥界を支配する神だ。


「めちゃくちゃ偉いひとじゃない」

「……まぁ、それなりに偉い」


 ティタン神族との戦いの果て、彼はくじ引きに負けて冥界を支配することとなった。

 陰気くさい冥界の仕事は、誰もが嫌う。

 けれどもハデスは、何も感じていなかった。

 なにせ生まれる前から不遇だった。今さら憤る感情も、嘆く感情もない。そんなものは、気の遠くなるほどの時の流れによってすっかり擦り切れて消えてしまった。

 ――コレーを見るまでは、と。


「待って。私は貴方を一度も見たことがない。なのに、貴方は私を見たというの?」


 するとハデスは、青白い指先を虚空に向けた。


「亀裂を覗いただろう」

「亀裂……岩山の亀裂のこと? 覗いたけれど……」

「私はそこでお前を垣間見た。お前は、闇に目が慣れていないから私が見えなかっただけだ」


 あの亀裂によって、冥界に陽光が差し込んだ。

 冥界に住まう死者は、陽光を嫌う。静かな冥界が狂騒に陥るかもしれない。

 ハデスはそれを懸念して、亀裂を見にいった。

 そこで、コレーを見た。

 花冠をした娘。陽光に金髪を煌めかせる、踝細やかな花の乙女。

 紫の瞳を細めて、乙女は冷たい闇を――その内に隠れるハデスを、焦がれるように見た。


「自分の内に……心などというものが残っていることを思い知らされた……」


 訥々と語るハデスの様を、コレーはじっと見つめた。


「そうしてお前が欲しくなった……お前を妃に迎えたいなどと愚かなことを企み……お前の父にも、私は許しを請いにいった……」

「父様? 私の父様に会ったの? どんなだった? なんて言ったの?」

「ゼウスは私に言った。『我が兄にして弟のハデスよ、聞くがよい。――女は強引な方が好きだ。デーメーテールには適当に言っておくから攫ってよし』と」

「対面したこともないのにろくでなしだとわかる」

「そうだ。そして、そのろくでなしの戯言を真に受けた愚か者がこの私だ」


 血の気の薄い唇を引きつらて笑うと、ハデスはがっくりとうつむいた。


「…………そうして、こうなったわけだ」

「もうちょっと冷静になるべきだったわね」


 真顔でうなずくコレーに、ハデスは深いため息を吐く。


「さぁ、これで納得しただろう。……馬車を出すぞ。お前を地上に帰す」

「待てぇい」


 手綱を握ろうとするハデスの手を、コレーは抑え込んだ。そして植物を絡ませた。


「痛い痛い痛い! 荊はやめろ!」

「こんなにかわいい私を手放すなんてどうかしているわ!」


 筋張ったハデスの手にしがみつき、コレーは紅潮した頬を膨らませる。ぽんぽんと音を立てて、その金髪に激情を示すかの如き赤い花が咲いた。

 一方のハデスは、どうにかコレーによって絡められた荊を引きちぎろうと苦心していた。


「わかっているのか、お前は私に攫われたんだ! 地上に帰りたいだろう!」

「別に帰りた……くは…………いや、帰り…………うん、その……」

「誘拐犯に余計な期待を持たせるんじゃない! 地上に帰りたいはずだ、お前は!」

「決めつけるなー!」


 瞬間、ぼん! と音を立ててコレーの髪に大輪の真っ赤な花が咲く。さながら爆炎の如く開いた花弁に、一瞬ハデスは身を引いた。

 コレーは顔をさらに紅潮させて、ハデスを睨み付ける。

 そして、ハデスの手にすっと手を滑らせた。

 白く滑らかな指先がもたらした魔性の感触に一瞬冥王は狼狽え、薄い唇を震わせた。


「コ、コレー……」

「い す わ る !」


 コレーは叫ぶと、馬車から飛び降りた。

 そうして暗く冷たい床に次々に花を咲かせながら、闇へと駆けていった。


「コレー! 待て! 迂闊に走るんじゃ――ぐおっ」


 ハデスは即座に追いかけようとしたものの、コレーに目を奪われていたせいでまったく意識していなかった強力な腕の拘束によって動きを阻まれた。


「絞め殺し植物だといつの間にッ! ――ヘカテー! おい、ヘカテー!」

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