第2話:誘拐成功

 その泉は、ニューサの野の片隅にある。

 澄み切った青い水面は、花々の影を映していた。降り注ぐ陽光は木々によって柔らかく遮られ、白のまだら模様となって野に揺れている。


「『お母様が心配する』『お母様がご機嫌を崩す』……まったく!」


 コレーはぷりぷりと怒りながら、泉の野原に足を踏み入れる。

 歩くたびに、その足跡に花がぽんぽんと咲いていく。初めは苛立ちを示すかの如く鮮やかな真紅の花が咲いていたが、徐々にくすんだ紅色へと変じていった。

 やがて立ち止まり、コレーは深いため息を吐いた。


「……嫌いじゃあ、ない」


 呟きながら膝をつき、コレーは泉を覗き込む。

 冷やかな水面には、母親と瓜二つの自分の顔が揺れている。

 目を閉じて、ため息一つ。


「……うじうじするのはかわいくないわ」


 コレーは首を振り、立ち上がった。そこでふと、野原の陰に眼をやった。


「ひびわれ、なくなってる……」


 以前、この地に地震が起きたことがあった。それにより灰色の岩山はわずかに崩れ、大きな亀裂が生じた。興味をそそられたコレーはそこを覗き込んだ。

 そこには、冷えた闇があった。

 光はない。果ても、底もない。ただ、かすかに水の流れる音がだけがする。


「花がない! なまいき!」


 そんな無窮の闇を前に、花の神コレーはまず理不尽に怒った。

 そして不意に冷静になると亀裂から身を乗り出し、果ての見えぬ闇を見つめたのだ。


「…………この向こう、何があるのかしら」


 亀裂の向こうはずいぶん気温が低いようで、乙女の吐息は白く染まった。


「お母様は、この向こうに何があるのか知っているのかしら……もし知らなかったら、疲れた時はここにいたいな……悪くない場所のようにみえるもの……寒くて、暗いけど……でも静かで、なにもなくて……黒いヴェールみたいに、私を包んでくれそう……」


 その時は、友人二人に『危険だ』と連れ戻された。

 そうしてふてくされたコレーは、日を改めて亀裂を探検することに決めた。

 しかし今、亀裂はどこにも見当たらない。


「せっかく、こんなにかわいい私がもっとよく見てあげようと思ったのに……。なっちゃいないわ! まったくなっちゃいないわ!」


 ぷりぷりと怒りながら、コレーは岩肌を軽く叩いた。当然びくともしない。

 コレーは深くため息を吐くと、その場を後にした。

 しかし、ふと何かに気を引かれた。自然と視線を向けたコレーは、立ち尽くした。


「なんて綺麗な水仙……」


 淡く日差しの注ぐ野に、一輪の水仙が咲いていた。

 それはまったく見事な水仙だった。輝かんばかりの花弁は、まるで黄金の雫のようだ。

 コレーは我も忘れて水仙に近づき、それを呆然と見つめた。


「花弁のみずみずしさ、触れずともわかる根の力強さ……見事だわ……まったく見事。私の手も借りずにこんなに見事に咲くなんて。なまいき!」


 感嘆しつつも、とりあえず怒った。

 しかし、水仙に魅入られたのは確かだった。


「これはどこかの神の御業かしら……もしかして、お母様? でもお母様は、私と違って花を綺麗に咲かせることにはあんまり興味がなさそうだけど――」


 コレーは首を振る。昂揚と陶酔によって、新たに色とりどりの花が髪に咲き誇った。

 そうしてコレーは地面に膝をつき、その細い手を水仙に伸ばした。


「持って帰って、お母様に聞いたら、わかるかしら――」


 瞬間、突如として地面が裂けた。

 漆黒の蹄が地中から生じ、そのまま黄金の馬車が飛びだす。

 草花と土塊とが、噴火したかの如く巻き上がる。そうして、かつて岩山の亀裂の向こうに見た――それよりも遥かに広大な闇が、コレーの前に広がった。

 突如として支えを失ったコレーの華奢な体は、そのまま闇へと落下しかかった。


「きゃ、きゃあ――っ!」


 悲鳴を上げ、コレーは手足をばたつかせる。

 強い力を感じた。誰かがコレーの手を掴み、引き寄せた。

 母よりもずっと大きく、筋張った手だった。そうして引き寄せられた先もまた、母の柔らかな胸とはまったく違う堅い胸板だった。

 コレーを片手に抱えた何者かは、そのまま素早く手綱を手繰った。

 漆黒の馬が、恐ろしい声でいなないた。

 馬車は空中で大きく旋回すると、元来た闇へと落下するように疾駆した。馬車を飲み込んだ瞬間、破けた地面は瞬く間に閉じ、元の平らかな形を取り戻す。

 そうして轟音を聞きつけた二人の女神が駆けつけた頃には、もうそこにはなにもなかった。


「一体なにがあったんだ」


 弓矢を構えたアルテミスが問う。

 アテナは鋭い目を辺りに素早く巡らせると、岩山のそばに駆け寄った。

 そこには、コレーが髪に咲かせていた花々が散っている。


「良くないことが起こったのは確かですね」


 アテナは花弁を拾い上げ、アルテミスを鋭い目で見つめた。


「私達の想像もつかないほど、良くないことです」


 アルテミスは弓矢を降ろした。そうして、のどかな景色を苦々しい顔で見渡した。


「……デーメーテール様がお怒りになる」

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