ハデス・スキャンダル

伏見七尾

第1話:家出失敗

 遠い昔の話だ。


 なにせ本当に昔のことだから、話の細かな部分は今となってはほとんど失われてしまった。

 故にこれからの話も、世間のものからは一風変わっていると思われる。

 全ては詩神ムーサの気まぐれのままに――。


 シチリアにあるニューサの野に、コレーと呼ばれる娘がいた。

 花々の絡む黄金の髪に、輝く紫の瞳。

 伸びやかな四肢に蜂蜜の香りを纏わせ、細やかなくるぶしで弾むように大地を歩く。

 そんな彼女はある時、ふと思い立った。


「ここじゃない場所に行きたい」と。


 コレーは早速ニュンペー(下級神霊)達の手を借りて、一艘の小舟を作り上げた。


「私は私のかわいさを世界に知らしめてくる。お土産に期待してちょうだい」


 コレーは、ニュンペー達の喝采に手を振って応えながらシチリアから旅立った。

 そして数時間の漂流の末に、見知らぬ浜へと辿り着いた。


「ここはどこかしら……」


 コレーは未知なる予感に心躍らせる。そして、はっと振り返る。

 砂丘に、何者かが立っている。どうやら女のように見えた。

 コレーは、大喜びで呼びかけた。


「我こそは掟もたらすデーメーテールの娘コレーである! そこの者、答えよ! この地の名はなんという! そしてそこ行くお前は何者か!」

「わたくしは掟もたらすデーメーテール……」


 母親だった。コレーは青ざめた。

 母は軽やかな足取りでコレーへと近づいた。青い顔をしたコレーを見下ろして、デーメーテールは娘とよく似た顔で微笑んだ。


「おかえりなさい、コレー……ここは反対側の浜ですよ」

「あ、あわわ……」コレーは失神した。


 宮殿に帰ったデーメーテールは、ニュンペー達に恐ろしい罰を与えようとした。

 娘を唆した、というのだ。

 コレーの必死の制止によって、どうにか最悪の事態は避けた。

 それきり、コレーはすっかり大人しくなってしまった。――表向きは。

 似たような毎日を繰り返すようになった。

 夜が明けたら、母の側で起きる。母に髪を整えてもらう。母とニュンペー達にペプロス(長衣)とヒマティオン(外套)とを着せられる。帯を結ぶのは母の仕事。

 食事は母と一緒にとる。

 そうして母が仕事に赴くのを、姿が見えなくなるまで見送る。

 たとえ母は離れていても、コレーの動向がおおよそわかっている。

 日が沈んだら母とともに夕食を食べ、母と湯浴みして、母と着替えて、母の横で眠る。

 この繰り返しから外れることを、母はともかく嫌った。

 ニューサの野の外に――シチリアの外に出ることは、許されなかった。

 友達はいた。

 輝く瞳のアテナ。金の弓矢を携えるアルテミス。

 彼女らは唯一外からやってきて、コレーと遊ぶ事を許されていた。

 父親が同じで、そこそこ歳が近い彼女らの前では、コレーも年相応(とはいえ人間からすれば途方もない年月は生きている)の少女でいられた。


 その日も陽光の注ぐニューサの野で、娘達は思い思いに過ごしていた。

 弓矢を手入れするアルテミス。生まれた時から被っている兜を磨くアテナ。

 コレーは二人の側で野原に寝そべり、ぼんやりと友人達を見つめていた。

 アルテミスが弓に矢を番え、射た。

 矢は寸分違わず、いくらか離れた場所にある細い木の真ん中に突き刺さった。


「私もやりたい」コレーは言った。

「やめておけ」アルテミスが即答した。


 コレーはぷーっと頬を膨らませ、アルテミスを睨んだ。

 しかしアルテミスは銀髪をなびかせて立ち上がると、木から矢を引き抜いて戻ってきた。


「やりたい」コレーは訴えた。

「やめておけ」アルテミスはにべもない。


「月神の目は節穴と見える。こんなにかわいい私が弓矢を持ったらきっとすごいことになるわよ。ね、ね、アルテミス。一回だけだから」

「月神の名誉にかけて触らせない。お前に射られるのは御免だ」

「けちんぼ」

「なんとでも言え。それに私だって誉れ担うデーメーテール様の機嫌は損ねたくない。この不死の身で餓えさせられるのはまっぴらだ」


 アルテミスは涼しい顔を崩さずにまた弓矢の手入れを始めた。

 頬を膨らませたまま、コレーはごろごろと野草の上を転がって抗議を示した。


「コレー、アルテミスを困らせてはいけませんよ」


 輝く兜を膝の上に抱えて、灰色の瞳をしたアテナが優しい口調で語りかけた。


「アルテミスは生まれた時から弓矢を使えるけど、貴女はそうもいかないでしょう。きっと弦を引くこともできませんし、矢尻で手を切ったら危ないですよ」

「……私めちゃくちゃ器用だから」

「でも私よりは不器用でしょう?」

「万物の大半はお前より不器用だぞ、多権能女神」


 アルテミスが口を挟むと、アテナは兜に頬杖をついて「そうでしょうか?」と首を傾げた。

 コレーは寝転がったまま、なおもむくれていた。


「外に出たい……」

「……気持ちはわかるが、やめておけ。デーメーテール様がお怒りになるぞ」

「でも、このままだと私がしおれちゃう……」


 コレーはため息を吐く。そしてふと起き上がると、金髪に絡む花の咲き加減を確認した。言った側から、しおれていないか気になったらしい。

 アテナとアルテミスは、顔を見合わせた。


「……コレー。デーメーテール様は、貴女を心配してらっしゃるのですよ。だって、たった一人の娘なんですもの。貴女を大切に思っているから……」

「こんなに破天荒で無鉄砲な娘がいたらどんな母親だって神経を尖らせる」

「アルテミス。もっと言葉を選んでくださいな」

「選んだつもりだが」


 やいのやいのと言い合う二人を、コレーはじっと見つめた。


「……二人のお母様も、お母様みたいな感じなの?」

「ごめんなさい……私の母は生まれる前に父上に呑まれてますし、私自身も父上の額を割る形で生まれたので、正直なところ母親というものがよくわからなくて……」

「壮絶な神生じんせいを送っているのね」


 真剣に考え込むアテナに、コレーはとりあえずうなずいた。


「ヘラ様とはよくお話ししますが、これも母親というには……」

「……あの方の話はやめてくれ」


 アルテミスはここで初めて表情を変えた。無表情だが、顔色が真っ青だった。


「あの方は……あの恐るべき神々の女主人は、私の母親に出産を許さなかった……母は方々を追い回され、そうしてオルテュギュアー島で私とアポロンを産んだ……。その後も、あの方には我々はずっと苦労をさせられ――おい。この話は他言無用だぞ、アテナ」

「ステュクスの水に誓って」


 念押しするアルテミスに、アテナは胸に手を当ててしっかりとうなずいた。


「……アルテミスのお母様は、どんな人?」


 コレーがたずねると、アルテミスは弦を鳴らしながら考え込んだ。


「母親……というか……あまり、母親として意識したことがない。仲は良好なのだが、なんというかこう……友神ゆうじんのような……何故だろうな……」

「ほら、アポロンを出産する時に手助けしたことも影響しているのではありませんか?」

「ああ、なるほど。だからか」


 アテナの指摘に、アルテミスはうなずく。一方、コレーは怪訝な顔をした。


「……アルテミスとアポロンは双子だったわよね?」

「その通りだが何か問題が?」

「なんでもないの……まぁ、私達、死すべき定めの人間とは違うし、そう……」


 コレーはいまいち理解が及んでいない顔で曖昧にうなずきながら、立ち上がった。

 そうして歩き出す彼女の背中に、アルテミスが声を掛けた。


「おい、どこへ行く」

「喉が乾いたから泉に行くの」

「溺れるなよ」

「なんで私が飛び込むと思ってるの」

「実際前に飛び込んだからに決まっているでしょう。……でも、コレー。早く戻ってきてくださいね。でないと、お母様が心配しますよ」


 コレーは「むー」とだけ唸って、振り返りもせずに駆け出した。

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