第5話 森の匂い
僕はしばらくの間、シュウイチを観察していた。
小さい身体、黒い髪、暗い瞳、その割りに明るい表情。
何度か言葉を交わしたけれど、特段知性が高い印象は受けない。
しかし、彼はアップデートしていないというハルの話が本当なら、言い換えれば、あれが先天的な知能であるのであれば話は別だ。
僕はほとんど手加減せずにしゃべった。話すスピードと情報量を落とさずに。
その会話に齟齬なくついてくることは通常できない。
知性に関する遺伝子のアップデートをしない限り。
だが。
そう、だが、それもほとんど意味がないことだ。
先天的、という言葉はすでに修正可能な形質と同じ意味になりつつある。
変わらないのは犯罪捜査などで個人を同定するためのミトコンドリアのSTRなど、法で規制されているものくらいだ。
彼は自分をアップデートできるのに、なぜしないのだろうか?
◯
「カヅマ」
僕は名前を呼ばれた。そこにはシュウイチがいた。
「どうしたの」
「ん。あのさ、すこし森を散歩したいんだけど」
「ああ、そうだね。一人で出歩かないルールだった」
「ついてきてくれる」
「いいよ。それにしても、いくら天然の森を歩くと言っても、セーフティネットがいたるところに設置されている。ひとりで出歩かないルールは大げさだと思うけれど」
シュウイチは僕のおどけたような言い方に相好を崩した。
「まあね」
僕らは森に出るために準備をした。準備と言っても外を歩くための靴と緊急用のデバイスを持つだけだけれど。
しばらく外を歩いていて、日を浴びる。
僕は前から気になっていたことをシュウイチに訊いた。
「Gstを一度も使ったことがないって本当?」
「そうだけど」
シュウイチはこともなげに言う。僕は思わず聞いた。
「どうして?」
「どうしてって……理由は考えたことないな」
「誰だって君ぐらいの歳には10回はアップデートを経験しているはずだ。どうして君はしなかったの?能力が欲しくないの?」
「え?」
シュウイチは不思議そうな顔をした。
「だって……別に義務じゃないし」
僕はよほど怪訝な顔をしていたのだろう。シュウイチは慌てたように付け加えた。
「アップデートしたければ大人になった後からでもできるし、困ったときにやればいいでしょ」
慌てたように口にした言葉だったのに、なぜか僕は彼が一生アップデートしないような気がした。
◯
「僕には嫌いな奴がいた。
そいつはいつもGeneSourceTreeからのデータで、自分をアップデートする。
わかりやすい奴だ。
この社会の権化みたいだ。
そして僕は、この社会が嫌いだった。
だから、そいつのことも嫌いだ」
◯
シュウイチと僕はしばらく森を歩いた後、ログハウスに戻った。
ログハウスでは、ハルとトウマ、そしてシンゴが畳の上で何か飲みながら話をしていた。
「カヅマ、戻ったのか。シュウイチも。二人で何してたの」
「ただの散歩だよ。そっちは?」
僕が訊くとシンゴが応えた。
「こっちもただのおしゃべりさ」
「なんの話?」
「みんなどうやって自分の『定向』を決めてるのかなって」
トウマは柔らかい容器に口を付ける。飲み終わったようだ。ゴミ箱に投げられた容器はすぐに崩れて、分解されていった。
「前も言ったけれど、俺は長生きできると思ってモデルをし始めた。それに友達もやってたし。ハルはどうしてゲーマー?」
「とくに考えてなかったけれどね。なんとなく。ただまあ、なんとなくでもいいところまで行けるからね」
シンゴは僕たちの方を向いた。
「カヅマとシュウイチは?」
「僕は父さんが法律家だから。そういえばシュウイチの話は聞いてないな。何になりたいの?」
「んん、わかんないな」
「わかんないって」
「考えたことないよ。必要になったら勝手にそっちに行くだけ」
「そっち?」
「インテリジェンス・デザインの人たちの方」
シュウイチを見ていると、胸が苦しくなった。
◯
積み重ねていく、データたち。
僕らはこうやって変化していく。
性格も考えも。
こんなふうにアップデートしたあとは別人だ。
その変化は可逆だけど、後戻りする人なんていない。一度手にした能力を手放す人なんて。
だから、この記録は遺書だ。
もう自分が何を考えていたのか、何を感じていたのかも思い出せない。
土を踏みしめる感覚も。森の匂いも。それらについて何を感じたか、何を考えたか、全部なくなってしまう。再び同じように感じることはないんだろう。
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