中傷者に容易に耳を傾けてはならない

題にしたこの言葉は古代の哲学者セネカが述べた言葉だそうです。



要約してみますと、人には人間的欠陥、嫌嫌耳にしながら進んで信じ、

「判断する前に怒るという過ちを」


我々はこの欠陥を己に銘記し用心しておくべきだ。



この警告からこう続きます。


だがどうだ。中傷はおろか、ちょっとした疑念によって駆り立てられるとは…

他人の視線や笑いを悪くとり、何の悪意もない人に憤るとは。


これは人間が怒りや己の主義に囚われ易いと表している段です。

そこからセネカは人々に訴えます。



だから「自分自身に対抗して」、欠席者の弁護を行い


怒りは「未決状態」にとどめておくべきである。


罰は延期されても科すことが出来るが



「執行後に取り消す事は出来ない」




我々はこの偉大な哲学者セネカの、このたった一言を改めて今心に刻むべきではないでしょうか?



私事ですが、私は他人に今迄の仕事の経歴を話すとほぼ確実に「何故辞めなかったのか」と叱られます。



今思い返しても「中傷者」や「独裁者」、はたまた偶然を装った「殺人者」迄周りに居たのですから。


中傷者はほんの小さな過失を針小棒大に吹聴します。

ただ他人より太っていた。たったそれだけで今はイジメの対象にもなりますよね?


そして現代では刑罰の執行は「早い」のです。

皆が一人被害者…いや冤罪者を作ることでその「自分の小さな世界」の秩序が保たれるのですから。


自分は標的にされない。


無視しただけ。


それぞれ発覚時の免罪符を握って。



令和四年。日本で抜群の知名度のある人が殺害されました。


メディアや個人が番組で上げたり下げたり混ぜたりしながらその殺害事件を「膨らませます」


真実が分からない。それ故に顔の見えない中傷者が四方八方に火をつけている様です。


その抜群の知名度によりまた新たな火種ともなるでしょう。本人はもう話せないのですから。


ですが知名度は「好意」とは限らないのがこの火宅の世の中。


知名度は注目も意味します。

ですから我々は有名無名に関わらず、人目が無いからこそ、天が見ているという言葉を伝えています。


「天網恢恢疎にして漏らさず」


「天知る、地知る、私知る、君知る、誰が知らぬと言うのか」


大陸の故事でも


「李下で冠を直さず」


「瓜畑で靴を直さず」


誤解を招く事を極力避けて、人目が無いからこそ襟を正す。

失われつつある我々の慎みなのかもしれません。





皆様。

フォーカスすればそれは問題です。

ですが一旦注目を外し、広い視野で周りを見てみませんか?


名も知らない人が電車に飛び込んだ。


また知らない人は首をくくった。


幼い子が靴を揃えて屋上から落ち命を断った。



広い視野で見るほど「大問題」ではないですか?


知らない所で我々は無感情に人に怒りや悪意を向けていないでしょうか?


自分は気をつけても、顔を隠した誰かが耳元でささやきませんか?



冒頭セネカは申しました。



罰は延期されても科すことができるが


執行後に取り消す事は出来ない

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