大人になる道すがら

桜木 耀

大人になる道すがら

あれ?大人って誰に『助けて』って言えばいいんだっけ?


あの日、まだ子供だったあの日。

膝を抱えて泣きじゃくる俺の頭を優しく撫でてくれたのは、母さんだっけ?ばあちゃんだっけ?


あの時は幸せだったな。

周りに頼れる人、信頼できる人がたくさんいた。


俺は【守られる存在】だった。


あれから世界は歳をとった。

俺も、母さんも、ばあちゃんも。


もう俺の周りには、あの時あったものはほとんどなくなっちまった。


時間って、本当に残酷だよな。








「おい!藤野!」


俺を呼びつける上司の大きな声が、小さなオフィスに響き渡る。


「またここミスしてるじゃないか!何回も同じことを言わせるな!いつまでも新人じゃねえんだぞ!」


「はい。すみません。」


おれは上司に向かって、もう何回目かになる謝罪をする。周りからは、あぁ、またあいつか…という冷ややかな視線が向けられる。


「謝ればいいってもんじゃないんだよ!ちゃんと結果を残せ!結果を!」


結果ってどうやって残すんだろう。

結果がもし売っていたとして、100万円だったら買うかな。いや、俺はきっと買わないな。俺にとっての結果は100万の価値もない。

俺はただ床を見つめながら考える。



「はい。頑張ります。」


自分の口から自分の意思ではない言葉が出る。


頑張るって言葉、俺は嫌いだ。



夜、近くのコンビニで夜飯と缶ビールを買う。家に帰ってそれを食う。

最近のコンビニって何でも売ってて凄いよな。


唐揚げ弁当を食べながら、子供の頃に母さんが揚げてくれた唐揚げを家族で囲んでいた頃を思い出す。


俺が美味しいと食べれば食べるほど、母さんは嬉しそうに笑った。今思えば、飯を食べるだけで褒められるなんて凄いことだよな。


薄暗い部屋の、固い床に座ってベッドに寄りかかりながら缶ビールを飲む。

俺の周りを、小さな子供が走り回っている。


そう、俺の家には子供がいる。

俺にしか見えないこいつは、子供の頃の俺なんだ。



無邪気に笑って、楽しそうにはしゃいでいる。希望しかない世界で、一分一秒を楽しむように走り回ってやがる。


こいつは幻だから言葉を話すことはない。

時折、無言で俺の目をじっと見つめてくるんだ。

ガラス玉みたいな透き通った目に、淀んだ俺が映る。



「おい、ガキ。いいだろ。大人ってのはな、なんでも買えるんだぜ。母さんに怒られることも、嫌いなもん無理矢理食わされることも、宿題もテストも無ぇ。遅くまで起きてても誰にもどやされねぇんだ。大人って…自由なんだぜ…。」



過去の俺ははじっと今の俺を見つめたまま、走り去っていった。




次の日の朝も、身支度を整えて仕事へ行く。


そして上司に怒られる。

母さんに怒られはしなくなったけど、俺毎日上司には怒られてんじゃん。こいつ俺の母さんだっけ?


社会人になって毎日怒られて過ごすうちに、あぁ、俺って使えない人間なんだなってことが分かってきた。同じくらいの歳のやつでもテキパキ仕事をこなす奴もいる。

仕事が出来なくても、持ち前の愛嬌ってもんで上司にうまく気に入られてる奴もいる。



それってどこで決まるんだろう。

母さんの腹の中?生まれた瞬間?

学校生活でそんなこと教えてもらわなかったよ。

先生は個性は大事だって言ってたよ。


個性にも好かれる個性と嫌われる個性がありますよって、だから個性を持つならいい個性を持ちましょうねって教えてくれりゃよかったのに。


あれも嘘。

これも嘘。

いや、俺自身が嘘の塊か。




疲れて家に帰ると、そこで待っているのは子供の頃の俺。


今日もまた一段と楽しそうだ。

お前の見てる世界ってのはどんなんだ?

俺も昔見ていたはずなんだけど、実家を出てくるときに置いてきちゃったのかな。

きっと眩しすぎて、今の俺には耐えらんねぇんだろうな。



「おい、ガキ。大人って最高だぜ。俺さ、毎日楽しいんだ。だからそんなに毎日俺のところに来なくたっていいんだぜ。」




「心配しなくても…俺は…大丈夫だから…。」




話しながら涙が頬を伝う。

俺はいつからこんなに泣き虫になった。

いつからこんなに嘘つきになった。


床に涙が落ちる。

いくら俺とはいえ、子供の前で泣くなんて情けない。

けれど一度流した涙はもう止められない。

俺は、子供の前に蹲りながら、ただ泣いた。



「ごめんな。俺、こんな大人になっちまったよ。お前もガッカリだよな…憧れてた警察官にも消防士にもなれなかった。大人になったら何でもできるって思ってたけどさ…俺、たくさん無くしちまったんだ…夢も、希望も、友達も、家族との絆も…ごめん…ごめんな…」



そうしていると、頭にふわりと暖かい感触。

顔を上げると、小さい手が俺の頭を撫でていた。

そのひどく小さな手は、温かくて柔らかかった。優しい、優しい手だった。


あぁ、ガキの頃、俺が泣いていると母さんがいつもこうしてくれてたっけな。

こいつの笑った顔、父さんにそっくりだ。

お前が下げてる虫かごは、ばあちゃんが買ってくれたんだよな。



忘れかけていた思い出とともに、さらに涙が溢れてくる。

まるで子供に戻ったかのように、わんわん泣いた。



なぁ、大人って辛くなったら誰に助けてっていえばいいの?


何回転んでも、痛くてもつらくても、涙で顔がぐしゃぐしゃになったって、誰も助けてくれない。踏ん張って、奥歯食いしばって自分の足で立たなきゃいけねぇ。


起き上がったってまた転ぶかもしれないし、そう考えるとさ、お前の方が歩くのも転ぶのも起き上がるのも上手いよ。



大人ってさ……大変なんだよ…。



お前は幸せだ。みんなに愛されてんだぜ。

守ってくれる人がすぐそばにいるんだ。

大切にしろよ。

笑顔にしてもらえたぶん、笑顔を返すんだ。

守られたぶん、お前も守るんだ。



ひとしきり泣いた後、腫れた目でアイツを見る。ガキの頃の俺が、笑いながら口をパクパクさせる。


【が ん ば れ】



声は聞こえないが、そう言っている。

俺が意味を理解したのを確認すると、アイツはにっこりと笑って、楽しそうに走って記憶の彼方へ消えていった。



「…俺、頑張るって言葉…嫌いなんだよ…。



そう呟いて、俺は立ち上がる。


あれだけ泣いたからか、心なしか気持ちもスッキリとした。

俺がずっと感じていたのは過去への羨望か、自分への罪悪感か、未来への不安なのかはわからない。



今度実家に連絡してみよう。

みんな元気かって、俺は元気にやってるよって。


それにしてもアイツの目、本当に綺麗だった。もうあの目には戻れないけど、もう一度光が見えるようにはなるかな。


今度アイツに会う時は言ってやるんだ。


「大人ってさ、最高なんだぜ。お前もゆっくりでいいからカッコいい大人になれよ。」って。


さて、早く風呂に入って寝ないと。



俺には俺の明日があるんだ。

あいつにはあいつの明日があるように。

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