第17話
服部はまた洋室から別なクロッキー帳を持って来ると、ほらとこちらへ差し出した。
なるほど、確かに、昭和の雰囲気の部屋がそこには記録されていた。
整理箪笥の上の本はなんだったのかと聞くと、ジャン・コクトーとゲーテ。椿姫。それから純文学も少々と答えた。服部は「彼女らしいよ」と笑った。
着物は豪華なものではなく、普段着だったのも「彼女らしい」と言い、帯も帯締めも地味で、でも「趣味はよかった」と教えてくれた。
服部の本棚にも同じ本がある。幾度も読み返したのだろう、黄ばんで、端がめくれて、ぼろぼろになっている。
彼女の絵を描くつもりなのかと尋ねると、服部は「うーん」と曖昧に唸った。
服部の話しているアモーレ広場はもう跡形もない。再開発の工事は着々と進んでいる。街は完全に新しく、恐らくはもっと近代的で機能的に生まれ変わるのだろう。
そして第2のエリザベスは決して現れることがないのだろう。そんな余地のない街ができることは予想できる。
服部は自分の経験と、自分が見たものの貴重さを感じているのだろう。それは彼自身のセンチメンタルだけではなく、失われて行く歴史の遺物への崇敬にも似ている。
戦争で失われた町が再生され、そして今また違う理由ですべてを破壊し再構築しようとしている。服部の横顔にはそのことを寂しく思うのと同時に、やり場のない憤りのようなものが漂っていた。
彼もまた、今、思い出を失おうとしているのだ。
雨はえんえんと降り、朝の光を隠してしまった。明け方近いというのに、太陽の気配さえ見えない。
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エリザベスの葬式の葉書。それが俺のところに届いたのには理由があるんだよ。
あの時手紙を残したのは、そういう意味では正解だったね。結論から言うと、案の定エリザベスはあの家には戻ってこなかった。これなかったというのが正しいんだけど。
スナックのママが言ってたように、やっぱりとても一人で暮らせるような状態じゃなかったんだよ。麻痺が、ね。リハビリしてもほとんど体動かせない感じ。年齢的なこともあるんだけど、彼女ものすごく衰えちゃってさ。そのまま施設に入る形になったんだよ。
税金も払ってないのによくぞ入れたなって思うけど、これはね、本当かどうかちょっとあやしいと思うんだけど、スナックのママが教えてくれた話しだと、エリザベスがさ、実は箪笥預金というか、まあ、金目のものをちゃんと隠し持ってて万が一の時の為に一筆書いて遺してたって言うんだよ。
金目の物ってなんだろうな。宝石? 俺にはまったく分からん。縁がないから。けど、そんなもんがあるようには思えなかったけどね。二階の部屋も見たわけだけど……。質素な感じだったから。
まあ、年から考えたら何か一筆遺しててもおかしくはないけどね。
でもこれってママの想像の話だと思うよ。「そうだったらいいな」っていう希望。願望でもあるね。年老いた女が無一文で放りだされたと思いたくないんだろ。年齢からいうとママの方がちょっと若かったと思うけど、生い立ちや境遇は似たようなものがあったんじゃないの。戦中戦後っていうのは、さ。
とにかく実際にエリザベスは施設に入ったことは入ったんだから、何が本当のことなのかは分からない。
エリザベスがどんなことを書き残したのかも分からない。万が一ってことは、自分の氏素性のことなんだろうな。たぶん。
彼女の家族? さあ? 聞いたことないな。本人年取ってんだから親兄弟がいたとしても、もう死んでるだろう。夫や子供がいたとも思えないし、親類とかもどうかなあ。ああいう風になって付き合いがあるはずもないだろうし。やっぱり天涯孤独って考えるのが普通じゃないの。悲しいけど、それが現実だろう。
エリザベスが施設に入ったって聞いてから、あの長屋の人たちもエリザベスを皮きりにするみたいに、順番にいなくなっていった。スナックもなくなって、ママも出て行って。エリザベスの部屋は鍵がかかるようになってた。
部屋のものは全部持って行かれてたって、ママから聞いたよ。捨てたものも多かったみたい。それも仕方がないことなんだろうな。一人で年を取って、一人きりですべてを始末するっていうのはさ、多分にそういう要素を含むってことなんだろう。孤独死や、もう意識のない状態で本人の意思とは関係なくすべてが片付いていってしまうっていう、さ。
俺は彼女に何もしてやれなかった。もっと優しくしてやればよかったとか、彼女の話し聞いておきたかったなとか、後悔だけ。
二月のクソ寒い時で、雪が降ってた。今でもはっきり覚えてる。スナックも小料理屋もいよいよ扉にベニヤ板打ち付けた状態になって、辺りはそろそろ立ち入り禁止になりそうな感じだったけど、俺はまだぶらぶらしてて、その日もなんとなくエリザベスの部屋の前に立ってぼんやりしてたんだよ。
そしたらさ、後ろからスーツのおっさん二人組が「なにしてるの」って声かけてきたんだよ。
なにって言われてもな。俺「別になにも……」ってそこ離れようとしたんだけど、おっさんの片方がいきなり「もしかして、君、エリザベスのアモーレ?」って言うんだよ!
びっくりするなんてもんじゃないよ! ぎょっとするよ! 驚いておっさんの方振り向いたら、おっさんは「あー、やっぱり」ってちょっと笑ってさ。「君のこと、探してたんだよ」って。
誰が探してたのかって? エリザベスだよ!
聞きたいこといっぱいありすぎて、何言っていいのか分かんなくてパニックになったんだけど、この人たちは実は役所の「福祉の人」たちで、エリザベスの面倒を見てくれた人たちだったんだよ。で、俺に「エリザベスに手紙残したでしょ」って言うわけ。
ちょっと話せるかなっておっさん二人が言うから、一緒にスターバックス行ったんだよ。歩いてる間もおっさんは「高校生?」とか聞いてくるんだけど、こっちは答えようがないよな。高校生じゃないし、エリザベスとの関係を聞かれたらなんて言ったらいいんだろうって焦ってたし。
でも、責めるとか怒られるって感じはなかった。おっさん達、単純に事実を知りたいって思ってるだけなんだなっていうのは伝わってきて、スターバックスでカプチーノ奢ってもらってやっと人心地ついたというか、落ち着いて話せる感じになったから、俺もいろいろ聞きたいことあるからって質問したんだよ。
もちろん俺も聞かれたことにはちゃんと答えたよ。あー、まあ、セックスに関することは、ちょっと言えなかったけど。高校辞めてぶらぶらしてる時にアモーレ広場で歌ってるエリザベスを見かけて、音楽好きだし、よく見に行くようになって親しくなった……って感じかな。嘘じゃないだろ。エリザベスが、俺が絵を描くことが好きだって言ったら、もっとそっち方面で頑張るように勧めてくれたり、いつも音楽や芸術の話をしてたのは本当のことだから。
彼女の氏素性はよくは知らないし、何で生計立ててるとかも知らないって言ったけど、これは、まあ、半分は嘘。しょうがないよ。言えないだろ。けど、今でも俺は何が本当で何が嘘だったのかよく分からないよ。エリザベスが本当に真実を俺に語ってたのかっていうとそれは分からないだろ。そもそも彼女の存在そのものが冗談みたいっていうか、まるきり現実味のない、虚構の出来事みたいなんだから。
それでも何となくエリザベスのことを悪く思われたらいけないと思って、いかに彼女がかしこくて優しくて、知性と教養があって、上品だったかをできるだけ、多少は盛って、話したわけ。裕福な育ちで留学の予定があったことなんかもね。戦争ですべてを失ったと話してたこともね。
おっさん達は「そうなんだ」「へえ」って普通に感心したりびっくりしたりしながら聞いて、それから俺にエリザベスのその後のことを教えてくれた。
倒れてから意識が戻るまでちょっと時間かかったこと。意識戻ってもちょっと混乱してて、自分の名前なんかも言えなかったこと。だんだん思い出してきたけど、後遺症なのか、認知症なのか、色んな記憶が曖昧で言動におかしなことが目立つようになってきたこと。
エリザベスの家財道具は適正に処分され、現金化されたものは病院の支払いだとかに充てて、生活保護を受けることになって、こんな町中じゃなくて、ちょっと不便だけども「静かで」「自然の豊かな」「落ち着いた」高齢者向けの施設に入居することになったってこと……。
静かで自然豊かでって言うのは、ど田舎って意味だよ。俺は咄嗟に姥捨て山を連想しちゃったけど、あながちはずれてもないと思うよ。
入居して初めのうちは体や言葉が不自由なりにも名前や呼び掛けにも反応したし、まだ自意識を保つことができてたらしい。けど、次第に反応が鈍くなってきて、おかしなことを口走るようになってきて、ついにはでっかい声でオペラ歌ったりし始めたんだってさ……。
俺、思わず、それは認知症じゃないです!って言ったんだよ。それが彼女の本来の姿です、って。
若い頃に音楽を学んでいて、そのせいで完璧な発音でイタリア語やフランス語でオペラのアリアやシャンソンを歌うんです。反応が鈍いかどうかは分からないけど、もともと彼女は上品でおっとりとしていて、動作はともすれば緩慢にも見えるほど優雅で、だからボケちゃったんじゃなくてむしろ自分を取り戻したんです。俺、スターバックスで大きな声出しちゃったよ。店員が怪訝な顔でこっち見るぐらいに。
おっさん達、すごく面喰らってた。なに言ってんだこいつって思ったんだろうなあ。
「彼女の名前がエリザベスっていうのは、君も知ってたの?」
って聞くから、しょうがないからそこは正直に「僕もエリザベスって呼んでました」って言ったよ。おっさん、ますますびっくりしてたけど。
「じゃあ君はアモーレって呼ばれてたの?」なんて聞かれたけど、それはノーだよ。俺ね、その時までまったく何も考えてなかったんだけど、エリザベスに自分の名前名乗ったこと一回もなかったんだよ。聞かれなかったし……。名前なんて言わなくても成立してたから。彼女は俺のことを「あなた」とか三人称単数で呼んでたし、初めに名乗らなかったら、もう名乗るタイミングないじゃん。だからエリザベスは俺の名前なんか知らなかったわけ。
彼女の仕事のことを考えたら、それが当たり前だったんだろう。一度限り、一晩限りの関係で、目の前を通過していくだけの相手に名前なんかいらないだろ。
おっさん達が教えてくれたのは、
「エリザベスは『彼が私をモデルにして絵を描いてくれるの。とても才能のある素晴らしい人よ。恋人? 彼は私をそんな風には思っていないわ。だってこんなおばあさんを恋人になんてできないでしょう。でも、私にとってはアモーレ』ってみんなに話してる」
ってことだった。
おっさん達も慣れてるんだろうな。こういう訳ありな老人のケアというか、フォローに。俺は手紙も残してきてたわけだし、俺の存在っていうのがエリザベスの何なのかはっきりとは言葉にできなくても、アモーレと呼ばれるに値するような何かであることは察したと思う。
俺ね、エリザベスに会うことはできますかって聞いたんだよ。
おっさん達、困った顔してた。たぶん、本当は、教えちゃいけなかったのかもしれない。親族しか会えないとか、個人情報だから誰にでもべらべら居所教えられないとか、何かそういうのがあるんだろうな。
で、たぶん、本来なら教えなかったと思うし、会わせては貰えなかったと思うよ。いくらボケちゃったとしてもね。けど、その人たちは困りながらも教えてくれたんだよ。俺はあの置き手紙の愛してるが効いたのかなって思ったよ。
教えてくれつつも、おっさんがさ、言うわけ。「本当に会いに行くの?」って。
行くだろ。行くから聞いてんじゃん。でも、おっさんは心配そうに「会ってももう君のこと分からないかもしれないよ」って言うんだよ。
まあ、そうかもなあ。そうだろうなあ。俺もそこらへんは馬鹿じゃないから、分かるよ。おっさん、俺が不必要に傷つくんじゃないかって心配してくれて言ってるんだってことも、分かる。いい人達なんだよな。ようするに。
親切で言ってくれてるんだよな。それは、ありがたいと思うよ。でも、会わないことの理由にはならないからな、それ。
それから他にエリザベスの体調のことや生活のことなんかも聞いて、名刺もらって、俺も連絡先を一応教えて。それで別れた。
ん? 会いに行ったのかって? 行ったよ。もちろん。すぐに。
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