第16話

 降りしきる雨を横目に、服部が見せてくれた葬儀の案内の葉書をしげしげと見つめるとそこには葬儀の行われる場所と、日時が書かれていた。


 これはエリザベスかと尋ねると、服部は頷いた。


 葬儀の日程が先週の日曜日であったことから、服部の長い告白の理由が分かったような気がした。


 ふと気付くと縁側に体を投げ出すように寝転んで、猫を撫でる服部の目から涙が一筋零れ出していた。


 声もなく、音もなく、静かに服部は泣いていた。その涙は降りしきる雨とシンクロするようだった。


 ひどく傷ついた人を前にしてかける言葉というのは簡単に思いつくものではない。安易な慰めなどもってのほかだろうし、哀れみも違うように思う。苦労を労ることも、ねぎらうことも違う。心底傷ついたものにかけるべき言葉などないというのが本当なのだ。優しさでさえもなんの慰めにもならない。


 猫は服部に撫でられながらぐうぐう寝ている。飲みつぶれた仲間たちも、また。


 手を伸ばして服部の眼尻の涙を人差し指で拭うと、服部は覚悟はできていたんだと呟いた。


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 その、スナックのママがけっこういい人でさ。ママっていっても、エリザベスといい勝負できるほどのばあさんだったけど……。なんだろうね、戦後の古強者みたいな? 濃い化粧して、しわしわの咽喉もとから鎖骨まるだしの胸の開いた服着てて。この人はエリザベスと違って太ってる方だったけど。安っぽいぺらぺらのアクリルの、ぴっちぴちの服に、張り裂けそうな膝上のタイトスカートから、太ってるんだけども張りのない脂肪のだらーんとした脚出してるばあさん。


 え? 本当にいい人だと思ってんのかって? 思ってるよ。別に今のは悪口じゃないからな。事実。事実を述べてるだけ。その証拠にブスとは言ってないだろ。年取ってんだから、もうこの際太ってようが痩せてようがどうでもいいじゃん。女の価値はそこじゃないってこともうとっくに分かりきってる年齢だろ。


 ママは元々俺がエリザベスんとこに来てることを疑問には思ってたみたいだけども、エリザベスがさ、言ってたらしいんだよ。才能のある若者が遊びに来てくれるのよって。芸術や音楽の話をするの、って。


 それ本当のことだから。才能ある若者っていうのは、あれだけど。


 ママが教えてくれたんだよ。エリザベスが「若い人って、素敵ね。若いというだけで多くの可能性を持っている。この平和な時代に。それがどんなに眩しくて素晴らしいことか、本人はまったく知らないのだけれど」って言ってたって。


 まいったね。その通りだよな。エリザベスは俺と過ごしてて幸せだったのかな。楽しかったのかな。分からない。


 そうやって俺のことを知ってたもんだから、エリザベスが救急搬送された後もうろうろしてる俺見つけて、いろいろ教えてくれたんだよ。


 容態は安定してるとか、命に別条はないとか。でも、意識はまだはっきりしてないってことも。


 俺はなんも知らないガキだから命に別条がないって聞いただけで、じゃあ大丈夫なんだなって思ったけど、そんなわけないって今なら分かる。高齢で脳梗塞で、麻痺が残って……っていうのはさ、認知症への最短ルートだろ……。でもそん時はそんなこと分かんないから、ママに「いつ帰ってくるんですか」って聞いたんだよ。


 ママは困ったような、呆れたような顔で「もうここには帰ってこないと思うよ」って言うんだよ。そんでさ「このあたり一帯ね、エリザベスのところも含めて、再開発で立ち退きがかかってんのよ」って言うじゃんか。そんなこと初めて聞いたよ。立ち退きって、なんじゃそりゃ! って感じ。


 そしたらママが丁寧に説明してくれるわけ。馬鹿なガキんちょに。


「このあたり、みんな古いでしょ。戦前からそのまんまみたいな古さ。今どきこんな長屋どこにもないんじゃないの。そう考えたらなんとか遺産とかになってもよさそうなもんじゃないのよ。ねえ。でもそういうわけにもいかないのね。私んとこも立ち退きでね。店、閉めることになってんの。もうこの年齢だから商売は無理よ。引退ね。あたしはいいのよ。ちょっとばかり立ち退き料なんてのも貰ったしね。あとは年金で隠居生活ってわけよ。でもエリザベスは違う。彼女、ここら辺で一番古株だけど……。ほら、こんなこと言ってはなんだけども、商売もねえ。あれでしょ。もう客なんかいないでしょ。今まで食えてきたこと自体が奇跡みたいなもんなんだから。元はどこぞのお嬢様だかなんだか知らないけど、今じゃ身寄りもない独居老人じゃないの。仕方ないことだけど。ある意味ね、あのまま死ななくてよかったわよ。孤独死っていうの? それじゃああんまりにもかわいそうじゃない。でもこうなったらいよいよお役所の福祉の人がどうにかしてくれるでしょ。でなきゃ、あんた、なんの為のお役所なのよ。なんの為の税金なのよ。死にそうなばあさん一人助けないって、さ。ねえ、そう思わない?」


 ママの話はもっともだと思ったけど、エリザベスが税金払ってたとも思えないね。まあいいわ。それは。確かに孤独死よりはいいよ。命が助かったからよかったようなもんを、あれ死んでたら事件だよ。俺、絶対、容疑者だよ。まあ、それも今となってはどうでもいいんだけど。そういうことじゃなくて、さ……。


 俺がびっくりしたのは、昨日まで普通に商売してたこのママも、料理屋の大将も、実はみんなみんなまるごと立ち退きで、まるで夢から覚めたみたいに全員いなくなっちまうことが決まってたんだってことだよ。それどころかその長屋も路地も全部ぶっ潰して綺麗に更地にするんだって。新しい町、クリーンな町の構想だかなんだかしらないけど。そうやって古いものを追いたてるようにして、そうまでして新しいものって必要なのかね。その都市計画にはアモーレ広場も含まれてるってこと、その時は知らなかったけど。


 で、さらにびっくりさせられたのは、この立ち退きの話しが進むと共にすでに前々からエリザベスのところには役所の福祉の人っていうのが来てたんだってさ。

 俺、そこで初めてぴんときたっていうか、分かったんだよ。彼女が「お客がくるの」って言ってた、あれ。彼女を買いにくる客じゃなかったんだよ。役所の人間が来るってことだったんだよ。道理で……道理で……。おかしいと思ったんだよ。今さら客なんかって思うのが正しかったんだよ。


 ようするに、立ち退きと、その後のエリザベスの行先について話し合いってことだよな。生活保護? まあ、そうだろうね。


 俺、本当にどうしていいか分からなくて。病院に見舞いに行けないか聞いたんだけど、他人はダメだっていうし。そもそも誰もエリザベスの名前が分からないんだって言うし。そう言われたらそうだよな。じゃあなんでママは病院に運ばれた後のこと知ってんの? って聞いたら、それも役所の福祉課だかなんだかの人に聞いたんだってさ。そういうの個人情報で教えてくれなさそうなもんじゃん。でも、エリザベスの場合は身元がよく分かんないし、親類なんかもいるんだかどうなんだか分かんないから、役所の方から近所の人たちに聞きこみに来たんだってさ。


 このまま彼女に会えなくなる。そう思ったらいてもたってもいられなくなって。この気持ちをなんと言ったらいいのか分かんないけど、エリザベスを感じたくてたまんなくなってきて、俺、彼女のうちに飛び込んだんだよ。


 鍵? そんなもんかかってるわけないだろ。だっていきなり救急車で運ばれたんだから。まあ、鍵かかってたとしても一撃で蹴破れそうだったけど。ボロ家だから。


 ママ? ママはなんも言わなかったよ。止めもしなかった。俺の気持ち分かったのかもな。俺、泣きそうな顔してたと思うんだよ。たぶん俺のことをエリザベスの愛人かなんかだと思ってたのかもね。年齢? そんな野暮なこと。


 部屋はエリザベスが運ばれた時のまんま、まったくの手つかずだった。俺は部屋にあがって、割れたカップを片づけてからしばらくベッドの端に座ってぼんやりしてた。


 枕もとに俺のクロッキー帳が置いてあって、描きかけのエリザベスがベッドに横たわってた。


 落ち着こうと思って煙草に火をつけて、もう何度も通った部屋なんだけど改めてじっくり見まわしてみて。ふと、そういえば二階には一度も上がったことがなかったなと思ってさ。だって彼女が見せられないって言ってたから。それは一度ヤッってからも同じことだったから。舞台裏ってやつ。


 好奇心ではなかったよ。むしろ今見ておかなくてはという使命感。今見ておかないともう二度と見られない。言いわけ? まあ、そう言われたらそうだろう。言い返す言葉もないよ。でも俺が二階の「舞台裏」を見たのはそれが最初で最後だったんだから。


 二階にあがる階段は見た目以上に狭くて、急で、危ないなあって感じだった。よくこんな階段上り下りできたなって思ったよ。慣れてたのかな。


 みしみし音がするから今にも壊れるんじゃないかってビビりながら上がりきると、びっくりしたのはまず思ったより物が少なかったこと。


 舞台裏とか言うからもっとごちゃごちゃしてんのかと思うじゃん。でも、全然。全然そんなことない。古い三面鏡と低い引き出し三段の整理箪笥がひとつ。鏡台の上もすっきりしてて、清潔だったよ。あとは押入れ。


 ドレスは押入れにハンガーで吊ってあった。といっても何着もあるわけじゃなくて、ほんの2~3枚だったと思う。どれも古びてた。俺がワインのシミつけちゃったのも、そこにあったよ。彼女、何度も洗ったんだろうな。薄くはなってたけど、やっぱりシミは残ってたよ。悪いことしたよ、本当に。


 それから押入れにさ、普通に布団があったんだよ。それも毎日使ってる感じの。それ見て、彼女が舞台裏って言ったことの意味が初めて分かった気がした。ようするに二階が本当の生活の場であって、一階のベッドっていうのは……、非日常、非現実。あくまでも男と寝るためのものだったんだよ……。


 二階は本当に普通の人の生活の匂いがしてた。一階はどこか芝居じみた感じがあったけど、二階は素朴で質素で、堅実な感じで。整理箪笥の上は机代わりでもあんのかペン立てと本が何冊か並べてあって、ぼろぼろの詩集と小説と、楽譜もあった。


 エリザベスにとって男に体を売るってことは本当はひどく傷つく、嫌なことだったんだって俺はその時初めて気がついたんだ。彼女は運命を受け入れてたんじゃない。慣れてしまったわけでもない。あの年になるまで、あの年になっても、ずっと抗い続けてきて、自分の中の美しいものを守るのに必死だったんだよ。エリザベスから嫌な印象や醜さを感じなかったのはきっとそのせいなんだと思う。


 ある意味、不屈の精神だよ。苦しい時も貧しい時も、すべてを失っても、踏みにじられたって、知性や教養、上品さや優雅さを失わないでいられたのは彼女の強さだったんだ。二階にはそんな彼女の精神が表れてた。畳は古びてたけどちゃんと拭き清めてあったし、鏡にも一点の曇りもなかったね。ああ、これが舞台裏。彼女の本当の姿。でも、それって「やっぱりな」って感じでもあったよ。少なくとも俺はそう思った。やっぱり彼女は素晴しい人だって。俺はそれを再確認したんだ。


 鏡台の引き出しや箪笥の引き出しなんかもちょっと開けてみたんだけど、別に大したものは入ってなかったよ。鏡台には化粧品がちょっと。いかにも安物のアクセサリーがちょっと。整理箪笥には着物がちょっと。それだけ。


 写真とか手紙とか、何かしら彼女の過去を知るようなものがないかとちょっと思ったんだけど、何もなかった。でも、それもそうだろうなとも思ったよ。戦争の話ししてただろ。たぶん、全部失ったんだろう。


 もしかしたらどこかにあったかもしれないけど、それ以上は分からない。俺だってまさかそんな家捜ししたわけじゃないから。いくらなんでもそこまでは、なあ。


 畳に寝転んでしばらくぼんやりしてたら、彼女がいつも使ってたボロいテープレコーダーとカセットテープが目に入ったからなんとなく再生してみて、それ聴きながらまたぼんやりして。


 傷ついたことを忘れることはできない。彼女が言ってたこと思い出してた。そんで、また、俺は気がついたんだ。今、俺は傷ついているって。俺はエリザベスの不在に傷ついている自分を見つけて、じっと涙を堪えてた。


 カセットテープは相変わらずびろびろに伸びた、割れまくった音でかろうじて音楽だなっていうぐらいのもんだったけど、聴いてるとなんとなく気分は落ち着いたよ。ああ、これもこれもエリザベスが歌うのを聴いたなあって思って。彼女、愛の讃歌が好きだったなあとか思い出して。


 そうやってどのぐらいそこにいたかな。彼女はもう戻ってこないかもしれない。戻ってこれないんじゃないかな。やっとそこで実感というか、リアルに感じられてきてさ。現実がじわじわと浸みこんでくるような感じ。そう思うとなにか彼女のいた痕跡を残したくなって。俺、一階に置いてたクロッキー帳とってくると、部屋をね、描き始めたんだよ。覚えておきたくて。箪笥とか鏡台をね。本当にざっくりと、だけど。


 そのクロッキー帳どうしたかって? あるよ、もちろん。持ってるよ。


 その家に行ったのは、それが最後。そうなるだろうなってことも薄々感じてた。家を出る時、万が一の為にと思ってエリザベスにあてて手紙を残したんだ。もしものことがあるだろ。あと、もしかしたら他の誰か、誰でもいいからそれ見つけて、エリザベスのこと俺に知らせてくれないかなって願って。


 今考えると、それは非常に危険な行為でもあるんだけどさ。だって俺、不法侵入しちゃってるわけだし。エリザベスとヤッてるわけだし。俺の立場って本当に誰にも説明できないんだから。今でも俺は彼女にとってなんだったんだろうなって考えちゃうよ。


 なんて書いたのかって? ふふふ、笑うなよ? あのね、もし戻ってきたら連絡してくれって。愛してるよって。


 俺が生まれて初めて書いたラブレターだ。愛なんて言葉使ったのも初めてだったよ。


 なんでそう書いたかって言うと、それは、その時心からそう思ったから。


 俺は彼女の優しさに対して、その寛容さに対してありがとうなんて言ったことはなかったんだけど、でも、エリザベスはお礼なんか言われるよりも、こういう言葉の方が喜ぶだろうし、たぶん……求めてたんじゃないかな。愛を。


 エリザベスが心の底で大事にしていたもの、心の底から求めてたもの。それはやっぱり愛だったと思う。だから、そう書いた。


 まさかそれが最後の希望になるとは思わなかったけどね。

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