第15話
服部の赤裸々な告白は聞いていて驚くと共に、何か気恥かしいような気がした。声を出してよがって射精する服部を想像するのは難しい。
視線を雨の庭に向けると、今はもうびしゃびしゃと跳ね返る雨脚がガラス戸を濡らし始めていた。
雨の予報ではなかったのにと思っていると、服部も「明日は晴れだと思ってたんだけどな」と呟いた。
さっきまで姿を隠していた猫が畳の上を歩いてきて、おもむろに縁側に寝そべった。
手を伸ばしてそっと撫でると皮毛は滑らかで、柔らかく、雨の湿気のせいかややしっとりとしていた。
嫌がる様子もないのでしばし猫を撫でていると、服部は細く開けていたガラス戸を閉めて「猫の触り心地って時々女の子抱いてるような気分になるよな」と言った。
そんな毛深い女いないだろうと言うと「ちがうちがう。感触。柔らかさとか」と笑った。
そうして服部も猫に向って手を伸ばすと、猫は少し頭をもたげてちらっと服部を一瞥した。まるで意義を唱えるように。
猫を撫でる服部の手は大きく、長い指は骨ばっていたが、ひどく優しく繊細に見えた。
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エリザベスとセックスしたからといって、何が変わるってことはなかった。まあ、そりゃそうだよな。
俺は相変わらず何もしないで、アモーレ広場でエリザベスの歌を聞いて、ぶらぶらしてるだけだったし、
唯一変わったのは、絵を描くようになったこと。描きたいような気持ちになったのが大きな変化だった。なぜとか理屈じゃなく。ただそうせずにはいられないような気持ち。目の前にあるものを残したい、形にしたい。そう思ったらなんの抵抗もなくするっと描き始められたんだよ。
で、裸を描かせてくれって頼んだら、最初は嫌がって「こんなおばあさんを描くなんて」って言うんだけど、でも芸術に年齢は関係ないだろうって言うとしぶしぶオッケーしてくれてさ。
描く時間なんてわずかだよ。ポーズも十分とかそのぐらい。でないと疲れるだろ。エリザベスも。
だからそのデッサン、荒いだろ。じっくり描きこむって感じじゃなかったからな。その分だけ枚数は描いたよ。描くうちにだんだん楽しくなってきて。
俺、ずっと忘れてたよ。その時まで。描くことの楽しさというか、突き詰めていくことの面白さみたいなのを。とにかく顔でも体でも、体のほんの一部、パーツひとつでもいいから描いていたらその瞬間は集中してるから何も考えない。セックスもすべてを忘れさせてくれたけど、熱中できるものっていうのもまた何もかもを忘れさせてくれるんだよな。
だからってわけでもないんだけど、結局エリザベスとセックスしたのは一度きり。
たぶんね、彼女、俺が絵を描き始めたことでセックスは必要ないってことが分かったんだと思う。もしもあのまま俺が何もしないでいたら、セックスしたと思う。特に俺が辛くて苦しい時ほど。
傷ついたことのある人は他人の傷にも敏感だよ。エリザベスは俺の精神状態というか、気分を読み取るのにすごく敏感だった。顔色を窺うとかじゃなくて。自然と感じてるんだろうな。
そうやって一緒に過ごしてるとこっちはだんだん遠慮がなくなってその辺に寝転んだり、ベッドでだらだらしながらポテトチップ食べたりするようになるんだけど、エリザベスは全然変わらなかった。いつも丁寧で上品で。
エリザベスは俺の絵を見てものすごく大袈裟に褒めてくれてさあ。素晴らしい才能だとか、天才だとか、やたら褒めてくれるんだよ。こっちが恥ずかしいぐらいに。
このデッサン見たら分かるだろ。めちゃめちゃじゃん。下手だよな。後になって予備校行ってちゃんと勉強し始めた時に俺は自分でも自分の下手さに愕然としたし、エリザベスはどこ見てそう思ったんだろうなって思ったけど……。彼女は俺を立ち直らせようとしてくれてたんだよ。今なら分かる。エリザベスは俺にまともな人間としての生き方を教えようとしてたんだ。だからいつも優しくて、すべてを受け入れてくれてたんだ。
結局、俺がエリザベスと過ごした時間ってのはごくわずか。半年ぐらいじゃないかな。
寒くなってからのことだよ。エリザベスは真冬になっても相変わらず同じドレスで、白塗りで、アモーレ広場で歌ってた。見るからに寒そうだったよ。客? ああ、やっぱり時々「お客様があるから」って言って俺が行っても部屋に入れないで追い返すことはあったよ。
それについて俺がどうこう言うことはできない。だって、なんで俺がそんなこと言える? じゃあ、俺が彼女の生活の面倒みれるのかっていうとそんなわけないし。やめてくれって言うのも違うし。
できることと言えば、あんまり寒そうだから安物だったけど手袋とストールをプレゼントしたことぐらい。ピンクの。彼女、喜んでたよ。感激して何度もお礼言うんだよ。「こんな素晴らしいもの、初めてだわ」って。安物なのに。色がきれいだとか、肌触りがいいとかとにかく褒めまくるから、なんかまいったよ。
それをドレスの上から肩にかけて、手袋もして、アモーレ広場で歌ってた。けどさ、やっぱり安物だからそんなあったかくなかったと思うよ。その時、俺思ったんだよ。バイトしよ、って。バイトしてもうちょっと良いやつ買ってやろうって。
好きな子にさ、プレゼントとか買うのにちょっと頑張ってバイトしたりするじゃん。普通。エリザベスに対してそういう恋愛感情があったわけじゃないんだけど、俺は初めてそういう気持ちになって、自分でもちょっとびっくりした。
単純に、彼女の為に何かしてやりたいなって思ったんだ。彼女が俺に優しくしてくれたからとか、そういうことも理由としてはあると思う。でも、もしかしたら、俺は心のどこかで贖罪を求めてたのかもしれない。弟を助けられなかった分、誰かを救うことで許されたかったのかもしれない……。エリザベスは俺に助けられたいなんて微塵も思ってなかったけどね。
で、俺、テンガロに頼んでバイト紹介してもらってさ、昼間に食堂の皿洗いとか始めたんだよ。あと、かけもちでコンビニのレジと。
とりあえずそれで引きこもり生活が唐突に終了したわけ。何がきっかけになるか分からないもんだよな。
もちろんバイトしながらエリザベスんとこ行くのは変わらなかったよ。むしろバイト始めた分、ちょっとは金も入るからエリザベスに差し入れする為に行く回数が増えたぐらい。
隣のスナックや料理屋の大将なんかもだんだん俺が通ってくるのに慣れてきてさ、睨んだり、変な顔とかはしなくなって。俺が差し入れ持って行ってるのが分かってからは、会えば立ち話ぐらいするようにもなった。変なガキだとは思われてたのは変わらないだろうけどね。
そうやって通って、クリスマスの前かな……。俺が行くとエリザベスが部屋で倒れてたんだよ。
扉開けた途端ものすごい鼾みたいなのが聞こえて、台所の板敷のとこでエリザベスが倒れてて、あの繊細で綺麗な花柄のカップが粉々に割れてた。
焦るなんてもんじゃないよ。慌てて駆け寄って抱き起したら、目は白目剥いて、口からは泡吹いてて。俺、叫びそうになったよ。怖くて。
人間が死にそうになってるところに遭遇するっていうのは。慌てるよ。本当に。ホラー映画じみてる。
それでどうしたかって? 救急車だよ、救急車。エリザベスんち電話ないから、俺が携帯電話から通報して。必死で呼びかけたんだけど……。
あのね。不謹慎だけど、エリザベス!って大声で呼びかけてんのはシュールで滑稽だったよ。客観的に考えて、さ。倒れてるエリザベスはドレスじゃなくて、浴衣に半纏で、化粧はしてなかった。普通のおばあさん。そう、彼女、素顔は普通のおばあさんだった。
救急車はすぐ来たんだけど、警察も来てさ……。俺は後にも先にもあんなに困ったことはないね。一体俺の立場をどう説明すればいいんだよ。よりによって、警察に。そもそも俺の立場ってなに? 俺とエリザベスの関係ってなに? それは俺の方が知りたいぐらいだよ。
あんな狭い、長屋の立ち並んだ路地に救急車や警察がわんさか来て、エリザベスはストレッチャーに乗せられて搬送されて、もう、あたりは騒然。そして、野次馬の俺を見る目ときたら! まるで俺が強盗にでも入ったかのような! 警察もあからさまに俺が何かしたんだろうっていう態度! ひどいよな。本当に。
でも仕方がない。なんて答えたのかって? 知り合いだよ、知り合い。他に言いようがないだろ。俺、未成年だったからそのまま帰されたけど……。
うちに帰ったらきっちり連絡がいってて、当たり前だけど質問攻めだった。でもやっぱりなんと言われようと答えられないんだよ。だって俺とエリザベスが何なのかなんて俺自身にも分からないんだから。
結局、親も俺にそれ以上なんか言ってもどうにもならんと思ったのか、またひきこもられても困ると思ったのかそれは分かんないけど、質問することはもう諦めて、とにかく警察がまた何か言ってきたらその時は誠実にきちんと答えるようにって言われておしまい。なんだろうな、誠実にって。この言葉が出た時点で俺が何かやらかしたと疑ってんだろ。疑われてもしょうがないんだけど。
それから一週間ぐらいかな……。毎日エリザベスんとこ通ったよ。帰ってこないかなと思って。どうなったのかなと思って。
そうしたらスナックのママが俺を見かけて声かけてくれて、で、教えてくれたんだ。エリザベス、脳梗塞だったんだって。
命は助かったらしいけども、麻痺も残るし、なにより高齢だから……。ようするに、ポジティブなことなんか何もない。愕然としたよ。もう彼女の歌を聞くことはできないんだなって、瞬時に悟ったから。そんで、はっと気がついたんだ。俺、スケッチブックをエリザベスの部屋に置いてきてるって。
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