第14話
雨が、明瞭な雨音がするほど降ってきて、庭の土や緑の匂いが強く立ち上ってくる。靴脱ぎ石の上に揃えた庭下駄が濡れ始めていた。
縁側にもわずかに雨が吹き込んでくるので、立って行ってガラス戸を閉めると服部は自分の描いたデッサンをしげしげと見つめていた。
ガラス戸はアルミサッシなどではなく昔のままの木製で、がたがたと音を立て、閉めたところでぴったりと密閉はされず歪みや隙間があった。ガラスもところどころ昔のもので透明でありながらも歪みがあり、じっと見ていると世界がシャボン玉を通して見えるような幻想的な感じがあった。
モデルがエリザベスだという裸は、たるんだ乳房や皺や、痩せて飛び出た骨などが克明に写し取られていて、けれども決して醜いという印象はなかった。ごく自然で、むしろ加齢による独特の美しさがある。何者をも寄せ付けない崇高な美が。
恐らく、それは、服部にはそのように見えていたのだということなのだろう。
筋張った手、長い指。咽喉のたるみと皺。浮き上がる腰骨。しみだらけの背中。
ひどく静かだ。雨の音は賑やかなのに、その分だけ室内を静寂で満たす。
服部は煙草に火をつけた。煙がこもるかなと独り言を言い、ガラス戸をわずかに細く開けた。雨の匂いが流れ込んでくるので、外にいるような錯覚を覚える。
ウイスキーを飲むと、服部は「最初はそんな旨いとは思わなくても、だんだん旨くなってくるだろ」と言った。その通りだと思った。
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エリザベスが噂通り本当に戦後のどさくさで娼婦に身を堕としたんだとして。それなら彼女にとってセックスはビジネスだったろう。
でもビジネスとして成立したのは彼女がこんなにババアになるずっと前のことで、容色衰えたらもう無理だろ。
確かに彼女は客引きしてたし「お客さんがくる」ようなこと言ってたけども。セックスで稼げたなんてことはほとんどなかったと思うよ。
それじゃあ彼女がどうしてセックスワーカーであるという噂がずっとあったのかっていうと、それはやっぱりそこにはセックスが介在してたからなんだろう。金にならずとも、彼女の存在の陰には常にセックスがあったってことだよ。
でも彼女とのセックスを買うやつっていうのは純然たる快楽を求めてたわけじゃなかったんだと思う。俺はね、彼女が「一万円よ」って言ったのは快楽としてのセックスを売るってことではなくて、一瞬でもすべてを忘れさせる手段としてのセックスを「売る」ってことだたんだと思う。
なんでこう「思う」ばっかりなのかっていうとさ、それはあくまでも俺の想像だから。もちろん、経験したことも踏まえての、想像な。けど、あながちこの想像は外れてないと思うよ。
世の中にはさ、ものすごく傷ついて生きてる人がいて、それを一瞬でもいいから、どんな手段でもいいから忘れたい人がいっぱいいるんだよ。そしてエリザベスはそういう人が分かるんだよ。だから客を選ぶって言っただろ? あれは、傷ついた人を選んでるんだよ。だから俺を見つけてくれた……。
だけども、じゃあそこであの白塗りのババアを一万円で買えるかっていうとね。そういう人の方が稀少だろうね。そこまで精神状態が極限じゃないとってことなのかもしれないけど。
エリザベスは俺をベッドに座らせると、無言で枕の下から黒い紐をするするって出してきたんだよ。
……一瞬、殺されんのかと思った……。
その黒い紐。すべすべしたサテンみたいな素材で、ちょっと光沢があって、ネクタイを連想させる感じ。でも、もっと長い。エリザベスはその紐で、びっくりしてる俺に目隠しをしたわけ。
この結び加減が絶妙でさ。きつくもなく、痛くもなく、でも絶対ほどけない。緩みもしない。慣れてるというより職人の感じ。
そこでやめてって言う事もできたよ。もちろん。手足は自由なんだから目隠しを外して逃げることだってできた。なのに俺はそれをしなかった。むしろ考えもしなかった。それこそが極限状態だったんだろうな。俺の。
なぜ目隠しをするのかって? そりゃあ……見えてたら色々無理だからだろ。
エリザベスは無言で静かに俺の服を脱がしていくんだけどその間も時々頭や頬を撫でてくれんの。すごく優しく。
怖いとかは思わない。気持ち悪いとかも、ない。
エリザベスは俺を全裸にしたけど、キスはね、しなかったよ。唇へのキス。なんでって……。キスはやっぱり特別だからじゃないの? 分かんないけど。そういう映画あったじゃん。娼婦が客に唇へのキスはお断りだっていうの。キスは好きな人とするものだからってことだろ。
だから俺ね、所謂ファーストキスだけはちゃんと好きな人としてんだよね。童貞じゃなくなってたくせに。変? ああ、変だよ。分かってるよ。
奇妙な感じだった。エリザベスは素っ裸の俺の首筋や乳首を舐めたり吸ったりして、だんだん下半身へと移動していくんだけど、彼女は服着たままなの。見えないから脱がなくていいし、見えなくても脱がれたらなんか嫌だからいいんだけど……。ドレスのレースが腹んとこに触るとちょっとちくちくしたりすんのな。
変質的だと思うかもしれないけど、まあ、とにかくそういうプレイだと思えば理解できるだろ?
それで起つのかって? だからさっきから言ってるだろ、極限状態って。童貞の十代のガキにしては、俺はもしかして図太かったのかもしれないし、逆に若いからこそ反射的に、動物的に、見境なかったのかもしれない。
起つどころかって感じ。ぎんぎん。エリザベスがそれを口でしてくれるわけ。フェラチオな。それがさあ、ほんと、めちゃめちゃ上手いんだよ。なに笑ってんの。だって、ほんとにそうなんだもん。上手すぎて声出ちゃうぐらいだよ。俺、これだけは確信してる。この先の人生で、後にも先にも彼女を越えるテクニックの持ち主には絶対に出会わないだろうって。
舐め方というか、咥え方というか……。鳥肌がたつぐらい。すぐイっちゃいそうになるんだけど、そこを絶妙に急所を外してじれったいような感じで、悶絶だよ。ああヤバいってなるとするっとツボを外すんだから。
けど俺はそれで性的に興奮してるっていうよりも、エリザベスに慰められてるって気がしてた。まあ、この場合は名実ともに「慰め」られてたわけなんだけども。癒しじゃないんだよ。とにかく労られてて、優しくされてるような感じ。その上ですごいテクニックで攻めてくるから意識が全部ぶっ飛ぶのな。
「忘れる」っていうのは、そういうこと。本当に何も考えられない。とにかくその瞬間っていうのは頭の中が真白で、ああヤバい、イキそう。あああ。って言葉しか浮かばない。
で、もう本当にヤバいなってところでエリザベスが俺に跨ってきたわけ。
……できるもんなんだよな。何歳になっても。まあ女の人は年齢関係ないのかもしれないけど。知らないけどさ。ドレスのスカート部分が俺の腹んとこに乗っかって、わさわさしてさあ。
彼女の股関節とか内腿のがりがりな感じとか、げっそり痩せた尻とかさ……。見えない分、余計に感じたかもしれない。あと、痩せてるから重みを全然感じない。軽いんだよ。すごく。
エリザベスが腰使ってくるから俺はそれを両手で支える格好で、まあ、ようするに普通の騎上位だよな。で、やっぱり絶妙な腰使いで攻めてくんの。
ん? コンドーム? つけたよ。あ、厳密にはつけてもらった。それもまたえらい早業で、上手いんだよ。あっという間。するするーって。全然違和感ないし、スムーズでびっくりする。
この時の経験のせいか、俺、今でもどうもコンドームつけるの下手っていうか、もたもたしちゃうんだよね。人と比べたことないから分かんないから、実際はそんなことないかもしれないけどさ。エリザベスが上手すぎたから……。自信ない。たまに練習しちゃうもんな。大丈夫かな俺? って思って。笑うなよ。そんな。見栄だよ、男の見栄。好きな人とセックスする時にコンドームつけるのにもたもたしてたらかっこ悪いだろ。
結局、時間にしたらどのぐらいだったんだろうなあ。長いような気もするし、そうでもないような。はっきり分かるのはエリザベスが想像以上に体力があるってこと。全然へばらないんだよ。結構激しく腰使ってんのに。呼吸も乱れないんだから。
ん? エリザベスの反応? 気持ちいいって感じではなかったね。そういうエロい反応はなかった。声も出さないし。何も言わない。ひたすらこっちを気持ちよくさせるだけ。そういうのプロフェッショナルって言うべき?
射精? するよ。つーか、したよ。だってめちゃめちゃ気持ち良かったんだもん。イクに決まってんだろ。ああ~って感じ。
俺がイクとエリザベスは俺の体から離れて、コンドームも始末してくれて。なんか流しを使う音がしてるなって思ったら、タオルを絞ってきてさ。すごい丁寧に体を拭いてくれて……。それから目隠しを外してくれて。
目隠しを外したら、さっきのことはまるで夢だったみたいな気がした。そのぐらい、不思議な感じだったし、奇妙だった。だって俺は裸だけど、エリザベスは何事もなかったかのようにドレスで、顔色ひとつ変えるでもなく、ベッドの端に座って「何かお飲みになる?」って聞くんだもん。
とても現実とは思えないような気がしてさ。射精したのだって目を開けたらまるで夢精だったような……。
そして気がついたんだ。本当に、その最中はすべてを忘れてるなって。
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