第13話

 ふと気がつくと服部はまたしげしげとクロッキー帳を眺めていた。


 弟の残したデッサンは猫や家族の肖像もあり、もちろんそこには服部の姿も描かれていた。


 もう一度見せてと頼むと服部はいいよと答えて、手渡してくれ「他にもあるけど見るか」と言い、返事を待たずに立ち上がって隣室へすたすたと歩いて行った。


 ちびちびとはいえずっと飲んでいるのに、全然酔ったような様子はなく足取りはしっかりしていた。


 中学生とは思えない的確なデッサン力と描写で、どのページにも「才能」がほとばしっていると思った。なによりも鉛筆でここまで描きこめるものなのかと嘆息するほど、陰影は髪の毛一本までも黒々としている。ここまで描くのにどれほどの時間がかかるものなのか、想像もつかない。が、分かるのは彼の傾ける情熱が尋常ではなかったということだった。


 最後のページの服部が描いたエリザベスは、椅子に座った姿勢で胸のはだけた浴衣がけで、首を傾げるようにして微笑んでいる。


 隣室からまたいくつかスケッチブックを携えて戻ってきた服部は縁側に腰を下ろし、鉛筆で描かれたものだけでなく、その上から着彩したものもあった。


 植物が描かれているものは特に瑞々しく、色鉛筆を使っているのが信じられないほど柔らかく、厚みのある濃淡を表現していて見とれてしまう。


 服部が横からそれらを簡単に説明してくれる。


 そしてはっと気がついて、服部の顔を見つめた。生きた証っていうのはこういうことか。


 服部はこちらの視線を知ってか知らずか「こっちは全部俺が描いたやつ」といって小さめのスケッチブックを示した。


 ページをめくると咄嗟に怯んで、また服部の顔を見つめた。一ページ目からして、女の裸だった。服部はそこで初めて視線に気づいたかのようににやりと笑った。


 庭の八つ手の葉のあたりでぱさりと音が鳴ったような気がして暗闇に目をこらすと、次第にぱらぱらと音は連続し、雨が降り始めていた。


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 俺が絵を描くの好きだっていうと、エリザベスは嬉しそうにそれじゃあぜひ描けって言いだしてさ。どんな絵を描くのかとか、好きな画家は誰かとかまたそんな話しをするようになって。


 どんなって言われてもなあ。別に画題があったわけじゃないし、自分の作風やクリエイティビティなんてものもなかったから。強いて言うなら目の前にあるもの。人でも物でも。興味が湧いたらそれを紙に克明に写し取りたくなる傾向はあったと思う。


 それで、まあ、ヒマだったし。あんまりエリザベスが熱心にすすめるのもあって、エリザベスのうちで描くようになったわけ。だからそのスケッチブックに描かれてるのはエリザベスと、エリザベスのうちの物な。


 え? 裸? うん、まあね。裸じゃないのもあるだろ。なんで裸をって……? なんでってことあるか? デッサンってヌードモデル使って描くじゃん。

 ……嘘。今のは、嘘。いや、確かにヌードデッサンはやるよ。大学でもやるし。受験の前にも予備校でやったし。でもエリザベスの裸を描いたのはそういうことじゃない。


 裸を描くようになったのはさ、俺がエリザベスと肉体的な交渉を持ったからなんだよ。


 そんなびっくりすんなって。だって、最初に彼女「一万円よ」って言ったじゃん。といっても、払ってないけど。


 俺だってはじめから裸になってくれなんて言わないし、それ以前にばばあの裸を描きたいなんて思いもしないよ。むしろ見たくもないっていうか。じゃあなんでかって? うーん……。俺ね、またアモーレ広場で島田に会ったんだよ。


 なんでそこで島田が出てくるのかって? まあ、そんな焦んなよ。嫌な予感してたんだよな。島田が予備校行ってるの分かったし、あの時間にあそこを通るんだなってことも分かってたから、なんとなくまた会うだろうなって思ってた。で、やっぱり会ったわけ。その時は島田一人だったけど、あいつもなに考えてんのか知らないけど、わざわざ俺を見つけて声かけてくんの。なんで放っておいてくれないんだろうなって思った。ムカついたよ。マジで。


 近づいてきて、一見すると親しげに言うわけ。「服部の弟の追悼をやろうって話しがあるの知ってる?」って。


 は? ってなるじゃん。なんでお前がそんなことを? って思うだろ。そしたら島田が言うわけ。「俺の弟と、服部の弟って同級生なんだ」って。あのさ、そんなこと俺が知りたいと思う? つーか、俺がびっくりしたのはさ、じゃあ、こいつは俺の弟が何故死んだか知ってるんだってこと。


 何故っていうのは、自死の「理由」だよ。


 島田がどういうつもりでそんなこと言ってんのか分かんないけど、あれはたぶん、やっぱり俺を傷つけたくて仕方なかったんだろうな俺が嫌がることを言いたかったんだろ。その性根にもあきれるし、反吐が出るほどムカつく。


 気がついたら、俺、島田をぶっ飛ばしてた。


 目の前ではエリザベスが朗々とアリアを歌ってて、島田がその足元にばーんって転がって。周りの人たちが明らかにざわざわってなってさ。ある種の動揺と緊張感が走った。


 ああいう瞬間って、一瞬空気が凍るのな。その辺にたむろってるサラリーマンとか学生とか、急ぎ足のOLとか、誰も俺のこと知ってるわけないのに「なにごと!?」って感じの静電気火花がぱちって弾けてさ。そしてみんな「関わりたくない」っていう態度でさーっといなくなるわけ。


 島田はびっくりしたのと、俺が拳握ってぶるぶる震えて今にもぼっこぼこにするべく飛びかかってきそうだったもんだから真っ青になっててさ。慌てて立ち上がって、すごい勢いで走って逃げやがったんだよ。何も言わずに。


 島田と会ったのはそれっきり。あいつが俺に話しかけてくるようなことは二度となかった。でも俺はあいつの卑しい根性が今でもはっきり思い出せる。俺が傷つく顔を見たかったんだな。あいつ。そういう意味ではその目的は達成してたと思うよ。

 そして驚いたのはさ、俺が拳ふるって島田をぶっ飛ばし、足元に男がぶっ倒れてきたっていうのに、あの白塗りのアモーレ広場の歌姫は顔色ひとつ変えず、まったくなんの影響も受けずにひたすらあの素晴らしい美声を披露し続けたってこと。


 それは島田が逃げる時も、俺が蒼白になって立ちつくしてても変わることなく、その日の予定の3曲をきっちりと歌って優雅にお辞儀して終わるまで、エリザベスは何も変わらなかった。


 エリザベスはオブジェからそろそろと転ばないように下りてくると、俺の前に立って手を取ってこう言ったんだ。


「泣かないで」

 って。


 泣いてないよ。泣きそうではあったけども。泣いてはいなかった。けど、エリザベスには俺の気持ちが分かったんだろう。


 怒りとショックで手足がめちゃくちゃ震えてたの、今も覚えてる。それに、大人というのは残酷なことを考えるなってことも。


 弟の中学で追悼なんてもちろん知るわけはない。そんなことしてほしくない。でもそれを誰に言えばいいっていうんだよ。俺はまだガキで、そんな時誰に何を訴えればいいのかまったく分からなかった。ただひたすらショックで。まるで弟の死がエンタテイメントのように扱われているようでやりきれなかったよ。


 エリザベスは俺の手を握ると、そのまま「行きましょう」って先に立って歩き始めた。もちろん周りの人はぎょっとした感じで、あの白塗りのばあさんに連れて行かれる俺を誰もが好奇心と、不気味なものを見るような恐怖心と、心配そうに見送るのと三種類ぐらいの顔で見てた。


 どこ連れてかれるのかって、それは決まってるだろ。あの、エリザベスのベッドの置かれた長屋だよ。


 部屋につくとエリザベスは「もう大丈夫よ」って言った。その瞬間、俺、張りつめた糸がぶちって切れるように、いきなり泣き出しちゃったんだよ。しかもエリザベスに抱きついて。


 そんな目で見るなよ。俺だって人間なんだから泣くこともあるよ。まあ、確かに号泣しちゃったから恥ずかしいといえば恥ずかしいけどさ。


 とにかく泣けて仕方がなかったんだ。何が悲しいとかじゃないんだよ。もう、頭が混乱して。腹立つし、悔しいし、もちろん悲しいし。でもそれを言葉に表すことはできなかった。どんな言葉でも言い表せないから。


 俺が泣いてる間エリザベスが優しく頭を撫でてくれるから、俺言ったんだ。弟が自殺したってことを。


 俺はね、弟が学校でいじめられてるってこと知ってた。いや、でも、厳密に言うと、知ってはいたんだけどもそこまで深刻なものとは考えてなかった。


 おとなしい奴だったし、女の子みたいにきれいな顔して、絵ばっかり描いてて、からかわれてんだろうぐらいなもんでそこまで気にも留めてなかった。なんでかって? だから、それが俺がクズだってことの証明なんだよ。人の痛みに寄り添うこともできないし、気づいてさえやれないんだから。


 だから俺は弟が苦しんでるのも分からなかったし、気づいてやれなかった。気づいたところで何もしてやれなかっただろうと思うと、本当に情けなくてたまらん気持ちになる。


 弟だってさ、優しいから俺に心配かけたくなくて本当のことなんか何も言わないんだよ。たまに俺が学校でなんかあんのかって聞いても「別になにもないよ」って言うだけで。


 馬鹿だろ。それをそのまま額面通りに受け取って、深く考えもしないんだからな。俺は。


 そんで、飛び降り自殺だよ。死んで初めてすべてが明らかになっていくのを俺は呆然と見てた。そん時分かったんだ。俺は今まで何やってたんだろうって。


 島田の目、俺に言ってたよ。お前、どのツラ下げて生きてんの?って。いやいや、俺にはそう思えたよ。


 高校を辞めたのは俺の意思だったかもしれないけど、それ以前に、行けなくなるほど落ち込んだのはやっぱり弟が死んだことと無関係じゃないよ。


 学校って残酷なとこだよな。実際。あんなせまいところに40人ぐらい押し込んで、気が合うも合わないもごちゃまぜにして、そのくせ個性を認めるような鷹揚さはないんだから。


 おとなしい奴はターゲットにされやすい。そうやってヒエラルキーを作らないと、自己を確立できない奴っていくらでもいる。それは大人も子供も一緒。本能的にそうしないと、他人より有利にならないと……生きられない。俺はそういう性格っていうのは生涯矯正できないと思ってる。


 他人に対する優しさや思いやりは最低限の標準装備であるべき想像力なんだと思う。その欠如を補うことなんて、誰にできる? それは教師が教えてどうにかなるもんか?


 そんなこと考えてたらやりきれなくって。学校なんてカテゴリの中に到底いられないなって思ってさ。


 それに、俺自身が教室で調子にのって無意識のうちにヒエラルキーを構築してたと思うとぞっとする。


 俺、調子にのってたから。島田が俺を嫌ってたのはそのせいだよ。俺が、俺こそが島田に対してマウントとってたんだよ。もちろん悪気なんかない。からかったり、ふざけてただけ。島田の妙にべったりした髪型とか、アニオタとか、モテないとかいうのを。その時は島田も笑ってるし、みんなも笑ってるからなんか別にいいじゃんって思ってるわけ。でも本当は違う。島田だって、たぶん他の奴だって思ってたんだよ。きっと。俺が人間のクズだって。


 今なら分かる。悪気がないっていうのが一番性質が悪いんだよ。さっきも言っただろ。想像力の欠如って。そういうこと。想像力がないから、そんなデリカシーのないことしちゃうし、悪気がないから反省もしない。


 俺は自分が嫌で嫌で、死にたくなるほど嫌で。でも、弟みたいに死を選ぶなんてことはできないから。そういう涙でもあったんだろうな。その時は。クソみたいな自分を憐れむ、情けない涙。自己嫌悪。なんで助けてやれなかったのかという自責の念。後悔。自分が失ったもののすべて。


 そういうのを全部涙と洟水にまみれてエリザベスにぶちまけたわけ……。エリザベスはちょっと驚いたみたいだったけど、黙って聞いてくれて、それから言ったんだ。


「つらかったわね」

 って。


「大事な人を亡くすのは本当につらい。それは永遠に消えない傷だわ」

 って。


「でも、その傷と共に生きていかなくてはいけない……」


 エリザベスがティッシュで俺の顔を、子供にするみたいに拭いてくれて、すごく自然な感じでおでこにキスをしてさ……。


 かすかに微笑みを浮かべて、でも、目はすごく悲しそうで、彼女も「傷」を抱えてるんだということは分かった。だって、そりゃあそうだろう。俺なんかよりも何倍も生きてるわけだし。きっと戦争とかでもつらい経験をしてるんだろうし。彼女の現在の姿を見たら分かるじゃん。もう、絶対にしなくていいような苦労をしてきて、悲しみも憎しみも絶望もさんざん味わってきての、今なんだろうってことが。


 俺は急に泣いたことが恥ずかしくなって「ごめん」って謝った。かっこ悪いなと思ったから。そうしたらエリザベスがさ、こう言ったんだ。


「傷を忘れることはできないわ。深く傷つくほど、痛みを忘れることなんてできはしない。でも、ほんの一瞬だけなら忘れることができる。それが何か分かる?」


 お前、分かる? 俺は分からなかったよ。きょとんとしちゃったもん。


 ほんの一瞬だけ「傷」を忘れる瞬間。それは、セックスだよ。

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