第12話
静かすぎるな。やっぱり音楽でもかけよう。
服部はそう言うとスマートフォンを引き寄せて、音量を絞ってクラシックのピアノ曲を再生した。
ショパンやブラームス。そしてリスト。それらが服部の好きな曲であるよりも、恐らくはエリザベスの好きな曲だったのだろうことは彼の表情から見てとれた。
服部の「好きな子」のことは以前にも聞いたことがある。かしこくて綺麗な子だったと。そのことを服部は「人間というのは、自分にないものを求める」のだと苦く笑っていた。しかし、それ以外に服部が高校時代のことを話すのは珍しかった。
ウイスキーのグラスを傾ける手が止まっている。庭は相変わらず静かで、暗闇の中からほんのかすかに虫の声がしていた。深呼吸をすれば草の匂いがしそうなほど、湿度は高まっているようだった。
虫の声と、畳で転がっている友人たちの鼾は似通っている。ピアノの音はその伴奏のようだった。
服部がぽつりと呟いた。
「俺はいつも大事な時に大事な人を助けるってことができない……」
その言葉は服部の弟のことだろうかと思い、気休めにもならないと知りながら、弟の死は服部のせいではないと言うと、服部は首を振った。
飲み過ぎてネガティブになっているのだろう。そんな風に考えるのはよくない。そう続けると、服部はジーンズの尻ポケットから折りたたんだ紙を取り出し、こちらに差し出してきた。
なんだろうかと思って受取り、開いてみるとそれは葬儀の案内の葉書だった。
ピアノは「ラ・カンパネラ」。ぶっ壊れたような鐘の個性的な音色がいくつも連なり、一筋の流れになって耳に届く。
驚きのあまり言葉を失っていると服部が自分のグラスをこちらへ差し出した。飲めと言われているようで、無言で口をつけるとひどく苦くて、甘い。焦げたような匂いがして、しかし、飲みにくいのかと思いきやひどくスムーズに咽喉を滑り落ちて行った。
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島田なんかに会っちゃったもんだから、それから一週間は落ち込んだね。俺はもしかしたら羨ましかったのかもしれない。当たり前に普通の高校生活を送って、予備校なんかも行って、将来に備えてるってことが。自分が捨ててきたものが目の前にご大層に突きつけられたみたいでさ。いや、怖かったって言う方が正しいのかもしれないけど……。
それからは本当に毎日のようにエリザベスのところに入り浸ってた。相変わらず世間話するぐらいだったけど、そこにいるだけで彼女が俺のすべてを無条件に受け入れてくれているようで安らぎがあって、居心地はよかった。
でも、そうして通ってると今度は違う現実が向こうから押し寄せてくるのを感じるようになったんだよ。
うーん、なんていうのかな。ああやってアモーレ広場なんかで見てる分にはエリザベスは白塗りの都市伝説の歌うババアってだけなんだけどさ。でも現実というものが彼女にもちゃんとあって。当たり前だけど……。
「現実」っていうのは「生活」っていう意味でもあるし、彼女の「本当の姿」っていうことでもある。
考えてもみろよ。エリザベスが話してた若い頃のことって、第二次世界大戦の前後だろ。ということは、彼女はもう相当な高齢で、外見が皺々っていうだけじゃなくて、他にも肉体的な衰えは絶対にあるはずなんだよ。ようするに「老化現象」な。
実際、膝が痛いとか言ってたし、具体的には彼女も話さなかったけどどこかに具合の悪いところはいくらでもあったと思う。すごく疲れたような顔してることもあったしね。
それでも彼女が病院に行くとかはしないわけ。だって保険料だの税金だの年金だのっていうものをエリザベスはまったく払ってないんだから。あの長屋に住んでるのだってほとんど奇跡だったんだから。
だから俺は時々彼女に薬とか、食べ物とか持って行くようになったんだ。薬って言っても、栄養剤とか痛み止めとか、湿布とかそんなんだけど。
エリザベスは品がいいから「ありがとう」って言うんだけど、でも、そういうものより喜ぶのは花とか口紅とかチョコレートなんていう「女子が喜ぶ」ようなものだった。
花っていってもそんな花束なんかは買えないからさ、俺も。庭の花をぶっちぎって持って行ったこともある。んー、自分ちのだけじゃなくて、近所の……とかも。エリザベスはその出所も想像つくだろうに責めたりはしないで「嬉しいわ」とか「きれいね」って言うんだよ。俺はそれがなんだか嬉しかった……。なんでだろうな。なんであんなに彼女の言葉のひとつひとつが優しく聞こえてたんだろう。今でも思い出すよ。すごくシンプルで、嘘がない、まっすぐな言葉っていうものを。
エリザベスがあの頃どのぐらい稼いでたのかは分かんない。たぶんほとんどゼロに近かったんじゃないかな。隣のスナックや小料理屋の親父とかが情けをかけてくれてたのも、彼女を生きてこれた一つの理由だと思う。
金なんかまるっきりなくてもさ、そうやって人の情けでぎりぎり生きていけるもんなんだよなあ。俺もそれには一役ぐらい買ったかなって思うんだけど……。
スナックのママがおにぎり持ってきてくれるとか、料理屋の親父が残り物だけど……って何か持ってきてくれるのに出くわしたこと何回もあるよ。で、みんな俺見てびっくりすんの。当たり前だけど。だってガキじゃん。ガキがなにやってんだって怪訝な顔するわけ。いや、もう、むしろ「あやしい奴」って顔で睨むんだけど、そんな時はエリザベスが「お友達なのよ」って言ってくれんの。
お友達。あの頃の俺の友達。それがエリザベス……。
ある時さ、エリザベスが俺に「あなた、何か趣味はないの」って聞くんだよ。音楽が好きなら何か自分で演奏してみてはどうかとか、本が好きなら何か書いてみてはどうかとか……。
そんなこと急に言われてもさあ。そういう気分になれないからぶらぶらしてるわけじゃん。そしたらエリザベスが言うわけ。
「創作活動と呼ばれるものはね、ある種の人にとっては救いであり癒しであり、生きる術でもあるのよ。ゼロから何かを考えてその手で作りだすということも、形を残すということも生命の証なの」
って。
「いくらあなたが若いといっても時間というものは無限ではないのだから、何か……何でもいい、あなたの生きた証を残してみてはどうかしら」
エリザベスはその後でぽつりとこうも言った。
「私は何も残せなかったから……」
それは彼女から初めて聞く悲しい言葉だったよ。
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