第11話

 あらかたの片付けを終えると服部は仏壇に置かれていたショートピースを取って縁側へ行き、マッチを擦る。マッチの先を一呼吸ほど燃焼させてからおもむろに火をつける。以前にも煙草の味が違うとかなんとか聞いたような気はするけれど、実際のところは定かではない。


 ショートピースは亡くなった服部の祖父が吸っていたものらしい。煙草の煙が静かに闇に溶けていく。


 最初に亡くなったのは服部の祖母。病気だったそうだ。それから祖父。夜中に心臓発作で突然の別れだったと聞いたことがある。そして弟。


 服部が弟の死について話すことはほとんどない。少なくとも大学の友人たちなんかは知らないだろう。けれど、幼馴染だとか地元の友達は皆知っていた。服部の弟の死因が自死であるということを。


 いかなる場合でも死は悲しみと苦しみをもたらす。


 それにしても今夜の服部はいつにもまして饒舌だ。服部は煙草を噛みしめるようにゆっくりと吸いつけ、溜息のように煙を吐き出す。まだ飲むのかと尋ねると、服部は「ああ、もうちょっと注いでくれ」と答えた。


 今日はずいぶん飲むんだなと言いながらグラスにウイスキーを注いでやると、服部は鼻先でかすかに笑った。


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 エリザベスのとこにちょいちょい通ってるってのは友達とかは知らなくて、俺もテンガロにしか話さなかった。話すって言っても、クリーニング代渡して、お茶ご馳走になって、顔見知りになったからアモーレ広場で彼女の歌聴いたりしてるってことぐらいだけど。


 え? それ全部じゃんって? まあ、そうだな。そう言われると、そう。


 なんで友達に話さなかったのかっていうと、単純に話したくなかったから。だって喋っちゃうとおもしろおかしく推測されるだろうし、変に思われるだろうし。めんどくさいのもあったな。でもそれ以上に、見栄が勝ってたんだと思う。


 なんの見栄かっていうと、あんな白塗りのばあさんと……ってことじゃなくて、弱い自分を知られたくなかったんだ。だって言えないだろ。ただ話しがしたくて、いや、話しなんかしなくても、無言でいても受け入れて貰えているような感覚に安らぎを覚えて、ほとんど救いを求めるような気持ちなんだってことはさ……、別にいいじゃんって思いつつも、やっぱり格好悪いような気がしてたんだよな。


 今じゃなんとも思わないけどね。人間誰だってつらい時や苦しい時はあるって思える。弱っている時は慰められたいし、抱きしめられたいってことが分かる。だから俺は今誰の弱さも否定しない。


 そういうことが若いうちは分かんないわけよ。男はこうあるべきだとか、泣いちゃいけないとかいう固定観念に縛られてるから。


 ひきこもりになってたのも内心では何やってんた俺はって思ってたんだけど、でも、すべてのやる気がもっていかれちゃっててさ。絵もその頃は描いてなかった。

 描けなかったっていうのが本当かな。やる気が出ないからじゃなくて、純粋に描けなくなってたって感じ。描きたいとも思わなかったしね。


 俺はずっと弟のことばっか考えてたよ。あいつは本当に描くことが好きだった。なんであんなに夢中になって情熱を傾けることができたんだろうな。それに比べたら、今でも俺なんて何を描いていいんだか分かんない。


 だからさ、エリザベスが俺に「誰を探してるの」って言った時ちょっとぎくっとしたんだよ。心のどこかで描きたいと思えるモチーフを、誰かを、もしかしたら弟を探してたのかもしれないから。無意識のうちに。


 エリザベスはちょいちょいそうやって俺の心の底をずばりと言い当てたりすることがあって、その度に俺は泣きそうな気持になるんだけど、そこで泣くのもかっこ悪いからわざと不機嫌になったりしてた。はは。そっちの方がかっこ悪いよな。


 でさ、もう何度もエリザベスのうちに通って、ベッド見てもあんまり何も感じないようになったぐらいの頃かな。俺はまた週末にアモーレ広場にいて、エリザベスが現れるのを待ってたんだよ。


 そう、その頃になるともう本当に、完全に「待って」たね。あの堂々とした歌声を聴きたくて。ファン? まあ、そういう言い方もできるのかな。


 エリザベスがいつも通り白塗りにドレスで現れる。そして貴族のお辞儀をして歌う……。その晩は確か「さくらんぼの実る頃」を歌ってた。素晴らしいフランス語でね。


 俺はぼんやり聴きながら、ああやっぱり上手いなあなんて思ってたのな。そしたら突然後ろから「あれ? 服部?」って言う奴がいたんだよ。


 その声で俺は心臓が止まるかと思ったね。そいつ「服部じゃん、なにやってんの。久しぶりだな」って普通に話しかけてくんの。肩なんかばーんって叩いてきてさあ。

 誰って? 高校ん時の同級生。同じクラスだった奴。


 びっくりしたよ。でも、考えてみたら小さな街なんだから、どこで会ってもおかしくないよな。……そうやって会うのが嫌だからひきこもってたはずなんだけど。


 別に友達じゃねえよ。仲が良かったことなんか全然ない。ただ同じクラスだったってだけ。だからそいつがめちゃめちゃ親しげつーか、なれなれしく声かけてきたのもびっくりしたし、よくぞ声なんかかけられたなって思ってぞっとしたわ。ほんとに。


 無神経な奴ってどこにでもいるよな。だってさ、俺、そいつのこと嫌いだったんだもん。そうやって友達みたいに話しかけてくるそいつだって、俺のことなんか大嫌いだったはずなんだよ。それをなんで声かけたりすんだって、普通思うだろ。そこが人間の恐ろしいところ。


 ん? 誰かって? 島田だよ。俺、島田のこと話したことあったかな……。まあ、いいわ。とにかくその島田って奴が「こんなとこで何してんの」とか言うわけ。「服部、今なにやってんの? フリーター?」って。うるせーよ、ほっとけよ。なあ。

 俺、無視してやろうと思ったんだけどさ、でも悪いことっていうのは重なるもんで、島田ともう一人いたんだよ。高校の同級生が……。


 ああ、今思い出してもどうにかなりそう。その子が島田の後ろから現われて、めちゃめちゃびっくりした声で「服部君?」って俺を呼んだ瞬間、反射的に、不本位だけど振り返っちゃったんだよな。


 うん。女子。島田の背後からひょっこり現れたのは、同じクラスだった女子。おかっぱで、銀縁の眼鏡かけて、今どき珍しくいつもすっぴんで、鈍くさそうなんだけどよく見ると美人っていう漫画みたいなタイプの……。でも本当に美人で頭が良くてさ。


 そう。この話は前にしたことがあったな。その子が、高校ん時に俺が好きだった子……。


 告白なんてしてないよ。だからその子は俺がずっと好きだったなんてこと知らない。気づきもしないと思う。特別に仲が良かったとか、そういうのなじゃなかったから。そりゃあ同じクラスなんだから時々は喋ったりしたけど、他に仲の良い女の子っていたし。俺、どっちかっていうと教室の中でわーわー言ってる賑やかな、お調子者タイプだったんだよ。信じられない? でも、そうなの。ほんと、明るくて能天気で、馬鹿って感じのやつ。どこにでもいるじゃん、そういう奴って。いい意味でムードメーカーだし、悪い意味で教室の独裁者と成り得る……。俺が、それ。


 どっちだったのかって? それはな、たぶん受け手側が決めることなんだよ。友達にしてみればムードメーカーでも、そうじゃない奴からしたら身勝手な独裁者ってことになる。人間が多面体だというのはそういうことだと思う。


 彼女は俺のことをどう思ってたのかは、分からない。今でも分からない。ただの馬鹿野郎だと思ってたかもな。その子、いつも教室で本なんか読んでてさ。俺が友達と馬鹿話してわーわー言ってるのを、小首を傾げる感じで静かに笑ってる……そんな風だったから。呆れてたのかもしれない。


 島田は……、島田は俺を独裁者だと思ってた方だな。親しげに話しかけてはきたけど、内心では俺が学校で友達とつるんで騒いだり、時々はクラスの奴をからかったりしてふざけたりするのを嫌ってたと思う。その中には島田も含まれてたから余計に。


 人ってのは、悪意のある言動には敏感なもんなんだよ。冗談なのか、故意なのかって本能的に察知するもんだと思う。笑顔の下では、腹の中では、本心はどうなのかっていうのを嗅ぎ分ける能力がある。だから俺はずっと知ってた。ごますってくるような態度の島田の本心を。それに俺だって嫌いだったよ。そもそも島田って目が笑ってないんだもん。今でこそ知ってるけど島田が親しそうに話しかけてくるその裏で俺の悪口言ってたこととか。


 本当にやだよな。俺はそういうのが心底嫌になって、ひきこもったっていうのもあるかもしれない。人間の裏とか表ってのを見たくなくって。


 それにしても島田が声かけてくるとは、本当にびっくりしたよ。何も言えなかったね。言葉がでなかった。


 そうしたら、俺があまりにも衝撃受けてるのを察したのか、彼女がさ「元気そうね」って。優しく言って、ちょっと笑ったんだよ。それ見て初めてはっと我に返った感じ。彼女はそんな場面でも落ち着いていて、静かに「予備校の帰りなの。島田くんも同じとこに行ってるのよ」って言って、俺の顔をじっと見るわけ。


 ああ、あの時のどきどきときたらほんとに……。せつない。


 なんであの時もっと何か話しできなかったのかって、今でも後悔してるよ。ガキってさ、手練手管みたいなのないじゃん? だから好きな子が目の前にいてもどうしていいか全然分かんないんだよ。童貞の恋愛なんてそんなもんだよ。見つめてるだけでよかったんだよな。たぶん。ああ、やっぱり綺麗な子だなって思った。


 ちょっと一瞬島田の存在忘れそうになったんだけど、島田がさ、自分の存在をアピールするつもりなのかしらんけど、急に大きな声でエリザベスを指差してめちゃくちゃ馬鹿にしたような感じで「なに、あの妖怪。きも。顔白すぎだろ。しかもあのドレスなに? マジ気持ち悪いんですけど」って。へらへら笑って。


 分かってるよ。俺だってさんざん妖怪とか化け物とか言ってるよ。でも、そんな侮蔑的な言い方はしてないつもり。だいたい島田はなんでそんなことをわざわざ本人にも聞こえそうな大きな声で言うんだよ、なあ。なんのマウントとったつもりなんだよ。そういうところが、さ。嫌いなんだよ。弱いもの、自分より下のものを作らないとこの社会の中で自分の立ち位置を確認できないような、さ。


 それ聞いて俺はものすごくむかっとして、咄嗟に立ちあがって島田に「今なんつった?」って、詰め寄ろうとしたんだけど、島田はこれまた絶妙な逃げ脚でぱっと飛びのいて「なに怒ってんの?」って、またにやにや笑うんだよ。


 あー、無理だ。ほんと、こいつ一度ぶん殴ってやんないと。そう思ったんだけど、さ。拳がでる前に彼女がすごく自然な感じで俺の右手をそっと押さえて「あの人、とっても上手ね」って言って、また俺を見て微笑むから、それ以上なにもできなかった。大人なんだよな。俺らみたいな馬鹿と違って、ずっと大人だったんだ。ある種のかしこい女の子にはそういうとこあるよな。十代にしてすでに大人になってるみたいな……。


「服部君、こういう音楽好きだったものね」そう言うから、俺は彼女が覚えてくれてたことにびっくりしたよ。「よく教室で鼻歌歌ってたじゃない?」って、笑って。


 彼女の言葉を聞いてたらなんだかひどく懐かしくてせつなくて、胸が苦しくなって。言葉なんて、とてもとても。


 俺が黙ってるし、気まずくなったのか形勢不利なのを悟ったのか島田は「じゃあな、服部」って逃げるように彼女にも「行こう」って言って歩き出したんだよ。けど、彼女だけは「服部君、目の下にクマがあるわ。寝不足なんじゃない? 体壊さないようにね」って言って、ぽんと腕を叩いてアモーレ広場横切って、駅の方へ行ってしまった。


 後に残ったのは俺ひとり。そしてエリザベス。


 アモーレ広場はなにごともなく喧噪の中にあって、人々が行き来してるだけだった。俺は追いかけて島田をぶっ飛ばしたいような、彼女を追いかけて好きだって言いたいような、頭の中、めちゃくちゃになった。弟が死んだ時のことが急に生々しく頭に浮かんで離れなくて。涙が出ないように必死だった。


 彼女の背中が見えなくなって初めてほっとしたよ。結局俺は現実から逃れるためにひきこもってたんだな。現実っていうのは、自分の弱さや無力さのことだよ。その頃はすべての自分にとって不都合なことから逃げたい一心だった。そして俺はずっとそのことを自覚してたんだ。


 エリザベスはいつも通り3曲歌って、彼女の舞台を降りていった。

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