第18話

 遠かったよ! すげー、遠い! ここから電車乗り継いで二時間ぐらいかかったよ! で、案の定、ど田舎だった。自然豊かで美しいといえば、まあ、嘘ではないんだけども。電車の本数は少ないし、駅前には何にもないし、そもそも無人駅だし、周りは田圃と畑だし。ちょっと遠くに山があって、緑が綺麗で、そこそこ大きな川がゆったりと流れてる。そんなところだった。


 施設の受付でエリザベスに会いにきたことを話すと、あからさまにびっくりされたね。どういうご関係ですかって、頭のてっぺんからつま先までじろじろ見られてさ。不審人物だと思ったんだろうなあ。それも仕方ないけど。


 でね、俺、説明のしようがないから言ってやったんだよ。「アモーレです」って。エリザベスのアモーレ。


 受付にいた職員のお姉さんはますます飛び上がらんばかりにびっくりしたね。だってアモーレ登場なんだから。


 そこがどういうシステムになってんのかちょっとはっきりとは分からないんだけど、四階建ての集合住宅みたいな建物で、一階部分に受付と集会所? 食堂? みたいな広めのホールがあって、その奥に病院みたいな扉が並んでて、二階から上はワンルームマンションみたいな個室。そこにエリザベスも含めてじいさんばあさんが住んでて、受付が来客やその他もろもろに対応しつつ、面倒見てくれるようなところだった。


 そうか、自由にやってるんだな。そう思うとほっとしたよ。自由って言葉の、実際の不自由さはさておき、な。


 受付のお姉さんはエリザベスの部屋は301ですからどうぞって言って、また俺の顔をじろじろ見るんだよ。だから俺言ってやったんだ。荷物検査もしますか?って。

 不審に思うんならそう言えばいいんだよ。規則に反してるなら、それも教えてくれればいいんだよ。俺だって無理強いしようなんて思ってないわけだし。ただ彼女に会わないことには何も始まらないから来ただけで、それ以外のことは深く考えてなかったんだから。


 確かに、よくぞ会わせてくれたよな。まだ当時は平和だったってことなのかな。今みたいに凶悪な事件がばんばん起きるような世界じゃなかったんだよ。たぶん。年寄りをあの手この手で騙そうだとか、弱い者を刃物でぶっ刺してまわるとかそういう事件は起きてなかった頃のことだから。


 エレベーターで三階まであがると、普通のマンションの廊下みたいな感じで、ドアには部屋番号が書いてあったけど、俺ね、見なくてもどの部屋かすぐ分かったよ。

 だって! 音が聴こえてんだもん!


 よくあんな音漏れさせてるな、怒られないんかなって俺でさえ思うぐらいの、まあまあな爆音だよ。曲? もちろんオペラのアリアだよ。


 年寄りは耳が遠いからテレビの音とか大きくなっちゃうだろ。だからそこじゃみんな大きな音出してるから気にならないのか、はたまた聞こえてないのか……。


 俺、音楽が聞こえてきたのがおかしくってさ。なんか笑っちゃって。ああ、彼女、変わらないなって思って。やっぱり彼女は何も変わらないんだ。それが嬉しいやらおかしいやら。


 それで部屋にはちゃんとインターフォンついてるんだけど、ピンポン何回も連打しても全然反応ないの。聞こえてないな、これはってぴんときて、一応ノックもしつつドアノブ回したら、これが正解、鍵なんかかかってないの。鍵かける習慣ないからね。エリザベスには。普通にすうっとドアが開いたのもなんだかおかしくって。室内に向って声かけた。エリザベスって。


 さすが高齢者向け。玄関もバリアフリー。あ、ドアは横にがらがらーってスライドして開けるタイプ。靴脱いで入っていくと廊下に面して洗面とトイレと風呂。で、奥には小さなキッチンとダイニング。ベッド置いた寝室。がらんとして、何もない。なんの飾りもない部屋だった。


 突差にあの長屋の部屋を思い出したよ。けばけばしい一階のでかいベッドと花模様のカップ&ソーサー。舞台裏って呼んでた二階の清潔な印象。


 キッチンはIHで薬缶があるきり。他に大した調理器具はない。テーブルの上にティーカップがあったけど、100均で買ったような白い、なんの愛想もない、シンプルなカップ。そのカップにティーバッグが入ってるのを見た時、初めて、ああ笑えないって思った。


 エリザベスはベランダのアルミサッシを開けて、そこに立って外を眺めながらレコードを爆音でかけつつ、立ってた。そう、レコードプレーヤーは健在だったんだよ。あの長屋にあったやつ。あれはちゃんと持って来てたんだなって思うとほっとした。


 俺がレコードの音量をちょっと絞って、もう一回名前呼んだら、エリザベスはやっと振り向いてさ。化粧してなくて、長らくセットも何もしてないんだろう長い髪がぐちゃぐちゃの縦ロールの束の名残りを残して、正直言ってぎょっとしたよ。老婆が振り向いたって感じだったから。


 エリザベスの背中からはあの頃一番感じていた覇気のようなものは感じられなかった。目は暗く、落ちくぼんで、げっそりやつれて、麻痺があるのか顔がちょっとひきつってた。


 彼女、俺を見て一瞬「あっ」ってのけぞったけど、でも、すぐに、不自由な体でよたよた近寄ってきて。近寄ってくるから俺も支えなくちゃって思うから手を伸ばして、支えてほしいせいかエリザベスも手を伸ばして。ドラマチックだろ? 恋人たちの、芝居がかった再会の場面だよ。


 いち早くエリザベスの手をとって「大丈夫? 心配したよ」って言ったら、なんとエリザベスが俺にしがみつくような格好で抱きついてきてさあ。


 慌てて支えたらエリザベスは「会いたかったわ」って一言……。


 足もひきずってたし、言葉も、喋りにくい感じだったけど、俺のことは分かってたよ。ちゃんと。


 嬉しかったよ。やっぱり。腕の中にダイブしてくるみたいな倒れ込み方だったのを受け止める格好になってたから、そのまま彼女を抱きしめたんだ。ちょっとでも力を入れたら骨が折れそうだから、あくまでもそうっと、優しくな。


 その瞬間分かったんだ。あ、俺、確かにエリザベスのアモーレだわって。俺自身も知らなかったけど、エリザベスにとって俺は最後のアモーレだったんだよ。


 彼女を椅子に座らせて、俺も正面に座って向かい合う形で、体のことやここの生活のことなんかをいくつか尋ねたんだけど、彼女はにこにこ笑うだけで、あんまり答えてはくれなかった。あの部屋を引っ越さなくちゃいけないのは前から決まっていたので、これも運命だったのかもしれないわなんていうばかりで。


 体の左半分に麻痺があるみたいで、でも、それも割と軽い方らしくて、リハビリしてるっていうのは話してくれた。


 ただ悲しそうだったのは「口が上手く開けられないから、歌えない」「声がでない」「耳もなんだか聞こえにくくて、ピッチがとれない」って言った時かな。「もうあんな風には歌えないわ」って本当に辛そうだった。


 俺、リハビリ頑張ればまた歌えるようになるよって言ったけど、気休めにもならなかっただろうな。無責任な励ましだったと思うよ。でも、他になんて言えばいいのか分からなかったんだ。またエリザベスの歌を聴きたいよ。そう言うと「がんばるわ」って言ってくれたけど。


 あとは、食事は施設が準備してくれてることや、身の回りの事も手伝ってくれること、でも出来るだけ自分でやるようにしてること。朝起きて、食事して、リハビリして、食事して、音楽を聴いて、ちょっと外の空気吸って、少しでも歌えるように練習してみたりして、食事して、入浴して、寝る。そんな生活だって教えてくれた。


 ある意味高齢者らしいというか、まあ、当然そんな感じになるよな? って思える生活だよ。うん。けど、悲しい感じはずっと漂ってて、ああ、きっと彼女はここにいたくないんだろうなっていうのは分かった。いたくなくても、行くところなんかないんだから仕方ないんだけど。だからこそ悲しかったんだろう。


 着物は処分したけど、ドレスは持って来たの。もちろん着ることはないんだけど。だってさ。


 それから俺に「絵はどうしたの」って聞くんだよ。どうもこうもないよな。一応、描いてるよって答えると「大学へ行ってもっと勉強した方がいい」なんて言うんだよ。今までそんなこと言ったことなかったのに。絵を描くことは勧めても、大学なんてそんな。なのに真剣に言うわけ。学ぶチャンスがあるなら、それを逃してはいけないって。


 エリザベスは「私はそういう機会を失ってしまったから」って、俺に勉強するようにって言うんだよ。素晴らしい才能があるんだから。それを枯らしてはダメ。時間がかかるかもしれないけど、水をやって、肥料を与えて、育てていかなくてはいけない。それは生きる使命だって。


 やけに熱心に言うなって思ったけど、あ、これ、もしかして別れ話? ってなんとなく気がついてそう尋ねたら、エリザベスはちょっと微笑んで「そうよ」って。

 別れるも何もないんだけど。でも、なんで別れることになるのって聞いたら、エリザベスが言うわけ。


「よく聞いてちょうだい。私はもうこの先衰えていくばかり。以前のように戻ることはない。むしろこれから私は今までのすべてを忘れていくことでしょう。老いは醜いものだから。でも、それは仕方がないことね。自然の摂理だわ。私はあなたを忘れて、自分が誰だったかも忘れていく。あなたにその姿を見せたくないの」


 そんなこと言うなよ。大丈夫だよ。って、そんな言葉の虚しさ、言ってる俺も、聞いてる彼女も分かってた。けど、やっぱり他に何も言えないんだよな。エリザベスのひきつって上手く表情筋を動かせない微笑みが、ピカソの絵みたいだった。


 できるだけ会いにくる。手紙も書く。描いた絵も送る。だから一日でも長く、俺のことを覚えていて。そう言ったらエリザベスの目は涙でいっぱいになった。瞳の美しさは、まだ衰えてなかった。皺に埋もれてはいたけども、澄んでいて、綺麗だったよ。


 あなたはあなたの人生を生きて。強い心で。それが彼女がくれた言葉。


 それから? それから俺は本気で大学目指す為に勉強し始めて、浪人して、今に至るってわけ……。


 エリザベスには毎月会いに行ってたけど、本人が言う通り、少しずつ弱っていき、ベッドに寝てる時間が多くなり、これも予告通りに俺のことを忘れ、自分自身を忘れ。認知症? まあ、そういうことだろうね。


 俺は彼女の希望に反して、彼女の「老い」を見つめてた。それは彼女のプライドや美意識を傷つけるものだったかもしれない。けど、俺があの長屋の部屋に残した手紙の言葉。あれは真実だったんだよ。愛してたから。彼女を。だから。


 もうこの半年はほとんど意識ないも同然だったね。俺の事も分からなくなってたし。ベッドに寝て虚空を見つめてるだけ。音楽にはわずかに反応したけど。


 エリザベスがアモーレ広場で歌ってたレパートリーを聴かせてやると、神妙な顔するからきっとそこだけは分かってたんだと思う。


 恐らくは凄まじい人生を生きてきたであろうエリザベスが、この期に及んでまたすべてを失うことになるのかと思うと本当に悲しかった。だってそうだろう。若い頃の夢や希望を戦争で奪われ、大事なものをなくし、大切な人を失い、苦労して、たった一つ残った歌声も失うなんて。一体なんの為に生きたんだよ……って。かわいそうでたまらなかった。


 でもエリザベスがまだ喋れた頃に「私を憐れまないで」って言ったんだよ。「私は不幸な女ではない。幸か不幸かは私自身が決めることだから」って。


 まいったね。老いも死も、彼女から何も奪わない。彼女は何も失わない。不遇な人生を生きたかもしれないけど、彼女の美しさは実際損なわれなかっただろう? どんな苦しい局面にあっても、彼女の精神は汚されなかった。それは結果的に俺を救ったよ。だってそうだろう? 彼女は俺に「生きる」ように諭してくれたんだから。


 そうして今、生きてる。生きる以外に道はないんだよ。どんなに絶望したとしてもね。それが、すべてだ。


 服部は寝ている連中を見ながら「平和だよな」と笑った。今日はもう一日こうやって寝てようぜ。そう言うと目を閉じた。


 エリザベスの最後はどうだったのかと尋ねると、服部は静かに答えた。


「施設の人が教えてくれたけど、眠りながら大往生。ちっとも苦しまなかったって。葬式ってほどの葬式でもなかったけど、最後のお別れはさせてもらったよ。綺麗な顔だった。びっくりしたのは、棺桶の中のエリザベスがドレス着てたってことかな。そういう遺言を残してたらしいよ」


 アモーレ広場の歌姫はやはりドレスがよく似合っていた。服部はそう言うと「おやすみ」と呟いた。


 静かな朝が服部を包み、雨は優しく振り続けていた。


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アモーレ広場の歌姫 三村小稲 @maki-novel

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