第9話

 服部はクロッキー帳を卓袱台に置くと、そのままごろりと横になった。線香の煙はまだ細く漂っている。


 伸び放題になって肩に届くようになった長い髪が顔にかかって表情を隠していた。


 しばし無言でいるので、酔って寝てしまったのかと思いタオルケットをかけてやろうとすると、急に半身を起こして「ちょっと片付けとかないとまずいな」と言って髪をかきあげた。


 明日でいいんじゃないの。こいつらにも手伝わせないと。そう言ってごろごろ転がって鼾をかいている連中を指差したけれど、服部は笑って「いいよ」と言うと、卓袱台の缶ビールやグラスをお盆に乗せ始めた。


 それからスナック菓子の残骸を集め、ちらばっていた小皿や割り箸を拾う。


 とはいえ、服部も相当酒が入っていることを思うと、手伝って台所へ一緒に皿やグラスの類を運んで行った。


 服部がゴミをまとめているので、それではと思い流しに置いた食器を洗い始めた。


 流しの目の前に小窓があり、ワンカップの空き瓶にどこかで見たような草が水に挿してあった。


 何かと尋ねると「ミント」だと答えた。触ってみたらいい匂いがする、と。


 言われた通りに小さな葉を軽くこすってみると、確かにそれだけで鮮烈なミントの匂いがした。ワンカップの水の中でミントはちょろちょろと根を出し、茎はひょろりと伸びているのが分かる。ずいぶん乙女なことしてるんだなと思ったのでそう言うと、服部は「これからの季節はミントティがうまいから」と言った。あと、家でモヒートを飲みたいからミントを庭に増やすのだ、とも。


 皿を洗うかたわらで、服部は空き缶を潰している。ぐしゃりという固い音が台所に響く。


 台所の中央に置かれた小さなテーブルは、かつては食卓であったのだろうか。醤油さしなどの載った小盆がある。が、今は作業台とでもいうのだろうか椅子はひとつも置かれていなかった。


 片付けを手伝ったから、お前には特別にアイスをやろう。冷凍庫にあるから好きなの選んでいいぞ、と服部は言った。空き缶はずいぶんたくさんあって、服部はそれを淡々と捻り潰していく。


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 結局、エリザベスとは文字通り茶飲み話しただけだった。その夜はね。


 俺、ちょっとびっくりしてたんだ。誰かを探してるっていうのは、どういう意味だろうって。それは俺じゃなくて、自分のことじゃないのかって。そんな風に思うってことは、エリザベスこそ誰かを探してたんだと思う。なんていうのか、それは人なのか、失ったものなのか分かんないんだけども。


 あ、そうそう。気になったのはさ、エリザベスが音楽をかけなかったこと。アモーレ広場で歌うぐらいだから、部屋であのぼろっぼろのカセットテープでもかけるんかなと思ったけど、全然そんなことはなかった。


 こっちもただ質問に答えるだけっていうのは馬鹿みたいだから、俺もちょっと彼女に尋ねたんだ。


 いやいや、もちろん、年齢とかそういうんじゃないよ。それ聞くほど本物の馬鹿じゃないから。えーとね、音楽のこと。アモーレ広場で歌うのは3曲だけって決まってるんですか、とか。歌はどこで勉強されたんですか、とか。


 そしたらエリザベスもちゃんと答えてくれて、俺はその丁寧さにも内心びっくりしたね。だって無視されてもおかしくないじゃん。言いたくないとか。たぶん俺に悪意がないっていうのが分かったんだと思う。そういう意味では彼女は初めから俺に心を開いてくれてたんだと思う。


 アモーレ広場で歌う曲数を決めているのは、「あまり長くやってうるさがられてもいけないから」っていうのと、「もう年齢的に何曲も歌うのは大変」だからなんだって。案外普通の答えだろ。


 それから「若い頃にね、音楽を勉強していたの。若い頃っていうとずいぶん昔のことなんだけど。戦争の前ね」ってさらっと言うから、ああ、彼女の都市伝説はつまるところ素直で、嘘も包み隠しもないこんな言葉から出たんだろうなあって思った。ようするに、誰かの推測ではなく、彼女が誰かに語った真実なんだってこと。


「小さい頃からピアノを習わせられてね。才能はなかったと思うわ。でも、周りがね。期待してたのよ。過剰な期待だった。声楽も勉強したし、留学の予定もあったのだけど……それは戦争で全部だめになったわ。そりゃあ残念だった。行っていれば……、いいえ、戦争がなければ。戦争に負けなければ。いいえ、違うわね。誰が勝っても負けても、人生は大きく変わっていたわね。ようするに、争いはすべてを壊し、何者も幸福にはしないってことよ」


 この話で分かるだろ。エリザベスがいかに裕服な家の娘だったか。子供の頃どんなとこに住んでたんですかって尋ねたら、やっぱり丁寧に答えてくれるんだよ。


「山手のね、ちょっと大きなおうちが多いような住宅街よ。お商売をされている方のお宅が多かったし、外国人も多かったから素敵な洋館もいくつもあったわ。私のおうちもね、貿易か何かの仕事をしていたとかいう元は外国人の住んでいた洋館で、とってもモダンで素敵なおうちだったのよ。芝生の庭に薔薇の木があるようなおうち。ご近所の音楽教師をしていたドイツの方と、イタリアの方が私の最初の先生だった。もちろん最初は子供のお遊び。けど、お二人はとても熱心に指導してくださって、それで留学の道筋をつけてくださったの。けど、お二人とも開戦の直前に国へ帰ってしまった。その後のことは知らないわ。外国語の発音は彼らが教えてくれたの。でも私、外国語を話すことはできないのよ。できるのは歌うことだけ。おかしいでしょ」


 聞いたのは、そのぐらいかな。彼女の口から戦争という言葉が出た時、ちょっとどきっとしたね。やっぱり聞くべきじゃないのかなと思って迷った。だって、それは彼女にとって、いや、たぶん、多くの、戦争を経験されている人にとって話したくない心の傷なんじゃないかと思うじゃん。うっかり聞いてもいいのかなって、思うだろ。


 あとは……ちょっと興味があったからここには一人で住んでるんですか、二階はどうなってるんですかって聞いたんだ。そしたら「一人よ」って。


「二階はね、お化粧する部屋」なんだって。見ていいですかって聞いたら、これはきっぱりと「それはダメよ」って言われた。


「女性の舞台裏なんて見るものではないわ」だってさ。俺が見てるものが表舞台なら、そりゃあ裏は見ない方がいいだろう。表でこのひどさなら、裏は地獄だもんな。え?ひどい? まあ、ひどいよな……。けど、こういう事は嘘言えないじゃん……。彼女が年齢の割に美しかったとか、素顔も綺麗だったとかさ。それは嘘だろ。そんなわけないんだから。嘘言ったところでどうにもならん。それに言っただろ。彼女の価値はそういう外見的なことではないって。魂の美しさと高貴さと、気高さと、知性と優しさ。そして歌声。それでいいんだよ。それで。


 それにしても発音の上手さの理由が分かって「なるほどな」って思った。


 仕事のこと? ああ、それはねえ、さすがにちょっと聞きにくかったから、聞かなかったよ。体売ってんのかってことだろ。聞いたところでそれが何なんだって話しだし……。恐らくは長年やっているであろう彼女の商売について、彼女の個人的な事情に立ち入る権利俺は絶対に持ってないからさ。


 最初のうちこそ部屋が気持ち悪いなって思ったけど、だんだん慣れてくるのな。エリザベスと話してるうちにまあ大丈夫かなってぐらいには思えるようになって、しばらく……といっても長い時間ではなかったんだけど、お茶飲みながら音楽の話しとか、してた。それだけ。本当にそれだけだったんだよ。

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