第8話

 服部が見せてくれたクロッキー帳に描かれたエリザベスのデッサンは本当にしっかりと黒々と描きこまれていて、その時の気持ちを表す熱量みたいなものが見てとれた。


 それから、他のページに描かれたものもまたひたむきな情熱が滲み出ていて何度も見返したくなるものだった。


 服部はおもむろに茶の間に置かれた仏壇の前に胡坐をかき、蠟燭に火をつけてから線香を灯した。


 細い煙が漂い出して縁側から庭へたなびいて行く。


「懐かしいよな、そのクロッキー帳」


 同意を求めるようで、それでいて独り言のような呟きだった。


「俺達兄弟はいっつも絵ばっかり描いてたな。ちっさい頃から。ずっと。よく飽きなかったよな。でも、弟の方が才能あったよ」


 服部の呟きは重く、吐きだした溜息もまた重く、部屋の気圧が下がるような錯覚を覚える。


 クロッキー帳をめくる服部の目が潤んでいるように見えたのは、夜通しずっとちびちび飲んでいるウイスキーのせいだけではないだろう。


 アトリエとなっている洋室には新しいキャンバスが置かれ、描かれるのを待っている。


 大学の課題があるんじゃないのかと問うと、服部は「まあな」と頷いた。

 何を描くのか尋ねようとしたが、クロッキー帳を見つめている横顔を見ていると主題はすでに決まっているように思われた。


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 結局エリザベスはさ、クリーニング代を受け取ったんだよ。


 断るかと思うだろ。でもそこがやっぱり困窮してたってことなんだよな。当たり前だけど……って言うと失礼なのかもしれないけど、エリザベスはやっぱり金持ってなかったわけよ。そこらへん、想像つくだろ。


 けど俺は受け取ってもらってちょっとほっとした。自分としても気がすんだというか、罪滅ぼしはしたなっていうか。


 で、それじゃあ……って言おうとしたら、エリザベスが「あなた、時間はある? よかったらお酒でもどうかしら」って誘ってきたんだよ。


 それってもしかしてまた「一万円よ」の続き? ってちょっと身構えて、俺、今さらだけど「僕、実は未成年なんです」って言ったんだよ。これはまあ、ようするに「逃げ」な。分かるだろ。


 我ながら不思議だなって思ったよ。夜な夜なエリザベス探してうろうろしといて、ハッピイハウスで酒も飲んでてさ。そのくせいきなり「僕、未成年」なんて、なあ。ないわ。ないない。へたれだよな。ただの。


 けどそこがエリザベスのすごいところでさ、しつこいっていうより、すごく自然な調子で「それじゃあ、お茶でもいかが」って言うんだよ。


「私のうちね、すぐ近くなの。どうぞお寄りになって。お茶ぐらいご馳走させてちょうだい」

 って。


 私のうち。それがどこらへんかっていうのはテンガロに聞いて知ってたけど、まさかお招きいただくとは思わないじゃん。俺はまたそこで「一万円」のことが頭をよぎったわけ。


 しょうがないじゃん。だって。相手はそういう商売の人ってもう分かってるわけだし。そこ行ったら金払って何かしてもらうか、何かなんだろって思うだろ。ゲスいかもしれないけど。


 あのね、職業で人間を判断したりはできないけどね。職業に貴賎はないって言うけどね。それは、嘘だよ。そんなのおためごかしだよ。偽善。だって実際に社会の構造はそうなってるじゃん。


 精神的には職種で人を貶めたりはできないし、するべきじゃないのは分かってる。それは道徳的にも、社会的にも許されることではない。でも、現実は違う。


 その時ガキだった俺がそんな風に明確に考えたわけではないんだけども、潜在的に彼女はやはり社会のヒエラルキーで言うと底辺……ってことを感じ取って、彼女に対して警戒心が働いたわけ。今となっては愚かしいと思うけども。でもガキの警戒心や危険を察知する本能的な能力って、馬鹿にできないと思うんだよ。


 エリザベスはもちろん違ったわけだけど、あんな道端の暗がりで客引いてるお姉さんの背後にヤクザがいないなんて言いきれないじゃん。むしろ、どっちかつーと「いる」のが正解なんだから。そういう危険な香りを感じるわけよ。人の本能は。え? 感じない人もいる? そういうのは馬鹿って言うんだよ。


 と、まあ、こんだけ散々言っといてなんだけど、エリザベスの話す様子や言葉使いっていうのは本当に貴族的で優しいんだよね。そんで、微笑みながら言うもんだから、断りきれないっていうか、そう、無下にできない感じなんだよ。


 ……うん。だから。だからよ。俺、エリザベスについて、例の「倒壊寸前」みたいなボロ屋にくっついて行ったんだよ……。


 そこはテンガロが教えてくれた不動坂から一本東の通りで、そこから建物の隙間みたいな路地をひゅっと入っていくんだけど、本当に、まあよくこんな古い家が今もあるな……って思わず感心しちゃうぐらいのボロ家でさ。映画のセットかよって思うぐらい、すごかった。


 所謂、長屋造りで、二階建の建物がぴったりくっつきあって数軒並んでんの。そのうちのいくつかは小料理屋とかスナックなんだけど、そこに挟まるようにして一際ぼろぼろの一軒がエリザベスのうち。


 間取りはね、二階建なんだけど六畳二間なの。だから六畳が二部屋。ちがうちがう。上下に二つずつって意味じゃない。上と下を合わせて二部屋。ははは。ようするに、一階に一部屋。二階に一部屋。積み木みたいになってんの。あ、一階はそれプラストイレと台所。風呂はないよ。階段なんて人一人通るのにぎりぎりで、冗断みたいな急勾配。階段の踏み板の幅もつま先立ちじゃないとあがれないぐらい狭いんだよ。


 エリザベスが「ここよ」って言った時さ、俺思わず「マジで」って呟いたね。聞こえてはなかったみたいだけど。


 玄関は磨りガラスの入った格子戸で、歪んで建てつけが悪いのかぎしぎしきしんで、全然スムーズに開かないのをエリザベスが力ずくで開けてくれて「さ、どうぞおあがりになって」って……。


 引き戸開けるといきなり部屋。三和土とかあがり框はない。あ、一応、靴一足分ぐらいのスペースはあったかな。でも視界に飛び込んでくるのがさ、いきなり畳! そして、ベッド! なんだよ!


 なんでここにベッドが! ってびっくりしたし、正直、気持ち悪いなって思った。だって、それって、あれだろ? ここで「商売」するわけだろ……。生々しすぎるんだよ。じめじめ湿った空気とか、どう考えてもシングルじゃない大きめのベッドと、枕が二つあるところとかさ。


 こう言っては申し訳ないけど、そのベッドと布団を見ただけで、急に吐き気が……。


 もしこれが若い女だったとしたら俺はそういう風には感じなかったと思う。そういう意味でも見た目は大事だし、若さは色々なことを許すもんなんだなとも思った。


 エリザベスは台所に立つと薬缶を火にかけて、「どうぞおかけになってくつろいでちょうだいね」って言うんだけど、くつろげるわけないよ。


 座るって言ってもどこ座っていいか分かんないし。しょうがないから、嫌だったけども、ベッドの端っこにちょっと腰かける感じで両手は膝の上に組んで部屋全体を眺めた。


 台所っていっても部屋の隅がそこだけ一部板敷になってるだけで、シンクも小さいし、ガス台も古いんだけど、でも汚いって感じはなかった。何もかもがとにかく古いってだけで、汚れてはいないんだよ。それが救いだったかな。気色悪かったけどベッドも汚れてはいなかったしね。


 エリザベスは花柄のティーポットで紅茶を入れてくれたんだけど、その入れ方がまた本格的でさあ。まずお湯をがんがんに沸騰させて、それでポットとカップを温めて。それからお湯捨てて、紅茶の葉っぱをスプーンで量って。


 それをお盆にのっけてベッドに運んでくんのな。カップも花柄で、ご丁寧にミルクピッチャーも添えてくれて、あと三分ほどお待ちになって……って言うんだよ。

 紅茶はね、うん、美味かったよ。マジで。普通のうちって、ティーバッグの紅茶をちゃっちゃっとやるぐらいじゃん。本物の紅茶ってこんないい匂いがして、こんなに美味しいのかってびっくりした。


 でも、なんかちぐはぐだよな。場末のボロボロの長屋で、隣りのスナックからしょうもないカラオケが漏れ聴こえてくるような部屋なのに、貴族のような紅茶。なんかね、そこにエリザベスの人生を垣間見た気がして、なんとも言えない気持になったよ。彼女が元は裕福だったことの証拠みたいだろ。彼女の上品さ、優しい物腰……。それに比べてこの落ちぶれっぷり……。


 俺が紅茶飲んでる間、エリザベスは折りたたみの小さい椅子を出してきてそこに座って微笑んでた。珍妙だよな。今思い出してもつくづくそう思う。


 話し? うん、したよ。エリザベスがね、俺に聞くんだよ。「あなた、未成年って言ったけど、おいくつなの?」とか「学校はどうなさったの?」とか……。

 ま、誰でも疑問に思うよな。夜中にうろうろしてる未成年……。まさかそんなまっとうなこと質問されるとは思わなかったけど。


 嘘ついてもしょうがないから正直に答えるわな。年齢も、学校辞めたことも。けどエリザベスは別に驚きゃしない。「あら、そうなの」って言うだけ。なんで辞めたのかは聞かれなかった。その代り「それじゃあ、毎日なにをなさっているの」なんて聞くから、毎日家でぼんやりしてる。たまに街に出てきて、人を眺めてる。未成年だけど、クラブ行って酒飲んでみたりして、そんでまた人を眺めてる。それだけだって答えたんだよ。


 そしたらさ、エリザベスが尋ねたんだよ。

「あなた、そんなに毎日人を眺めて、一体誰を探しているの?」

 って。

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