第7話

 こんな話をしだすといつも服部は、酒のせいもあるのだろうけれども急に黙りこんだりすることがある。今がそうだった。


 ふと見ると縁側に置いていたウイスキーのボトルがずいぶん減っている。大丈夫かと問えば服部は必ず大丈夫だと答えるのが分かっているから、尋ねることはしない。

 だが、そう言うからといって本当に大丈夫かというと、そういうことではないのは見ていれば分かるので、卓袱台に置いてあったミネラルウォーターのペットボトルを取り上げて、無言で服部のグラスにどぼどぼと注いでやった。


 一瞬、服部は「お……」と怯んだが、しばしグラスを見つめてから「ありがとう」と言った。


 先に寝落ちしてしまった仲間の一人が軽い鼾をかいている。


 レコードをかけようかと尋ねると服部は「そうだな」と呟き、グラスを手に取って口をつけつつ、シャンソンらしきものを鼻歌で歌い始めた。そんな曲は知らないというと、棚にレコードがあるというので指示されるままにごそごそと探してみるも、見つけられず、しばし無言で棚を漁っていた。


 その間も続く服部の鼻歌は低く、甘い。まるで緩やかな水の流れのように漂う。それが眠気を誘うので意識を保つのにやや苦労を要した。


 そうやって鼻歌を聴いていると、服部は急に思い出したように「ちょっと待ってろ」と言うと、隣の部屋に立って行き、ひとしきり何かやっていたかと思うとクロッキー帳を持って戻ってきた。


 そして無言でこちらにぬっと差し出すので、どれどれ……と手に取ってめくると、それは一目で服部の描いたものではないのが知れた。


 恐ろしく緻密な人物画と、夢で見たような淡い風景画。そのいずれも丁寧で細かな描写がされており、荒々しい筆致の服部のものとはまるで違っている。


 誰が描いたものかは聞かずとも分かった。服部の弟だ。絵が好きで、才能があって、素晴らしかったという服部の弟。ぱらぱらめくっていき「やっぱり上手いな」と言いさして、最後のページになり、はっとして手を止めた。


 服部はにやりと笑った。最後のページは服部の手によるもので、画題は鶏がらみたいに痩せて、馬鹿げて眼の大きな、睫毛の陰影が鉛筆で黒々と描きこまれた一人の女の肖像だった。


 若い女では、もちろん、ない。そっと服部を見やると、服部は言った。「それ、エリザベスな」と。


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 とにかく、いくらいいって言われてもドレス汚したことには変わりないわけだから、そのままってのもダメだろうなと思ってさ。俺、次の日にまたハッピイハウス行って、テンガロに色々聞いたんだよ。


 そうしたらそれを不気味つーか、まあ、不審に思ったんだろうな。テンガロが気持ち悪そうにさ「なんでそんなこと聞きたいわけ」って言うんだよ。「向こうがいいって言ってんだから、いいじゃん。責任感じることないよ」ってさ。


 いや、まあ、そう言われたらそれはそれで救われる気持ちにもなるし、他の場合だったら俺も「わざとじゃないし」って思ったと思うんだ。でも、あのエリザベスの高貴さを見たら、そういう言い訳して逃げを打つのは人として駄目な気がして。卑怯じゃん。相手の寛容さを言い訳にして責任を逃れるなんてのは。


 本当に高潔で純粋な善良さというのは人の心に訴える力を持つよ。それを感じられないようなら本当に人間として終わってるし、胸が痛まないとすればもう頭おかしいんだわ。


 彼女が寛容で優しいのなら、俺は誠意をもってそれに応えるべきだと思ったわけ。ちょっとこれは格好よく言いすぎだけど……。でも、そういうこと。そんな気持ちになったってこと。


 とにかく弁償はできないまでも、クリーニング代ぐらいはと思ってテンガロにそれまでのこと話したんだよ。前にもアモーレ広場で歌うの見たこと、一万円よって言われたこと……。彼女の歌は本物で素晴らしい才能だと思うってこと。それに対して無礼な真似はできないと思うってこと……。


 そしたらテンガロはちょっとびっくりした顔したけど「そうか」って急に納得したような感じになって、


「お前がそう言うなら、気のすむようにすればいいよ。エリザベスは別になんとも思ってないと思うけど」


 って言って、エリザベスが週末の夜にはだいたいの場合アモーレ広場で歌うことと、不動坂あがる途中の路地に入ったことにある倒壊寸前みたいなボロ屋の二階に住んでること、高架下で客引きしてることなんかを教えてくれた。


 住んでるとこ知ってるっていうのは意外だったね。そういうの誰も知らないかと思うじゃん。都市伝説になってるばあさんだから。でも、テンガロが言うにはそれも案外有名な話なんだって。


 あのさ、この情報が妙に詳細なとこ、気にならん? 客引きのことやアモーレ広場で歌ってるのは誰でも見かけたことあったかもしれないけど、住んでるとこってのはさ……行ったことある奴がいるってことじゃん。即ちエリザベスを買ったことのある奴がいるってことだろ……。一万円で。


 もちろんそれはテンガロではなかったんだけど、そうして色んな辻褄が合ってくると、心のどこかで信じてなかったんだろうなあ、エリザベスが本当に売春婦だってことの証明を突きつけられたみたいでちょっとショックだった。


 俺がショック受ける筋合いじゃないんだけど。


 テンガロにしても、本当は誰がエリザベスを金で買ったかとか、誰が住んでるとこに行ったことがあるとか知ってたんじゃないかな。でもそういうのはやっぱりべらべら喋っていいことじゃないだろ。それがテンガロの職業的倫理なんじゃないかな。


 一応いろいろ教えて貰ったし、テンガロに迷惑かけたのもあったし、俺、生意気だと思うかもしれないけどって一言前置きして「奢るから一杯飲んで」って言ったんだよ。あ、ちなみに、テンガロって俺より年上な。そりゃそうだろ。だって、当時の俺、まだ十代だったわけじゃん。今じゃまるっきりタメみたいな顔してるけど、テンガロには他にもいろいろ世話になったから、頭上がんないよ。え? そう見えないって? でも、そうなの。俺、あいつには恩義感じてるから。


 そしたらテンガロはさ、普通にありがとうって言ってビール飲んで、まるで予言するみたいにこう言ったんだよ。


「お前とエリザベス、なんか似てるとこあるのかもしれない。どっちも色々と背負ってるよな。だからお前はエリザベスのことが気になるのかも。でもな、お前、だからって人の荷物まで背負わなくてもいいんだからな。持てる荷物なら持ってやればいいんだけど、あんまりのめりこむなよ」

 って。


 この時は「ふーん」ってなもんだったけど、これほどの真実はなかったなって後になって思うことになるんだけど……。ま、そん時はぴんとこないわな。そんなもんだよ。


 とりあえずエリザベスの情報は聞いたわけだから、俺、また夜に高架下を探しに行ったんだよ。


 客引きってキャバクラやガールズバーみたいなのじゃないよ。もっと、こう、イリ―ガルなやつ。


 ほら、たまに見かけない? 妙齢のお姉さんが暗がりで一人で立ってて、静かに声かけてくるようなやつ……。ま、ちょっとあやしいマッサージとか? 警察24時みたいな番組で見るような、ガサ入れが押し込んできて下半身丸出しのところを身柄確保されるような? そんなんに誘ってくるお姉さん。


 ああいう客引きって静かなんだよな。「おにいさーん」みたいな鼻にかかった声出すんじゃなくて、もっと、こう、囁きかけるみたいな。いかにも闇取引を持ちかけてくる感じ。


 なんで知ってるのかって? それは見てれば分かるんだよ。俺、ヒマでいっつもぶらぶらして人間観察みたいにぼんやりと人を見てたから。それで。


 で、夜九時ぐらいかな。西からずっと高架下を歩いて、ちょっとここ暗いな……ってとこ見つけるとうろうろして、客引きしてそうなお姉さん探して。見つけたら、あ、ここら辺いるかもってあたりをつけてまたうろうろして。


 あやしいよなー。俺が。俺の方がよっぽどあやしい。客引きのおねえさんはイリ―ガルだから、警察きたら捕まるわけ。でも、そのおねえさんを探してうろついてるんだから、俺だって不審者で捕まるわ。今考えたらあぶないことしてたよな。


 結局、一週間は探したかな。週末になってやっと見つけたんだよ。そう、高架下で。それも柱の陰に幽霊みたいに立たずんで壁と一体化してる感じのところを。


 あれはね、本当に悲鳴出そうになるよ? 暗闇の中に白塗りのばあさんだからね。俺、探してたにも関わらず一瞬心臓がきゅってなったもん。けど、見つけたってのは嬉しかったんだよ。ほっとしたっていうか。もう探さなくていいんだとも思ったし。


 エリザベスはドレス着て暗がりに立ってるんだけど、白塗りの顔だけがぼうっと街灯に浮かび上がってて超怖かった。


 こんなんで客つくんかね? って思ったよ。で、よくよく見るとドレスに黒みがかかったシミがあって、また心臓がきゅってなった。俺がぶっかけたワインのシミ。


 もしそこがもっと明い場所で、人がいっぱいいたら声かけれられなかったかもしれない。そういう意味では娼婦の客引きが暗がりで行われてるのは、彼女達が隠れてこそこそしたいからじゃないんだよ。買う方の人間こそが顔が知れたら困るから、こそこそする為に暗闇なんだよ。


 俺が近づいてって普通に「こんばんは」って挨拶したら、エリザベスは顔をあげて俺の目の中をじいっと覗きこんできた。俺は指が震えるのに自分で気がついた。恥ずかしいよな。かっこ悪い。


 エリザベスの目。やっぱり綺麗だった。あの目の美しさっていうのは本物だね。どんな美人も年取れば容色は衰えて、太ったり、肌が荒れたりするようなもんなのにね。実際エリザベスが何歳かなんて知らないにしても、目の美しさは年取らないんだよ。しわしわのばあさんでも、だよ。


 彼女が俺のこと忘れてるかもしれないと思って「こないだ、ハッピイハウスで……」って言いかけたら、エリザベスは「ええ、覚えてるわ」って。「あなたのこと、覚えてるわ」って二度言ってにっこり微笑んで、「また会えるなんて嬉しいわ」って言ったんた。


 それ聞いた途端、なんでか分かんないんだけど急に息が苦しいようは、なんとも言えない気持ちになってさ。俺、咄嗟に目を背けたんだよ。なんでだろう。泣きそうになって。また会えて嬉しいなんて言葉、そう聞くことないだろ。


 でもさ、俺、別にエリザベスに言われたから嬉しいとかせつないとかってわけじゃなかった。なんとなく、そんな風に誰かに言われたかったのかな。ひきこもりってさ、寂しいもんなんだよな。実際。だから、かも。


 俺は、俺が思う以上に孤独だったのかもしれない。今となってはそう思う。でも不思議なもんで、孤独な人間っていうのはその渦中にいる間は自分を孤独だとは思わないんだよ。孤独さえも認識できないのが、真の孤独なんじゃないかな。そもそも孤独っていうのは、第三者がいて初めて感じられるような気がする。あらかじめ世界に自分しかいないと思えば孤独なんて感じようもないんだよ。その時はそんな感じだったと思うんだ。


「こないだはすみませんでした。その服、シミになって……」って言ったら、エリザベスは「まあ。もしかしてそれを気にしてたの?」ってまた笑って、「優しいのね」って言った。


 俺はあらかじめ用意してたクリニーング代……といっても大した額じゃないんだけど、もちろん「一万円」でもなかったんだけど、封筒にいれたのを差し出したんだよ。「本当にすみません」って言って。「あんまり入ってないんだけど。僕、お金持ってなくて」って。え? そう、俺ね、そん時は自分のこと「僕」って言った。だって、相手、目上じゃん。目上どころか、ばあさんじゃん。そういう人に対して「俺」って失礼じゃない?


 とにかく、僕はお金持ってなくて、でも、ワインはシミになるからやっぱり申し訳なくて、あなたのこと探してたんです。どこにいるかはテンガロに聞いて。そんな感じで説明するとエリザベスは黙って聞いてて、俺の差し出した封筒を受け取ると「あなたみたいな優しい人、初めてだわ」って……。

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