第6話

 ふと気がつくとだらだらと飲んでいた連中のほとんどがそのまま畳に転がってぐうぐう寝ていて、服部は立ち上がると「しょうがねえな」と言いながら廊下の向こうの部屋へ立って行き、タオルケットや大判のバスタオルを持ってきて寝ている奴らに順番にかけていった。


 服部は自由気ままな振舞いが多いが、基本的には面倒みがよく、優しい。その優しさというのは年上らしい優しさで、そのことを言うと服部は「長男だからかも」と笑った。言われてみると確かに服部の優しさは「おにいちゃん」ぽい。


 みんなで好きな菓子やビールを取り合う時も、先に選ばせてくれるし、メシを食うとなると必ずあれこれと世話を焼いてくれて、貧乏学生が腹いっぱいになるよう配慮をする。酔っ払ってゲロを吐いても厭わず介抱してくれる。今もこうして寝てしまっても腹が冷えないようにとタオルケットをかけてくれる。


「弟が体弱かったし、すぐ泣く弱虫タイプだったからさ。やっぱり面倒みるだろ。みさせられるというか。だからついその習慣が出るんだよな」


 服部は寝転んでいる一人の頭の下に座布団を折りたたんで枕代わりに差しこんでやってから、グラスにウイスキーを注ぎ足してちびちびと飲んだ。


 視線が酔いつぶれた仲間たちの上を順番に巡り、最後に仏壇の方に注がれていた。


「こいつら、酒弱いよな」


 服部は笑って、寝転ぶ仲間たちを指し示した。


 服部は知らない。他の連中が弱いのではなく、自分が飛び抜けて酒に強いということを。


 ウイスキーにはチョコレートも合うとか言いながら、誰かが買ってきたチョコレートの包み紙を開いて口にいれる。こういう組み合わせはエリザベスが教えてくれたのだと、服部は懐かしそうに微笑んだ。


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 知らないうちに時間がたつんだよな。ひきこもりみたいなことやってると。何もしてないのに時間が飛ぶように過ぎて行く。


 エリザベスとまた会ったのは一か月後だったんだけど、その感覚がなくって。

 俺、友達とクラブ行ったんだよ。週末。友達がDJやってたから。ハッピイハウスってあんだろ。あそこ。


 俺のえらいところは、そういうとこ行ってもナンパしないとこ。え? ただのヘタレ? まあそうかもしれんけど、俺本当に女の子に声かけたりしなかった。女の子の方から声かけられたりしたことはあったんだけど、でも、ついて行ったりはしなかったよ。


 なんでって……。なんでだろうな。人見知り? なに笑ってんの? いいよ、どうせ信じないと思ったから。


 とにかくその頃は女関係は一切なかったってことだ。可愛い子もいたんだけどなあ。硬派な気分だったんかもなあ。今となっては俺自身もあの頃の気持ちが分からんわ。童貞だったわけだし。


 その頃仲間うちで童貞って俺だけだったんだよね。なんでみんなあんな早かったんだろ。不思議。けど、焦りとかはなかったね。やりたくないとは言わんよ。やりたかったよ。めちゃめちゃ。それこそさ、ひきこもってるわけだから家で自家発電しまくり。


 や、だから、なに笑ってんの。あれ、自家発電ぽいだろ。木を擦って火を起こすような? 摩擦でエネルギーを生むという。ははは。つーか、そもそもマスターベーションって自己満足って意味なんだって? あの行為は確かにただの自己満足だなあ。俺はあのひきこもり生活で一生分のオナニーした気がするわ。うん、まあ、そんなわけないか。でも気分的にはそういう感じ。


 とにかくクラブ行っても、酒飲んで、音楽聴くのがただ純粋に楽しかっただけ。女の子のこととか、恋愛とかそういうものはあんまり考えてなかった。カノジョが欲しいとも思ってなかったし。


 そうやって夜遊びしてるとさ、だんだん店の人とも仲良くなったりすんのな。酒もね、タダ酒飲ませてもらったりね。ありがたいよな。年上の人たちにかわいがってもらって。で、ああいう夜の商売してる人たちってだいたい街の噂とかに詳しいから、面白い話も結構聞いたよ。


 街の噂って、分かる? 例えば常連客の中で誰と誰がくっついたとか、別れたとか。悪口も聞く。どこの店のなにが美味い、まずいも。もちろん都市伝説エリザベスのこともな。


 エリザベスが戦前は裕福な育ちで、没落して娼婦になったとかいうのも「街の噂」。ああいうのは永遠に続く伝言ゲームみたいなもんだよ。ツレに聞いた話。ツレのまたツレから聞いた話。ツレのツレの、そのカノジョから聞いた話。そうやって続くと何が本当かなんて絶対分からないだろ。そもそも原点はどこにあるんだっていうね。


 だから俺は何を聞いても話し半分にしか聞いてなかったんだよね。でもハッピイハウスのカウンターにいるやつ、知ってるだろ? カウンターで酒作ってるやつ。そうそう、いつもテンガロ被ってるやつ。あいつだけは信じられた。


 なんでって……。あいつはエリザベスと普通に話したりしてたほとんど唯一の人間だったんだもん。


 その晩は、週末の割にはあんまり客いないなーっていうか、そこまで盛り上がってないなーって日だった。俺はカウンターの端っこでテンガロ相手にだらだら飲んでたんだよ。


 そしたらさ、入口の方がなんか、こう、潮が引くみたいにさーっと……、酔いが醒めるような? それでいて「なに、マジで?」みたいなテンションあがるような? 妙な波がざわざわーっと伝わってきてさ。なんだろうなと思って振り向いたら、ちょうどエリザベスが入ってくるとこだったんだよ。


 アモーレ広場で見る時もそうだったけど、いやあ、クラブではね、もっとすごいよ? モーゼが海割る感じ? 人が二つに分かれて彼女に道を開けるわけよ。


 そりゃ、びっくりするよ。だって、エリザベス、やっぱりあの白塗りの化粧にドレスなんだもん。


 俺がびっくりしすぎて唖然としてると、エリザベスはカウンターにまっすぐ歩いてきてさ……。


 自惚れってわけでもないんだけど、俺は一瞬エリザベスが俺に会いにきたんかと思った。だって俺はエリザベスから「一万円」って言われたぐらいなんだから。払ってないけど。それ以前に金持ってなかったけど。


 なんかね、俺だけだと思ったんだ。本当に一瞬だけど。彼女の素晴らしさ、あの歌が分かるのは俺だけだって……。で、そのことは彼女もきっと分かってるはずだって……。だから俺を見つけてくれたんだって。


 キモい言うな。まあ、キモいけども。でも本当にそう思えたんだよ。俺とエリザベスは互いを分かりあってて、魂が求めあってるって。うっわ、ごめん、今これ自分で言っててキモかった。ごめんごめん。


 テンガロがエリザベスを見て「こんばんは」って普通に挨拶した時に初めて我に返ったね。テンガロ、本当にさらっと挨拶して「いつもの?」って言ったんだよ。


 ん? いつもの? ああ、エリザベスね、赤ワイン飲むんだよ。「らしい」だろ。ドレスに似合うような上品なグラスでね。


 エリザベスはテンガロに「お元気だったかしら?」とか「忙しくしてらっしゃるの?」とか言ってたな。馬鹿丁寧に、微笑みながら。


 俺? いやいや、とても話しかけられる雰囲気じゃなかったよ。ただ見てるだけ。なんだかどきどきしながら。気づいてほしいような、ほしくないような。うまく説明できないな……。怖いような、でも近づきたいような感じ。どきどきしてるのが好奇心なのか恐怖なのか分からない感じ。分かるかな。


 エリザベスはカウンターのスツールに腰掛けるとグラスを優雅に傾けて、静かに微笑みながら流行りの曲を聴いてた。


 あんまり自然に酒飲んでるから、他の客たちもなんか「ああ……」みたいな、「あ、お客さん?」みたいな納得というか、受け入れるみたいな感じでまたそれぞれの世界に帰っていって、カウンターには俺とエリザベスだけになって静かに飲んでた。あんまり見ると失礼だなと思ったから、なるべく見ないようにして、な。


 テンガロが仕事しながら時々エリザベスに話しかけるから、俺は聞き耳立てる感じ。俺からは話かけられないじゃん。だって怖いだろ。色んな意味で。


 テンガロね、さすがサービス業。エリザベスに「調子どう」とか「久し振りだね」とか適度に話かけてくわけ。当たり障りのないような話題を。明日の天気とか。ただ淡々と静かに、俺に尋ねるのと同じように「元気にしてんの?」みたいな。


 適当と言えば適当かもしれないけど、聞かれたくないことってあるじゃん。めんどくさいっていうか、説明しにくいっていうか。この場合、俺もエリザベスも同類だったんだと思う。そんな簡単に説明できるような生活してないんだから。


 言えないよ。だって、俺、学校やめてなんもしないで家に閉じこもってて、時々ぶらぶら遊びに来てさ。生きてんのか死んでんのかも分からない生活してたから。そもそも人に会って学校をなんで辞めたのかなんていうのも、訊かれたくなかったし。聞かれたら答えなきゃいけないだろ。それが嫌だったんだよ。


 グラスが空になったところで俺がテンガロに煙草くれって頼んだらさ、エリザベスがいきなりまともにこっち向いて、なんと、初めて喋りかけてきたんだよ。


 なんて言ったと思う? 「……煙草は体に毒よ」本当にそう言ってびっくりしてる俺の目をじっと見つめてきて……。手を、ね。手を、重ねてきたんだよ。そっと。

 しわしわの冷たい手だった。でも、ちょっと首を傾げるみたいにして見つめてくる目が本当にきれいで……。


 その時はびっくりっていうの通り越して恐怖!って感じだった。いや、あれはね、怖いよ。何回も言うけども、エリザベスの化粧怖いんだから。痩せてがりがりの手首といい、冷たさといい、幽霊? みたいな。


 だからさ……。だから。俺、焦っちゃって、咄嗟にぱっと手を引いちゃったんだよ。ほとんど体ごと逃げるみたいに。


 ひどい? ひどいよな。ほんと。失礼だよな。若さと馬鹿さが紙一重ってのはこのことだよな。しかも、その拍子にエリザベスのグラスに手がぶつかっちゃって、ワインがばしゃーって。……ばしゃーんって、エリザベスのドレスに……。


 焦るよ! もう、本当に! やばい! やっちまった! って。俺、慌てて立ち上がってすみません! って叫んだね。本当にすみません、ごめんなさい、わざとじゃありませんって。あんな冷や汗出るようなの初めてだよ。ヤクザ相手に粗相してもそこまでビビらないんじゃないかって、今でも思うわ。なに笑ってんの。だって俺も若かったし、経験値がないからとにかく焦ってめちゃくちゃぺこぺこして謝ったよ。


 そしたらテンガロが「大丈夫?」って言いながらカウンターから出てきて、布巾でカウンター拭いて、エリザベスにはタオルかなんか渡して「シミになるな……」って呟くわけ。もうその言葉聞いて俺はまた焦って「クリーニング代、出します」って言ってまたぺこぺこ……。


 その間エリザベスはずっと無言で俺のこと見てたんだけど、あんまり俺がぺこぺこするのがおかしかったのか、かわいそうになったのか分かんないけど……「いいのよ、気にしないで」って言って、にっこり微笑んだんだ。


 全然怒ってなかった。ただ微笑んでた。俺ね、そん時思ったんだ。この人は本当の淑女というやつなんだって。高貴な人っていうのは下々の失敗をあげつらって糾弾したりはしない、寛容さを持ってる。それは知性や品性がそうさせるんだよ。あと、余裕。


 こう言ってはなんだけど、彼女は決して金銭的な意味で余裕があったわけじゃない。ドレスなんていくらでも持ってるから汚れても平気よっていう意味の余裕じゃない。彼女の心の余裕だよ。それはあらゆるものを受け入れるだけの、心の広さであり、優しさであり、何者にも侵されない彼女の本質的な「生まれ育ちがもたらした上品さ」なんだ。


「そんなに謝らなくてもいいのよ」って、エリザベスは今度は俺がビビらないように手を握る代わりに、胸のところをぽんぽんって叩いてさ。テンガロが新しいワインをエリザベスに出して、エリザベスはまたそれを優雅に口にして「美味しいわ」って言ったんだ。


 それが決定的だったんだろうなあ。……俺が彼女を好きになった瞬間の。

 おっと、念のために言っとくけども好きってのは、お前らが思うような好きじゃないよ。え? じゃあ、どんなだって? それはお前、考えろよ……。

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