第5話

 ふと気がつくと板塀の下のわずかな隙間をするりとくぐりぬけて猫が庭を横切り、縁側へひょいと飛びあがってきた。服部の飼い猫の文左衛門だった。


 古びてガタつく縁側のガラス戸を開け放してあるので、猫は自由に出入りしているのだ。


 部屋の明かりが庭に長い影を作るのに一役買っていて、猫の姿も一瞬化け猫を思わせる長い影を作った。


 仲間たちが文左衛門に猫なで声で声をかけたけれど、彼は知らぬ顔で手足を舐めながら縁側に座り込んだ。


 生まれて間もない時に服部が拾ったというが、実際に世話をしたのは彼の祖父母だった。


 拾ったはいいけれど、自分のうちでは飼うことを許されず、健在だった祖父母に頼みこんで面倒みてもらったのだというから、文左衛門は正確には服部の猫ではなく服部のじいさんばあさんの猫ということになるだろう。


 猫はそれを知っていて、服部に甘えたり、すり寄ったりはしない。服部もまた猫の気を引こうなどとはしない。ただ、外出して、帰ってくる姿を見ると少しほっとした顔で「おお、おかえり」と呟くだけだった。


 親からはぐれたのか、生み捨てにされたのか。猫はまだ離乳もできておらず、目は目ヤニでふさがって、洟水を垂らし、腹には寄生虫もいたという。その猫を飼いたいといって幼い服部は泣いたそうな。


 今はすっかり元気で、今どき猫は生涯室内飼いをすべきだというのに、そんなことはおかまいなしに近所を散歩するのを日課としており、自由にやっている。


 祖父母亡き後、この家に住んでいる服部は時々こんなことを言う。


「俺が飼うとか言って連れて来て、結局じいさんたちに世話してもらってたわけだけど、じいさんばあさんは死んじゃったわけだから。俺がこれからはこいつの面倒をみる番。ペットにとって一番かわいそうなのは、飼い主が先に死ぬことだと思う。だから俺は死なない。こいつの最後を見届けるまでは絶対に死なない。そう決めてる」


 決めてるって言っても、事故とかあったらどうすんだと友人たちはツッコミを入れることもあるけれど、服部はそんな時こう返すのだ。


「俺が決めたから、死なないといったら、死なない」


 すると猫は「馬鹿じゃないの」という顔で服部を見つめるらしい。


 服部は立ち上がると台所へ行き、何かごそごそやってからまた戻ってきた。


「ん? ああ、餌。台所に餌の皿置いてるから、今、ちょっと足してきたんだ。ほら、分かってるから自分で向こうに行くだろ? かしこいからな。覚えてるんだよ。出かけて帰って来ると、メシだってことが」


 確かに文左衛門は服部と入れ替わりにすうっと起き上がって畳をさりさりと踏んで、台所の方へ消えて行った。服部は奇妙に満ち足りた、安堵したような顔で文左衛門の姿を眼で追い、それからまた縁側で酒を飲み始めた。優しさと愛情を含んだ視線だった。


「猫は出かけてもまた帰ってくるから、いいよ。でも、女はそうはいかない。分かるか?」


 服部は分かりそうで分からないことをまた話し始めた。


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 エリザベスが俺のことを覚えてたってことに、まずびっくりしたね。だってそうだろ。


 俺はまた一万円って言われるのかと思って身構えたんだけど、エリザベスはレース編みの巾着袋みたいなのに例のぼろっぼろのテープレコーダーをしまって「あなた、オペラお好きなの?」って聞いてきたんだよ。


 もちろんオペラなんて知るわけないから俺は首を振っただけだったんだけど、でも、ふと感想を言った方がいいのかなって思って「シャンソンは割と好きです」って言ったんだ。俺もまだその頃は十代の素直で純粋な、世間知らずのガキだったから。


 でさ、ガキがシャンソンが好きとか言うもんだからエリザベスも意外だったのか、ちょっと驚いた顔して、けど嬉しそうに「そう」って。


 で、「なんの曲が好きなの?」って聞くから、その晩聞いたミロールと、メケメケと恋はなんの役にたつの?と……他にも何か言ったかもしれないけど、何曲か答えたんだよ。そしたらまたエリザベスは笑って頷きながら、「若いのにめずらしいわね」って。


 それから「今何時かしら?」って言うから俺が時間教えてやると「あら、もう行かなくちゃ」って言って、いきなりではあったけども、ものすごくそっと、柔らかく俺の手を握ってきたんだよ。「また会えるわね?」って言いながら。


 その言い方があんまり自然なもんだから、俺、思わず「ええ、まあ……」って返事しちゃったよ。言ってから頭の中でもう一人の自分が「なに言ってんの、お前。馬鹿じゃねーの。こんなババアに」ってツッコミが入ってたけど。


 エリザベスの言い方はまるで恋人に約束するみたいな感じだから「惑わされる」ってこんな感じなんかなって一瞬思った。語尾が妙に優しくってさ。これが五十年前のエリザベスだったらまだ多少は嬉しかったかもな。


 とにかく彼女はドレスの裾ちょっとつまんで「じゃあ、ごきげんよう。ハンサムさん」って言ってお辞儀した。


 エリザベスの喋る言葉っていちいち芝居じみてるというか、舞台のセリフみたいなんだよ。声の出し方とか抑揚も。大袈裟っていうんじゃなくて、なんていうのかな、現実離れしてる感じ。いつミュージカルみたいに歌い出すかと期待半分、恐怖半分みたいな。


 エリザベスを見てると怖いんだけど興味あるというか、遠ざけつつも目が離せない感じがする。あのアモーレ広場で彼女を目撃した人はたぶんみんなそう思ったんじゃないかな。怖いもの見たさと、半分は素直な感動もあったと思う。でなきゃ都市伝説にはなれないだろ。やっぱり真実、人を動かすものがなければ。


 俺もその頃はどうかしてたんだろうなあ。普通の生活してたらあんな白塗りのばあさんに惹かれたりしない。……惹かれるっていうのは言いすぎか? もちろん恋とかそういうんじゃないよ。でも他の言葉でなんて言うのか分からん。歌が上手いのには確かに惹かれるって言ってもいいかもしれないけど、それよりもあの存在感だな。やっぱり。化粧が厚くて付け睫毛がばっさばさで分かりにくいんだけど、目が、ね。黒目が本当に澄んでて綺麗でさ……。吸い込まれそうな綺麗さなんだよ。本当に。あの綺麗さはなんとなく魂の美しさのような気がして。それこそがエリザベスが都市伝説になり得た理由だと思う。


 とはいっても、また会えるわね? なんて言われても、なあ。やっぱ怖いじゃん? ははは。それから結局、また会ったのは一か月後だった。


 え? 一か月なにしてたかって? 俺? ひきこもってたよ。やっぱり。

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