第4話
服部は縁側に座っていたのを「腹減ったな。なあ、腹減んない?」と、晩飯にさんざん飲み喰いしたにも関わらず、一人で呟きながら立ちあがって台所へ行った。
冷蔵庫を開けてタッパーに入った沢庵を摘み、ぽりぽりと音をさせつつ「なんもないなあ」と言いながら卵を数個取り出して小さなボールに割り入れ、フライパンを火にかけた。
普段から服部はよく料理をよく作る。手先が器用で手際がいい。面倒くさいということもないらしい。食べることが好きでたまらないのだと服部は言う。美味しいものを食べると「生きてる」と実感するのだ、と。
台所からバターの匂いが漂い、熱したフライパンに溶いた卵を一気にじゃあっと流しこむ賑やかな音がした。
オムレツは服部の好きな料理のひとつだ。塩、胡椒。少しだけ牛乳を加える。半熟のふわふわに焼きあげ、ひょいとひっくり返して無造作に皿にのせる。焼色をつけないのが本当だというけれど、服部はうっすらと焼色をつけるのを好んだ。香ばしそうな色目は食欲をそそる。
あっけないほど簡単にオムレツを焼きあげて皿に乗せて部屋に入ってくると、スナック菓子をつまみにしていた仲間たちが急にむくっと半身を起して「ひとくちくれよ」と言い寄った。
「だから、俺、聞いただろ。腹減らないかって。やだよ、やらねーよ。欲しけりゃ作ればいいだろ」
と言って、皿を縁側に置き、ウイスキーをグラスに注いでちびちびやりながら、熱いオムレツをフォークで口に運んだ。
ターンテーブルに乗せたレコードが今は無音でくるくると回転している。微かな風が今はすっかり新緑を見せている桜の枝を揺らした。空気が湿り始めていて、土の匂いが濃くなっていた。
「雨が降るかもな」
服部は呟いた。そしてオムレツをフォークですくって「ほら、ひとくち」と無造作に差し出した。
口に入れてもらうとバターがきいていて滑らかな舌触りで、どこかほっとするような味わいが咽喉を下りていった。美味いと言うと服部はにやりと笑った。
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これは後で分かったことなんだけど、その白塗りの婆さん有名だったんだよ。
なんせそんなことがあったもんだから、次の日に近所の友達んとこ行ってその話したら、なんでも有名な売春婦なんだって教えてくれたんだ。
えー?! だろ? 売春って、だってばあさんだよ? 白塗りの。
そいつ、クラブ行ったりバー行ったりして、ようするに夜中に街をぶらついてるからさ。そういうの詳しいんだよ。友達も多いし。それであのばあさんがアモーレ広場で歌うってのも知ってて。そもそもそっちが有名らしいね。そりゃそうだろうな。ある種の都市伝説的だもんな。アリアを歌う白塗りのマリー・アントワネットばあさんってのは。
友達も見たことあるって言ってた。で、あれは一体何者なんだろうって知りあいに聞いたことあるんだって。それで知ったんだって。
といっても、実際、彼女が何歳で、氏素性……というか、どういう人なのか本当のことは誰も知らなくて、ただ分かってるのは体売って生計を立ててるってことだけで、いつからそうしてるのか、本当にそれで生活成り立つのか、いや、そもそも誰が買うのか? いくらあのばあさんが有名な売春婦だって言われてもさ、ちょっとね、俺はこの話自体がなんとなく信じられなかった。だってそうだろ?
それからさらに聞いた話によると、あのばあさんはエリザベスって呼ばれてるそうで、戦前は大金持ちの令嬢だったのが戦後落ちぶれて娼婦になったってことだけど、誰がそれ言い出したんだって話よ。なんでそんな昔のこと知ってんだよって。そこらへんがもう嘘臭いと思わん?
そりゃあ戦後はそういうの多かったかもしれんよ? 落ちぶれるって意味じゃなくて。戦争ですべてを失って一人ぼっちになって、生きる為に必死で……って意味。俺はそれを悪いことだとは思わないし、卑しいなんて絶対に思わないよ。そういう境遇になった人のこと、誰にも責める権利も裁く権利もないと思う。
で、俺思ったんだよ。エリザベスってことは、イギリスじゃん? フランス宮廷じゃなかったのか、って。ははは。
エリザベスが俺に「一万円」って言ったのはようするに彼女、俺に向って「自分を買わないか」って商談をもちかけてきてたわけ。
でも俺咄嗟に意味分かんなかったし、まさかそんなばあさんがいかにも若造の、絶対金持ってなさそうな俺に目をつけて一万円なんてふっかけてくるなんてありえないだろって思って、だから本当になに言われてんのか分からなくて、その時は「持ってません」って答えたんだよ。まるでカツアゲされてる中坊みたいに。よく考えたら持ってる持ってないの話じゃないんだけど。
そしたらエリザベスは「そう。残念だわ」って。で、俺ね、なぜか「すみません」って言ったんだよ。ほんと、カツアゲされてるんじゃないっての。
俺が謝ったらエリザベスもちょっとびっくりした顔になってたけど、すぐにあの貴族の頬笑みで「いいのよ」って言った。その言い方もやっぱり貴族みたいだった。下々の者に言うみたいな感じ。そっけなくてぞんざいなんだけど、高貴さが漂うような。
エリザベスはドレスの裾をつまんで優雅に小腰をかがめると「それじゃ、ごきげんよう」って言って、まだなんかどきどきびくびくしてる俺を置いてどこへともなく行ってしまった。
それにしても一万円ってのはないよなあ。一万円でなにしてくれるのかは知らないけど。なにっていうか、どこまで?
俺、そん時まだ童貞だったんだよ。そりゃそうだろう。ガキなんだからしょうがない。高校行ってる時に好きな子もいたんだけど、付き合ってはなかったから。え? 告白? してないしてない。あの頃は言えなかったんだよ。恥ずかしかったというか……。告白して振られたらもう二度と元には戻れない。それが怖かったんだと思う。当時はね。ピュアだったわけよ、俺も。信じられない? でも、そうだったんだからしょうがない。
それにしてもなんで俺だったんだろうな。他にもじっと見ている人はいたと思うんだよ。なんでよりによってエリザベスは俺に目を付けたんだろうな。分かんないよな。
だらだら暮らしてるから、その日あったことなんてすぐ忘れちゃうんだけど、エリザベスのことはちょっと忘れ難いような気がした。インパクトあったし。でも、どうせまた忘れちゃうんだなあって、自分でも思ってた。あのね、ずっと引きこもってると心が死んでるみたいで、気持ちが動くってことがなくなっていくんだよ。麻痺するっていうか。けど、運命ってのがあるのかねえ? 俺、その週末にまた会ったんだよ。エリザベスと。アモーレ広場で。
俺はその時一人でぶらついてたんだけど、エリザベスはまたどこからともなくすうっと現われて。みんなの好奇の目と嘲るような、馬鹿にしたような笑いの中を背筋伸ばして歩いてくんの。まっすぐに。
やっぱりすごいドレスと髪型と、化粧でさ。前と同じようにアモーレ広場のでこぼこのオブジェの上に立つと、テープレコーダーを足もとに置いて……。
なんでかな。前はちょっと離れたとこからエリザベスを見てたんだけど、気がついたら足が勝手に動いてて最前列に立って、彼女を見上げる形で動けなくなってた。最前列ってようするに彼女の目の前、な。
広場にいる人はエリザベスを好奇の目で見て笑ってたのに、いざ彼女がそこに立つと怯えるように遠巻きにして距離を保とうとしてるみたいだった。俺だけが彼女の目の前にいて、そうやって至近距離に立ってみてはじめてカセットテープがしゃーしゃーいうのまで聴こえてきて、今夜はなにを歌うのか妙にどきどきしたよ。
テープレコーダーもぼろっぼろで年季入ってる感じだったなあ。
エリザベスは俺が目の前にいても顔色ひとつ変えず、あの優雅な物腰でお辞儀した。前に見たのと同じようにね。
そん時思ったんだけど、あれは、礼義を表す礼ではないね。貴族が民衆に見せる格の違いだよ。私はお前ら愚民どもとは違うのだとでも言わんばかりの、ね。でなければあんなにも忽然としたお辞儀はできないと思う。
歌? 歌い始めたよ。もちろん。一曲目はやっぱりオペラのアリアだった。そん時は聞いたことある曲だなと思っただけで曲名とかは分からなかったから、後で調べたんだけど、椿姫の乾杯の歌だった。
エリザベスすごいんだよ。あの、どうやって音出してんのか分かんないけど口の中で? 喉で? 音を転がすみたいな……。とにかくテクニックがすごい。絶対素人じゃないなって感じなんだよ。
一曲目を歌い終わった時、俺、拍手したんだ。もちろん誰も拍手なんかしない。俺だけ。そしたらエリザベスがちょっと微笑んで右手を胸にあててちょっと小腰をかがめて……ほんと、貴族。真っ白な化粧に頬紅がピンクで、口紅は口裂け女かってぐらいの真っ赤で、微笑まれるとちょっとホラーなんだけど、まあ、それはいいわ。
エリザベスは堂々とリリー・マルレーンを歌って、それからミロールを歌った。知らん? ミロールって曲。町の女が若い兄ちゃんに酒場で声掛けて、からかい半分に一緒に酒飲んで、失恋の傷を癒してやろうじゃないかっていうような内容の歌。陽気で、それでいてちょっと哀愁があるような歌。シャンソンだよ。
これもすごく上手かったな。町の年増女の歌ってのがエリザベスによく合ってた。カセットテープのピアノ伴奏は音が割れまくってたけど、それもまたかえっていい雰囲気で。
エリザベスはその時も3曲で終わってオペラ歌手みたいに右手、左手ときて、最後に正面にお辞儀をして、拍手をしている俺をじっと見下ろして、もう一度丁寧にお辞儀をしてくれた。
不思議だよなあ。広場にいる人は誰も彼女に目もくれない……いや、まあ、そりゃあぎょっとした感じで見てはいたけども、どっちかっていうと関わりたくないって感じの空気出してさ。あんなにすごい歌声なのに、だよ。どんな身なりをしてても良いものは良いと思うし、頭がどうかしてるんじゃないかって気もするけども、それでも彼女のエレガンスは十分に見応えのあるものだと思うんだけどな。それに対して敬意を払おうなんてことは誰も考えもしないのな。
エリザベスはオブジェのてっぺんから下りてくると、今度は身長差の分だけ俺を見上げる格好で、優しい口調でこう言ったんだ。
「あなた、この前も来てたわね?」
って。俺はまた一万円って言われるのかと思ったけど、彼女は金のことは一切口にしなかった。
実際、彼女が俺に金のことを言ったのは最初の一回だけ。それから二度と「一万円よ」なんてことは言わなかった。
……うん、分かるか? そうなんだ、俺、それからしばらくエリザベスと個人的に会ってたんだ……。
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