第3話

 そこまで話して服部は立ち上がって、埃が生き物のようにほわほわとうごめく洋間に置かれたレコードプレーヤーの電源を入れた。


 音楽というものが「データ」になった今も服部はレコードを好んで聴くことがあった。クリアな音ではなくなんとなく雑音を含むような、それも「込み」で音楽となっているのがいいというのが理由だった。


 そうして聴くのはジャズが多かった。それも古いジャズ。歌い手の呼吸がほとんど目の前にいるかのように聴こえる荒れたサウンド。トランペットやサックスの息継ぎ。現代ならばすべて排除される音の数々。服部にとってはそれさえも音楽の一部であるらしかった。


 しかしその日、服部がターンテーブルに乗せたのはサラ・ヴォーンやナタリー・コールではなくクラシック。それもオペラのアリアだった。夜の空気を縫って流れだした美しい高音。思わず全員が服部を省みた。そして服部は言った。


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お前ら、この曲知ってるか? 誰も寝てはならぬ。ちがうちがう。お前らに寝るなって言ってるんじゃなくて。


 トゥーランドット。プッチーニ。俺も詳しいわけじゃないんだけど。レコードをね、貰ったんだよ。その、アモーレ広場で知り合った人に。そう、それが女の人。

 もしかしたら知ってるかもなあ。当時その人ちょっと有名だったんだよ。いや、芸能人とかじゃないよ。街ではちょっと知られた顔みたいな感じ。でも、それは良い意味じゃなかったかもしれないけど。


 俺が広場でぼんやりストリートミュージシャン見てると、だいたい0時まわるぐらいにその人は現れるんだよ。一人で、颯爽と。ドレスを着て。


 え? ドレスはドレスだよ。中世のフランス宮廷みたいなものっすごい膨らんだスカートで、胸が開いててコルセットでその膨らみをもりっと強調させるようなドレス……。頭はマリー・アントワネット。パンクスのモヒカンとか、スプレーで立ち上げまくってるビジュアル系なんて目じゃないね。小山のようにそびえたつ感じでそりゃあ見事な縦ロールが垂れてんの。


 その人はみんなが終電で急ぎ足で駅へ向かう中を優雅に歩いてくる。どこからって……? どこからともなく。なんの前触れもなくすーっと現われて、そんであのお椀を伏せたようなオブジェのてっぺんに登るんだよ。


 さすがにそこまで来るとその場にいる人たちも通りすがりの人たちも「えっ? なに?」みたいな感じでざわざわし始めるんだけど、その人は平気な顔でつんとすまして、背筋をぴんと伸ばして周囲を見下ろしてんの。オブジェの上から。


 背はそんな高くないけど、ロッキンホース級の厚底の靴履いてるから大きく見える。さらにアントワネットの頭の分もいれて大きく。けどそれだけじゃない。なにか圧倒されるオーラみたいなのが漂ってて大きく見えるんだよ。


 俺は本当に視線が釘付けになるってこういうことかと思ったね。もしかしたら見てる人の中には同じように釘付けになってる人もいたかもしれない。でもそれは彼女のファッションと……顔のせいだったと思う。ブスじゃないよ? 少なくとも俺はそうは感じなかった。たぶん、どっちかというと、すごい美人だったんじゃないかな。


 ……そう。分かった? 過去形。彼女、もう、おばあさんと言っていい年齢だったんだ。


 しわしわの顔に、お面かぶってんじゃないのかぐらいの真白な厚化粧して、とんでもなく長い付け睫毛と、真赤な口紅と、どピンクの頬紅してて。


 だからね、俺以外の人はみんな彼女の顔に仰天して、悪い意味で釘付けだったんだよ。……化け物を見たような、ね。


 確かに見た目はびっくりするけど、俺は彼女からちっとも嫌な感じは受けなかった。むしろ立ち姿があんまりすっきりしてて、威厳に満ちてるから神々しいような気さえした。彼女を見てあからさまに笑ってる人もいたけど、俺はなんで笑うんだ? って思った。なにがおかしいんだ? って。そのぐらい彼女は特別な感じだった。


 その人は手に小さいテープレコーダー持ってて、それを足もとに置いたけど、今どきカセットってのがね。いかにもばあさんぽいよな。


 え? カセット知らねーの? マジで? カセットテープだよ、カセットテープ。いいわ、後でググっといて。


 とにかく彼女がオブジェのてっぺんに立って、20秒ぐらいかな。じっくりと静かにまわりを見まわして……。見てるこっちも何が起きるんだろうってドキドキしてきて……。そうしたら彼女、貴族がするみたいに小腰をかがめてお辞儀をしてさ。カセットからノイズだらけの、ほとんど不快としか言えないような音で音楽が流れ始めて……歌い始めたんだ。アリアを。


 びっくりなんてもんじゃないよ! ストリートミュージシャンの連中がアンプとスピーカー持参でそこそこ大きな音出してやってるけど、彼女のアリアはガチンコの生歌なのに、にも関わらず彼らの出す音と遜色ない、十分勝負できるぐらいの凄まじい声量! その声の美しさといい、伸びやかさといい……。生まれて初めてだね。歌を聞いて鳥肌が立つなんて。本当に背筋がぞうっとしたんだから。


 厚化粧の真っ赤な口が大きく開いて咽喉の筋が動くのも分かるんだけど、その皮膚の皺が鶏の首んとこみたいだし、化粧で顔の色と首の色と違ってて、何もかもが滑稽で不気味ではあったかもしれない。けど、それまで笑ったり、気持ち悪そうに見てた奴らが一斉にしんと黙りこんでさ。信じられないものを見ているように思わず唾を呑んだりして……。


 彼女は両腕を広げたり頭上に伸ばしたり、手を前で組んだりしながら朗々と歌い上げて……。そりゃあ素晴らしいとしか言いようのない歌だった。


 声といい音程といい、とにかくすべてが完璧だと思えた。一曲歌いあげると彼女はまた貴族のようにお辞儀をしたんだけど、拍手はなかったね。誰も拍手はしなかった。ギターの二人組やバンドマンには拍手するのに。


 もしかしたら言葉を失ってたのかもしれないな。拍手というものを完全に忘れてしまってたのかもしれない。圧倒されすぎて。俺も呆然としてて拍手なんて思いつきもしなかったから。ただ目の前の白塗りのおばけみたいなマリー・アントワネットから目が離せなかった。


 え? おばけはひどいって? うーん、まあ、そうだな。悪口じゃないんだけど。ははは。いや、だから、ブスじゃないんだってば。ただメイクが濃いってだけ。


 まあ、それはいいよ。一曲目を歌い終わって、また彼女は周囲をじっと見渡してた。まるでアントワネットが民衆を見下ろすような感じ。いつ手を振るかとこっちが期待してしまうぐらいの視線で、さ。まあ、振らなかったけど。


 で、おもむろに二曲目を歌い始めたんだよ。これは俺も聴いたことある曲だった。すぐ分かった。カルメンだよ。カルメンって顔じゃないんだけど。


 時々自分で手拍子みたいに手を叩く。それがまたよく響くいい音出すの。ちょっと一瞬びくっとなるぐらいに。カセットテープから流れてる音はやっぱりざりざりのノイズまみれなんだけど。


 あと、彼女発音がめちゃめちゃ良いんだよ。ん? イタリア語。一瞬この人は外国人なのかなって思ったもん。でも顔をよく見ると違うんだよなあ。ま、ちょっと鼻筋は通ってるかな。けど日本人。まごうかたなき、ばりばりの日本人。


 すごく不思議な光景だった。彼女の歌もすごいし、格好もすごいんだけど……。見てる人たちがみんな魂持ってかれるような、それこそ最初のうちは笑ってたくせに、だんだん真剣な目で見つめるようになっていくんだよ。吸い込まれるみたいに。


 俺もね、そんな感じになった。彼女の声を耳で聴いてるんじゃなくて、胸の中にまっすぐ入ってくるような感じがして、それが心の中のやわらかいとこをぎゅっと握りしめてくるんだよ。


 それは金縛りにあうのとちょっと似てると思う。え? 金縛りあったことあんのかって? あるんだよ、これが。どこでって、うちで。そう。このうちで。寝てる時に。いや、怖くはないだろ。今までお前らさんざん泊まりこんでるじゃん。それでなんともないだろ。


 ま、仏壇があるから。死んだじいさんが見守ってくれてると思うから大丈夫だよ。まあ、この話は置いといて。また今度。


 とにかく意識はあるんだけど、手足が硬直したみたいに動かなくって、声も出ない。金縛りってそんななの。で、彼女が歌う姿を見てるとだんだんそういう状態になってきて、一瞬もしかして俺は異世界に迷い込んじゃって朝になったら死んじゃってるんじゃないかと心配になったよ。タヌキやキツネに化かされてんのかなって思うぐらいに。タヌキもキツネも見たことないけど。あ、でも、最近ここらへんもイタチとか出るよな。イタチは化かしたりしないのかね。


 あー、猪? 猪も山から下りてくるらしいね。やっぱり町の残飯とかゴミ漁ったら、その味を覚えて下りてくるんだろうな。って、そうじゃなくて、野生動物の話はいいんだってば。


 カルメンのハバネラを歌いあげると、彼女、またお辞儀したんだ。その時、本当に一瞬だけど、俺、目が合ったんだよ。目が合うっていうか……、今考えてみると俺がガン見してたからたまたま彼女が視線に気づいただけなのかもしれない。彼女の目。アイメイクがこてこてなんだけど、でも黒目がね、大きくて澄んでて綺麗なの。ちょっと思いがけない感じ。


 その彼女がそのまま俺をじっと見つめて、すうって右手を伸ばしたんだ。こっちに向けて。伸ばすっていうか、なんだろ、差し伸べるって感じ。その動きももちろん緩やかでエレガントだったから、なんだか俺すごくドキドキしちゃって。自分でも我ながらヤバいっていうか、恥ずかしいっていうか。大丈夫か、俺。みたいな。だって、相手は白塗り妖怪みたいなんだもん。いやいや、別に悪口じゃないよ。妖怪上等。魔性だよ。女の。


 ドキドキしたのが今まで年齢の近い女の子に対してしか経験がないから、戸惑った。あのな、おばけとか妖怪とか言っちゃったけどね、俺の目には彼女は年齢は関係なく「女の人」として映ったんだよ。普通は女に見えなくなりそうじゃん。でも俺はその人がちゃんと女で、なんかこう、色気みたいなのも感じられた。それが一番自分でもビビったんだと思う。


 彼女は俺に手を差し伸べた格好のままでさ、次に何を歌ったと思う? これはびっくりするよ! なんと、愛の讃歌!


 俺、思わずひっくりかえったね! だって、それじゃあまるで彼女が俺に向って愛を捧げてるようにしか見えないじゃん。


 周りにいた人たちが俺を見て「え? 誰?」みたいになってんだけど、彼女がじっと俺を見てるから動けないし、目を逸らせなくって。恥ずかしいやら、焦るやらで、変な汗が出てくるし。ほんと、まいったわ。


 けど、歌はね。やっぱりすごい。彼女はそれを最初はフランス語と日本語でワンフレーズずつ交互に歌ったんだ。フランス語の発音もやっぱりめちゃくちゃいいんだよ。愛の讃歌はマリア・カラスの歌ってるのと越路吹雪が歌ってるのと両方聴いたことあったから、彼女がいかに上手いか、すごいかがよく分かった。


 愛の讃歌がまるで俺に向けられてる愛の告白みたいだったけど、歌い終わると彼女はまたお辞儀をして、一瞬微笑んだ。その時、俺、金縛りが解けて。で、初めて拍手したんだ。なんだろう。感極まって。本当に純粋に感動して泣きそうで、自然と拍手が出たんだよ。


 誰も拍手なんかしない。俺だけが彼女の歌に拍手してた。周りの人が拍手してる俺を妙なものでも見るような目で見てたけど。


 彼女もちょっと驚いた顔したけど、でもまたすぐに高貴な微笑みを浮かべて、まるでカーテンコールに応えるようにもう一回お辞儀をしてくれた。


 不思議な感じだったよ。俺、その瞬間、彼女とすごく心が通じたような気がしたんだ。なんとなく、だけど。俺は彼女の歌を素晴らしいと思い、敬意をこめて拍手をおくった。そのことがはっきり伝わったと思う。


 彼女がドレスの裾を踏まないようにちょっと持ち上げながらオブジェのてっぺんから下りてくると、時間が止まったみたいだったのが動き出して、それまで固まってた人たちも魔法が解けたみたいに動き始めてそれぞれ駅へ急いで走って行った。夢から覚めたみたいな感じで。そうしてふと見回してみると、広場にいるのは俺を含めてわずか数人になってた。まるで舞台の終わり。幕が下りた後。


 俺は彼女に声をかけるべきなのか迷ったんだけど、なんて言っていいか分からなかったから、黙って彼女が歩きだすのを見守ってたんだ。けど、彼女は立ち去らずにそのままゆっくりと俺の方へ歩いてきて、目の前に立ったんだよ。


 それはもうびっくりするというか、ほとんど怯えるというか……。え? なに? みたいな。


 で、至近距離で見ると、やっぱり皺々で、痩せてて、髪は鬘かと思ったらどうも地毛らしいのも分かって、うわあ……って感じ……。やっぱりばばあだな……って。ドレスも薄汚れてるというか、袖口んとこにレースがたっぷりついてるんだけど、それもほつれて汚れててさ。なんだか「舞台裏」を見ちゃったような気持ち。見てはいけない現実を見た……みたいな。


 俺は彼女の歌の素晴らしさの余韻がせっかくまだ頭の中にぼんやりとあったのに、彼女が目の前にくると一気に霧が晴れて行くみたいだったよ。もう少し夢見させてくれよって思ったね、正直。


 そんな彼女がさらにダメ押しで俺を現実に引き戻したんだよ。彼女、なんて言ったと思う? 愛の讃歌を歌った時みたいに、俺に優しく手を差し伸べて、

「一万円よ」

 って言ったんだ。

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