終章
午前七時一四分。
午前七時一四分。
自室の万年床で就寝中だった針村孝士は、大きな音で目を覚ました。それはどおーんという、あたりの空気を揺るがすほどの轟音だった。
つづいて部屋全体が揺れはじめる。地震だ。いちど下から突き上げられたあと、横揺れがきた。かなり大きい。立っているのが困難なほどの揺れである。
孝士はすぐさま身体にかかっているタオルケットをはねのけた。そうして起きあがった彼は、無駄のない動きで部屋の壁際に身を寄せると、すかさず片膝を着いて姿勢を低くする。直後、激しい揺れで安定を欠いた背の高い本棚が、孝士の寝ていた布団のところへ倒れ込んできた。
あぶなかった。もしも行動を起こすのが遅れていれば、漫画とラノベばかりの頭の悪そうな本棚に押し潰されていただろう。
まさに間一髪。しかし、当の孝士は倒れた本棚を見ても眉ひとつ動かさない。
揺れがおさまる。孝士は立ちあがると、ハンガーラックに吊してあった一張羅のスーツに手早く着替えた。階段を使って一階へと降りる途中、下から母親の呼び声が聞こえてくる。
「孝士! 孝士ーっ!」
ネクタイを締めながら一階のリビングへゆくと、怯えた表情の母親と鉢合わせした。
「地震よ、地震!」
息子の腕を取り、針村昌代が興奮気味な声で言う。
無理もない。ただでさえ日本海側では地震が少ないのに加えて、さっきの規模であれば誰しもそうなろう。
「うん。だいぶ大きかったね」
「あんた、大丈夫だったの?」
「なんともないよ。部屋の本棚が倒れただけ」
「そう、ならよかった」
孝士はリビングとひとつづきになっているキッチンへ向かい、テーブルにあったバナナの房から一本をもぎ取った。リビングでは戸棚から物がこぼれ、キッチンの床にも食器棚から落ちた茶碗や皿がいくつか散乱している。昌代がおろおろとそれらを拾いはじめる。彼女は化粧っ気もなく、Tシャツと着古したスウェットパンツという起き抜けのスタイル。
「お父さん、無事かしら。さっき仕事に出ていったんだけど」
「きっと無事だよ。地震のときは家のなかより、外にいたほうが安全な場合があるからね」
孝士は皮を剥いたバナナをかじりながら、冷蔵庫の扉を開けて野菜ジュースのパックをひとつ取り出す。そして、
「それよりも母さん、避難所の場所、知ってる? 高台のなかよし公園。すぐにいったほうがいいよ」
「ええ、そうね。ていうかあんた、その格好で避難する気なの?」
「ぼくは会社にいく。向こうの様子が心配だし」
それを聞いて、割れたどんぶりの欠片を拾っていた昌代は怪訝な顔をした。
「会社って、地震があったのに仕事もなにもないでしょうよ」
「いかなきゃならないんだよ。とにかく、そっちも急ぎなよ。片付けは帰ったあとでいいからさ。荷物は最低限の貴重品だけ。携帯電話はいま通じないけど、持っていったほうがいいよ」
母親にそう言い含めると、孝士はあわただしく家を出ていった。
自転車で臼山神社へと向かう。いまにも雨が落ちてきそうな曇り空。だがそのおかげで今日は気温が低めだ。地震のあとだけに、通りには浮き足立つ人々の姿が見えた。屋外に設置された町内放送のスピーカーが臼山町の住民に避難を指示している。針村家の近所では古い民家の塀が倒れたりしていたものの、倒壊した家屋はなかった。
町の中心を抜けた。家並みがまばらとなったゆるい坂道にさしかかったところで、孝士は自転車を停めた。そしてサドルに跨がったまま、西側の海へと目をやる。すると、そこにはあまりにも非日常的な光景が広がっていた。
青黒い海にのしかかった曇天の空に、赤いオーロラが見えるのだ。
何度見ても不吉な眺めだ。妖しく輝く光のカーテンに孝士は圧倒される。だが、そもそも明るい昼間の空でオーロラが観測されることはまずない。地磁気が乱れ、磁気嵐が起きているときに限って特定の地域でしかオーロラは現れないはずだ。
孝士はスマホを取り出し、霊界データバンクの円島支社へダイヤルしてみた。が、不通。いま現在、臼山町ではあらゆる波長の電波があのオーロラの影響で攪乱されている。電話、テレビ、ラジオ──そのほか、どういうわけか有線でデータ転送を行うインターネットさえ繋がらないのだ。情報が遮断された臼山町は、孤立状況といってよいだろう。
孝士は円島支社のある臼山神社へ急いだ。その途中、道路の前方から見覚えのある自動車が近づいてくるのに気づいた。あれは、事務員の寺石麻里が通勤に使っている自家用車だ。すれちがいざま、運転席の彼女は孝士の姿を認めてちらりと視線を送ってきたが、短くクラクションを鳴らすとそのままスピードを上げていってしまった。
臼山神社の裏手にある駐車場に着いたのは午前八時前。隅に赤い旧車が駐めてある。3ドアのハッチバック。折戸謙の愛車だ。どうやら彼も事務所へきているようだった。
駐車場に自転車を置いた孝士は、上にある臼山神社の境内へ通じる細い階段を登った。すると、境内の社務所の傍らに覆盆子原れのんがいた。海のほうを向いて立ち尽くす彼女は、学校の制服姿だ。おそらくは今朝、登校するつもりで支度をしているとき地震に見舞われたのだろう。
しかしよく見れば、いまのれのんは女子高の制服と釣り合わないナイロン素材のショルダーホルスターを装備している。彼女が両脇に提げているのは、大型の回転式拳銃が二丁。スミス&ウェッソンのM500と、マグナムリサーチBFR。さらに彼女はダブルバレルのショットガンを負い紐付きのソフトケースに入れて背負っている。銃身を切り詰め、銃床も省いて片手で扱えるように改造された、いわゆるソードオフ・ショットガン。50口径のリボルバーと12番ゲージのショットガンは、例によって本物じゃない。れのんの霊力を増幅させ、霊子力ビームとして発射するための霊子ガンである。
自分に近寄ってくる孝士の足音に気づき、れのんがそちらへ首を回した。
「あっ、ハリソン!」
れのんはいつにない深刻な表情だ。彼女は腕をのばして孝士に海のほうを指し示すと、
「見てよ。あれ、まれびどんが目覚める前兆なんだって……」
「簾頭鬼さんに聞いたの?」
孝士が言うと、れのんはこくりと肯いた。
「それって、ほんとなの?」
孝士は昨夜の、簾頭鬼がスライムの化物を倒した経緯と、まれびどんの復活が近いらしいことをれのんに語った。あまりにも現実離れした話であるが、あの不気味なオーロラを見れば否が応でも信じるしかなかったろう。
「中田支社長は?」
孝士が訊く。
「事務所にいるよ。簾頭鬼さんと折戸っちも」
「そういえば、ここへくるときに寺石さんの車とすれちがったよ」
「うん。麻里姉、鉋沢市の霊バン本社にいったんだ。向こうと連絡がつかないから、直接こっちの状況を知らせにね」
とれのん。
それからふたりは円島支社のなかへ入った。れのんが言ったとおり、事務所には中田支社長、折戸、そして簾頭鬼の三人がいた。
まず事務所の出入口に近い事務机にいる折戸だが、彼の手元にはベルギーの銃器メーカーであるFN社製のSCAR‐Hが置いてある。くわえたばこの折戸は、いまアサルトライフルの弾倉へせっせと七・六二ミリ弾を装填している最中だった。その反対側の机では、簾頭鬼が登山用のデイパックへこぶし大ほどの丸いなにかをたくさん詰め込んでいる。見まちがいでなければ、あれは破片手榴弾だろう。そして事務所のいちばん奥に置かれているのが支社長である中田のデスク。そこではユナートルのスコープをマウントしたレミントンM700Vを抱える中田が、渋い表情で湯飲みから熱い緑茶をすすっていた。
抗争中の暴力団事務所でもここまでヤバくはあるまい。各人が手にする武器弾薬は、いずれも本物である。孝士はそれを知っていた。彼は、あきれた顔で事務所内を見渡してから、
「うわあ、みなさん、なにをやってるんですかーっ」
心なしか棒読みだが、ここはやはり驚いて見せたほうが自然だろう。すると、孝士とれのんに気づいた折戸が、
「あり、ハリソンおまえもきたの?」
「はい。なんか、外が大変なことになっていたので……」
と孝士。その彼へ中田支社長が声をかける。
「おお、針村くん。ご苦労」
ストラップ付きの狙撃ライフルを担いだ中田は、孝士のそばまでくると彼の肩にぽんと手を置いた。
「いや、ちょうどよかったよ。兵隊はひとりでも多いほうがいい。昨晩は大変だったようだな。簾頭鬼さんから話は聞いている」
「てことは、やっぱりいまからまれびどんを?」
「うむ。もともと外法古墳はうちの支社の管轄だからな。本社との連絡が不通なため、我々で対処するしかあるまい。なに、武器ならいくらでもある。きみはこれを使いなさい」
言って、中田は腰のホルスターからコルト・ガバメントを抜いた。そうして手の内でくるりと回したセミオートピストルのグリップを、孝士へ差し出す。
「ですよねえ~……」
ずっしりと重い拳銃を受け取り、孝士は苦笑いするしかない。
孝士が中田から銃の扱いの簡単なレクチャーを受けているあいだに、各々の準備が整ったようだ。
五人は神社裏の階段で下の駐車場へと降りた。そうして円島支社の社用車である軽四に乗り込み、向かう先はもちろん外法古墳だ。
運転は孝士が任され、隣の助手席にれのん。あとの三人は狭い後部座席で我慢してもらった。さすがに五人も乗ると非力な軽四ではなかなか前に進まない。臼山町の道路では、町から離れる人々の車がちらほらいた。地震の被害を確認するためか、警察のパトカーもたまに見かけた。しかし、こっちは日本で御禁制の実銃やら爆発物を山ほど持っているのだ。さらに悪魔が一匹乗っている。警察に見咎められでもすれば、厄介なことになるどころじゃない。孝士はそれを思ってひやひやしながら運転した。
「いやあ、でもまさかこんなに早くまれびどんが覚醒するとはあ、予想外でしたねえ~」
後部座席の真ん中に座っている簾頭鬼が言った。彼は図体がでかいのに加え、角の分があるため頭を横にして窮屈そうに身を縮めている。
「支社長、また本社からねちねち言われるんじゃないすか? 職務怠慢でペナルティもありえますよ、こりゃ」
と、からかい口調で折戸。
「おいおい、なんでだ。うちは精一杯やっとったろうが」
「休眠状態とはいえ、まれびどんは超危険物扱いのモニター対象っすよ。監視体制が甘かったんじゃないすか?」
「いいや、手落ちがあるとすれば、あきらかに本社側だぞ。予算もろくに回さず、円島支社を不良社員収容所にして冷遇するからこうなる」
「出た~、本社批判。てか、その理屈じゃおれも島流しにされたってことかよ」
「うはは。そのとおりじゃないか、この霊バンの問題児が」
「ひっでえなあ」
さもたのしげに笑い合う折戸と中田。
なんだろう、この余裕。緊張感がまったくない。ふたりとも、こういった荒事には慣れていそうだったが、ほんとうに大丈夫なのかと孝士は不安に駆られる。
「でも、まれびどんて、ちがう世界からきた化物なんでしょ? そんなの、ぼくらだけでどうにかできるんでしょうか?」
車内のルームミラーへちらりと目をやり、孝士が後ろの中田に訊いた。
「たしかに、旧支配者と呼ばれる連中はこちらの常識が通用せん相手だ。しかし、われわれの住む物質界で顕現している以上は、この世界の物理法則があるていど通じるということだ。それに今回は簾頭鬼さんもいらっしゃるし、なんとかなるだろう」
「まあ、受肉して実体があるのならあ、それを物理的に滅ぼせばいいんですよお~。そうすればあ、完全に葬ることはできないものの、一時的に撃退はできますからねえ~」
と、簾頭鬼はこともなげだ。
「そりゃあ、簾頭鬼さんは手から電撃とか出せるくらいだから、いいでしょうけど……」
孝士は隣の助手席にいる、自分とおなじく不安げなれのんと目を見交わし、半ばあきらめざるをえない気分になってきた。
心に不安が募る。胸のざわつきが止まらない。きっと、誰になにを言われようとも、いまの孝士の憂いが払拭されることはなかったろう。
なぜなら、孝士はこれから外法古墳で起こる事態を、何度もくり返し経験していたのだ。
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