さっきまで暗闇に
さっきまで暗闇に包まれていた付近が、急に明るい。だが、どこか別な場所へ移動したわけではなかった。孝士は、たしかにまだ臼山霊園南側の森にいた。
写真の画像をネガポジ反転させたかの風景だった。本来の明るい部分が暗く、暗い部分が明るくなっているのだ。薄い灰色の空に黒い星が点々と見える。雪が降ったように白い地面に、白い木々が並び立つ光景は異様そのものだ。
悪夢だ。冗談ではなく、気が変になりそうだった。
「簾頭鬼さん、ここ……どこ?」
顔中に冷や汗を浮かべる孝士が簾頭鬼を振り返り、わななく声で訊いた。すると相手は満面の笑みで、
「どこってえ、異空間のなかですけどお~」
「……ぼくはいかないって、言ったじゃないですかあああああああ!!」
と、喉を絞るようにして孝士。その場で崩れ落ち、両手と両膝を地面につけた彼は涙目になっている。
「そんなこと言われてもお、わたくしだってひとりじゃ心細いですもん~」
孝士の恨み節を聞いても簾頭鬼は涼しい顔だ。やはり地獄の住人には慈悲の心などないのだろう。そうして、簾頭鬼は片手を庇のようにして目の上へ持ってゆくと、あたりを見回しはじめる。
「さてさてえ~。このどこかにい、今回の騒動を引き起こした張本人がいるはずなのですがあ~?」
色調の逆転した森は遠くまで見通せた。そこではなぜか孝士と簾頭鬼だけに元の色が着いている。いっさいの音は聞こえない。木々の葉擦れも、虫の声も。世界そのものが死んだかのようだ。しかし、孝士と簾頭鬼の話す声は互いの耳に届いた。もしかすればこの空間内では、ふたり以外の時間の流れが静止しているのかもしれない。
「おやあ~? あそこになにかいますよお~」
ふいに簾頭鬼が言った。それを聞いた孝士は身をびくつかせて顔をあげる。
簾頭鬼は腕をのばし、遠くを指し示していた。孝士がその先に目を凝らすと、白い木の間に、なにかが見えた。しかし、あれはなんだ。
ふたりがいる場所からおよそ四〇メートルほど離れたところ。そこの地形が、こんもりと盛りあがっていた。不自然な隆起であるから塚だろうか。なにかが堆積しているのだ。目算で、高さはおよそ人の背丈を超えていると思えた。ちょっとした小屋くらいはある。それが、動いた。見まちがいではない。いちど天辺がふにゃっとへこんでから、横にはっきりと移動した。そういえば簾頭鬼はさきほど〝あそこになにかいる〟と言った。では、あれは地形ではなく生き物なのか。
もはやそれが移動しているのは目に見えてわかった。周囲とは異なり色が着いているところからすれば、元から異空間にあったものではないのかもしれない。孝士と簾頭鬼のほうへ向けて、徐々に近づいてくる。木々のあいだを縫い、ずるすると地面を這いずりつつ。
距離が縮まるにつれ、それの容姿がはっきりと見えてくる。半透明なゲル状の化物。そんな表現がぴったりな異形である。かなり柔軟な不定形で、一見すると単細胞生物のアメーバか、ファンタジーRPGに出てくるモンスターのスライムに似ている。が、サイズがでかい。でかすぎる。とてつもなく大きなカエルの卵塊を想像すれば、その容姿をイメージしやすいだろう。表面は水面に浮いた油みたいにぎらぎらと輝いており、透き通っているため多数の球体を内包する構造が見て取れた。丸い球体は考えたくなかったが、ひとつずつに虹彩があり眼球のようだ。時折、断続的にぐりっと動いたりしているのが最高に気色悪い。
どう考えてもまともじゃない。狂気じみた姿形は、見た者へ本能的に恐怖と嫌悪を催させる。そいつは孝士たちを認識しているようだった。意思を持ち、なんらかの目的でふたりのもとへ這い寄ってきているのだ。
「ぴゃああああああああああああっ!!」
たまらず奇声をあげる孝士。その様子は錯乱状態の一歩手前といった感じだ。おそらく狂気判定に失敗したのだろう。彼のSAN値はもうゼロに近い。
「針村様あ~? お気を確かにねがいますう~」
「ばかか! あんた、あれが見えないの!?」
この期におよんで暢気な簾頭鬼に、とうとう孝士もキレた。もうスライムの化物は、ふたりから一〇メートルほどの距離にまで近づいている。そいつが動くたびに、にっちゃにっちゃという納豆をかき混ぜるときのようなねばっこい音が聞こえてくるのだ。
「もちろん見えておりますよお~。どうやらあ、あいつがこの異空間を開いていたようですねえ~」
「に、にに逃げましょう! いますぐぐぐ!」
簾頭鬼の腰にすがりついた孝士は、全身を凍えたように震えさせている。だが簾頭鬼のほうはといえば、まったく動じた様子がない。
「いえ、ご安心めされよお~。この簾頭鬼い、不肖ながら地獄では獄卒鬼を束ねる序列第三位でございますう~。あのていどのザコ奉仕種族ならばあ、なんとかしてみせましょう~」
簾頭鬼は言うと、いつにも増しての柔和な笑顔を孝士へ向けてきた。そうして彼は、やにわに右手で自分の左肩口をむんずと摑んだ。そのまま腕を水平に振って、着ていたスーツをばさーっと脱ぎ捨てる。いや上着だけでなく、わずか一動作でワイシャツもいっしょに脱いだようだ。実に器用である。
諸肌を脱いだ状態の簾頭鬼。それを前に孝士は度肝を抜かれた。なぜなら、簾頭鬼のまっ赤な肌の背中一面に、でかでかと閻魔大王の刺青が彫られているのを目にしたからだ。
「おらあっ! こんかいドサンピン!」
固めた拳をスライムの化物へ突き出し、簾頭鬼がいかめしい表情で吠えた。ついさきほどとは顔つきはおろか、口調まで変わっている。もしやスーツを早脱ぎすることによって、彼のなかでなにかスイッチが入るのだろうか。
あわてて簾頭鬼から身を離した孝士はドン引きである。前々から違和感はあったが、やはりこいつもまともではなかった。柔らかな物腰のインテリ悪魔は、世を忍ぶ仮の姿。ガラの悪いこっちが本性なのにちがいない。
簾頭鬼は殺る気が満々だ。傍目からもそれがわかる。殺気──言葉にできない刺々しい雰囲気を、全身から放っている。スライムの化物もそれを感じ取ったのだろう。ぴたりと動きを止めた。簾頭鬼を敵と認識し、戦闘態勢に入ったのだ。
五、六メートルほどの距離を隔てて、二体のクリーチャーが対峙する。が、その体格差は歴然だ。スライムは体高も横幅も、簾頭鬼を大きく凌いでいる。簾頭鬼も小柄ではないが、これではまるで中型トラックにふつうの人間が挑むかの組み合わせである。
睨み合いの均衡を破ったのはスライムのほうだった。ぷるんとゼリーみたいに震えた直後、その身体の一部を触手のように細くのばして先手を打ってきた。
意外な距離からの奇襲。すでに簾頭鬼はスライムの間合いに入っていたようだ。しかし、牽制じみたそんな攻撃で簾頭鬼を傷つけることはできない。
簾頭鬼はスライムの触手が自分に触れる寸前、無造作に腕を振った。ごんと、なにか重く硬いものどうしがぶつかった音が鳴る。簾頭鬼の素の拳に迎え撃たれた触手は、あらぬほうへと弾き飛んでいった。
しゅるるるっと触手を縮めて元の形に戻ったスライムは、一瞬ひるんだように見えた。そこへ簾頭鬼が脱兎のごとく駆け寄る。そして、いきなりの浴びせ蹴り。彼は初手から、いちかばちかの大技に出た。
空中で小さく縦方向に回転する簾頭鬼。直後、彼の全体重を乗せた踵が上方からスライムへと襲いかかる。しかし見た目に反してスライムは頑丈だった。攻撃が命中した部分は深くへこんだものの、ダメージは通っていない。簾頭鬼は体勢を崩し、地面に横倒しとなる。そこへスライムが全身でのしかかろうとする。簾頭鬼は地面を転がり、すんでのところで回避。
軟体に物理攻撃が有効でないのはよくあるパターンだ。簾頭鬼はすぐに攻め手を変えた。立ちあがった彼は五指を開いた片手の掌を正面にかざした。静かに息を吸い、意識を集中させる。数舜後、細められた簾頭鬼の目が、かっと見開いた。すると彼の掌から、ばりばりと空気を震わせる音を立てて稲妻がほとばしった。それは漆黒の、不気味な稲妻である。さしずめ暗黒のいかずち、もしくは簾頭鬼コレダーとでもいうべきか。
幾筋もの雷撃を鈍重なスライムは避けることができない。まともにくらった。黒い稲妻に全身を苛まれ、小刻みに震えている。
簾頭鬼の雷撃が止まると、相手はあきらかに動きを鈍らせている。さすがに多少なりともダメージを負ったようだ。
「ほう、これがええようやな?」
勝機を見た簾頭鬼の顔に、邪悪な笑みが浮かぶ。地を蹴った彼の身体が宙を舞った。そして、スライムの直上へと華麗に降り立つ。そこで片膝をついた簾頭鬼は、指を揃えた両の貫手を、手首のあたりまで足下へぶっ刺した。意外と硬いスライムの表面も、一点集中させれば抜けると踏んだ彼の思惑は正しかった。
衝撃が分散吸収されてしまう軟体物へは、外部からの攻撃は無意味。ならば──
「往生せえやああああああっ!!」
簾頭鬼は相手の体内に刺し込んだ両手から、最大級の地獄の雷撃を送り込んだ。途端、スライムは激しく身をよじらせはじめる。そして苦し紛れからか、スライムは全身を大きく変形させ、簾頭鬼をまるごと包み込んでしまった。
こうなれば、もうどちらの命が先に尽きるかの我慢比べである。スライムは簾頭鬼を圧迫して締め上げ、簾頭鬼は精神力がつづくかぎり雷撃を繰り出すしかない。
決着はややのあと、突然についた。スライムの身体がみるみる膨張しはじめた。簾頭鬼の電撃によりゲル状の体組織が沸騰したのだ。さらに高熱で気体に相転移したおかげで、スライム内部の圧力は急激に高まる。そして、ついに限界に達した。
盛大な爆発音とともにスライムは破裂した。周囲に高温の粘液が飛び散る。それらは木の陰に隠れて一連の攻防を見ていた孝士の近くへも飛来してきた。水音を立ててまき散らされる粘液とはべつに、しぼんだビーチボールのような眼球もあった。生臭い、胸がムカつくような悪臭。
さっきまでスライムがいた場所では、簾頭鬼が三点着地の決めポーズを取っている。
どうやら終わったようだ。孝士は、とにあえず自分がまだ生きていることにほっとした。
いつのまにか元の暗い森に戻っていた。異空間を開いたというスライムが死んだせいだろうか。
「おっ、あれをごらんください針村様あ~。拉致られていた方々の霊魂が解放されましたよお~」
歩み寄ってくる簾頭鬼に言われて孝士も気づいた。森のそこここに散らばったスライムの眼球から、淡い燐光がわき起こりはじめたのだ。その光はまもなく、湯気のように宙へと立ちのぼった。空中でひとつにまとまったそれらは、いわゆる人魂である。幽霊になるほどの霊的エネルギーを持たない、魂の一形態。
多数の人魂たちは、しばらくあてどもなく周辺をさまよっていた。が、そのうちひとつ、またひとつと、キラキラした光の粒子となって霧散した。霊界へと旅立ったのである。
たぶん、あの人魂のなかには岩元の魂もいたにちがいない。孝士は、彼と別れの言葉を交わせなかったことをすこしだけ残念に思った。
「やっぱり、あのスライムみたいなのが消えた幽霊をさらってたのか……」
「そのようですねえ~」
と簾頭鬼。
「じゃあ、幽霊の消失事件は、これで終わったってことですね」
安堵した声で孝士が言った。しかし、簾頭鬼はなぜか腑に落ちない顔だ。
「ぬう、それはどうでしょうかあ~。あいつ一匹とはかぎりませんねえ~。きっとお、似たようなのが別の場所でも霊魂を集めていたと考えられますう~」
「まさか、あんなのがほかにもいるっていうですか!?」
「はい~。あれはあ、まれびどんが創り出した奉仕種族ですよお~。わたくしが思いますにい、いまは封印されて自由に動けないまれびどんがあ、あのスライムに命じて人の霊魂を蒐集させていたんですう~。理由はおそらくう、自分が復活するための供犠とするためでしょう~」
愕然となる孝士。なんてことだ。邪神の復活なんて、まるで物語の終章がはじまるみたいじゃないか。
そのとき、聞き慣れない音が孝士の耳に届いた。なにかが唸るような低周波。地鳴りだ。つづいて──
「うわわっ、地震だ!」
いきなり足下が揺れはじめ、孝士はその場でしゃがみこんだ。
大きい揺れだ。時間にして十秒足らずだったろう。すぐにおさまったが、孝士自身はまだ船に乗っているような感じがする。
前兆。胸にわき起こった不気味な予感に戸惑う孝士。彼が思わず目をやった先には、まれびどんが眠っているという外法古墳の高台が、暗くそびえていた。
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