あくる日。

 あくる日──

 円島支社で朝のミーティングを終えた孝士は事務所をあとにすると、午前中の地域巡回業務の途中でルートから外れ、臼山町の東へと足を運んだ。

 向かったのは外法壁である。昨夜、簾頭鬼から聞いたまれびどんのことがあり、なんとなく気になったのだ。

 外法壁は通称で、地名ではなかった。天狗のことを外法様と呼んだりするが、おそらくそこから名付けられたのだろう。なにせ外法壁には、天狗の百萬坊大権現が住んでいたという言い伝えがある。

 昨日ほどではないが、その日も晴天で朝から太陽が照りつけていた。

 孝士は看取川にかかる橋を渡ると、川沿いを上流へ向けて進んだ。するとやがて雑木林へつづく間道に入る。ひどく細い道だ。アスファルトで舗装はされているものの、ひび割れて整備状態はよくない。そのうち間道は臼山霊園のある丘陵を迂回するように大きく曲がり、あたりにいっそう木々が生い茂ってくる。さらに進むと道の片側が完全に崖といった感じになってきた。吹付工によってモルタルで固められた右手の急斜面は、そそり立ち見あげるほどの高さだ。

 外法壁の手前には小さなトンネルがある。孝士は、そこでいったん自転車を停めた。

 向こうの出口が遠くに見えるトンネルは、高さが三メートル足らず。トンネル内の道幅は狭く、車二台がすれちがうのは無理だ。這入口のそばに工事を知らせる立て看板が設置されている。道脇のガードレールに針金でくくりつけられたそれには、工事施工者となる建設会社の名前が書いてあった。以前、孝士が勤めていた会社である。

 外法壁の工事現場で起こった崖崩れ。それに巻き込まれ、孝士は命を落としたのだ。もうあれから三カ月ほどが経過していた。しかし自分が死んだ場所を訪れるとなると、やはり二の足を踏んでしまう。

 崖が崩れた場所は、いま孝士が見ているトンネルのまだ先だ。すでに復旧作業は終わっているだろう。だが施工途中だった道路整備と土地の造成は竣工しておらず、一時中断となっていた。人命に関わる事故が起きたため、その原因の調査や、現場の安全管理体制があらためて見直されるのは当然といえる。

 にしても、トンネルは不気味だ。孝士はぽっかり口を開けた暗闇の彼方にある、向こう側の出口の光を見てそう思う。

 たとえば初めて訪れたトンネルへ、ためらいなく足を踏み入れることができる者など、そうはいないだろう。内がまっ暗ということもあるが、トンネルにはなにか言葉では表せない怪しさがある。一方より入り、暗がりを通って外に出てみれば、自分が元いた世界とは異なるどこかへ移動してしまうのではないか。そんな非現実的な妄想をかき立てられる場所だ。実際、嘘か実かはともかく、心霊スポットと呼ばれるトンネルはけっこう多い。

 孝士の胸の内では、言い知れぬ不安が渦巻いていた。簾頭鬼からまれびどんのことを聞かされたせいだろうか。彼の話によると、異次元からきたまれびどんが封印されているこの近くでは、怪現象が起こりやすいというが。

 外法古墳──まれびどんが封じられたその史跡へ、孝士は行ったことがある。ずっと昔、たしか小学校の遠足だった。外法壁の崖を登った先に、外法古墳はある。しかし、うろおぼえながら特に異常と感じるような場所ではなかった。森を切り拓いたちょっとした広場で、展望台のところにまっ赤な彼岸花が咲き乱れていたのを思い出す。肝心の古墳といっても、ただの地面の盛りあがりだったと記憶している。

 トンネル内部から吹く少し冷たい風が、孝士の頬を撫でた。

 静かだ。この自然の多い場所では野鳥の声でも聞こえてきそうだが、まったくの静寂だった。ふと目の前のトンネルが、立ち入ってはならない禁足地との境界のように思えて、孝士はごくりと唾を飲み込んだ。

 また風が吹いた。木々の枝葉が擦れる音が鳴り、あたりの雑木林がざわめいた。魅入られたようにじっと動かなかった孝士は、それで我に返った。

 やっぱり、行くのはよそう。孝士はその場でUターンすると、きた道を引き返した。

 寄り道したおかげで、その日の地域巡回はあわただしいものとなった。孝士が臼山霊園を訪れたのは、午後遅くだった。

 駐車場に自転車を置き、墓地の東屋へゆくと、いつものように清水がいた。

「ああっ、針村くん!」

 清水は孝士の姿を見るや、すーっと空中を移動して文字どおり彼のところまで飛んできた。

「どうしたんですか、そんなにあわてて?」

 と孝士。

「岩元くんが、いなくなったんだよ」

「いなくなったって、どういうことです?」

「そのままの意味だよ。ずっと姿が見えないんだ」

 切羽詰まった様子の清水が、じれったそうに言う。が、孝士のほうは、なんだそんなことかと拍子抜けした。

「岩元さん、どこかに用事でもあったんじゃないですか。それで今日は、ここへこられなくなったんでしょ」

「ちがうよ。岩元くんはただの浮遊霊だよ。彼がどうして幽霊になったか、きみも知ってるだろ? 死んでからゆくあてなんかないから、いつもここでぼくとぐだぐだやるのが日課なんだ。姿を消したのは昨日の午後からだから、丸一日ってことになる。こんなのいままでになかったよ」

 そう捲し立てる清水は必死だ。

 たしかに孝士が清水と顔を合わせるとき、たいがいが岩元とセットだった。人柄は対照的なふたりであるが、意外と馬が合うということなのだろう。

「でも、たった一日でしょ? あとでひょっこり顔を出すんじゃないですか。あの人、いいかげんでふらふらしてるところあるし」

「そうかな、だったらいいんだけど……」

 いやに怖じ気づいている相手を見て、孝士は清水のほうが心配になってきた。

「あの、大丈夫ですか、清水さん?」

 だが清水は孝士の問いかけにまるで応じない。彼は周囲をきょろきょろと見回しながら、

「針村くん、気づいてるかい? 臼山町の幽霊が、少なくなってるのに」

「え……」

 孝士はちょっとの間、二の句が継げなかった。

 臼山町の幽霊が減っている。その話は昨晩、円島支社で折戸から聞いたばかりだ。

 では、まさか岩元も──?

 ふっと頭に浮かんだ自分の考えに戸惑っている孝士の腕を、急に清水がすがるようにして取った。

「ほかのみんなだって、こうやって消えていったんだ。いつのまにか、なんの前触れもなく姿が見えなくなったんだよ!」

「お、落ち着いてくださいよ。じゃあ、岩元さんも同じように消えたっていうんですか?」

「針村くん、ぼくこわいよ……。なにか、よくないことが起こってそうな気がする」

 清水は狼狽し、まともに会話ができない状態に見えた。

 仕方なく孝士は彼の顔を覗き込んで、ゆっくりと、子供に語りかけるようにして訊いた。

「清水さん、心当たりでもあるの?」

「うん──」

 孝士と目を見交わした清水が肯く。そうして彼は、臼山霊園の南側にある森へと首をめぐらせた。

「この霊園の奥だよ。ほら、まだ区画が定められてない未整備のところがあるだろ。あそこの森、気味が悪いんだ……なにか、へんなモノがいるみたいでさ」

「へんなモノって、なんです?」

「わからないよ! だからこわいんだ」

 孝士も清水が見ている霊園の南に目をやった。そちらは臼山霊園の敷地よりもさらに地面がせりあがり、外法壁の裏側となる。木が密生しているその向こうには、外法古墳と展望台があるのだ。

 孝士は胸の鼓動が早くなるのを感じた。今回の件とまれびどんには、もしかしてなにか関係があるのだろうか。答を出すのは早計だが、孝士はそれらに関連性が生じている気がしてならない。

 孝士自身も混乱してきた。考えがまとまらない。落ち着け。こういうときは、ひとつずつ順番に処理するんだ。

 自制した孝士は、清水に向き直った。

「えっと、状況はわかりました。じゃあ、とりあえず岩元さんのことは、こっちでも調べてみますよ」

「ああ、頼むよ。でもぼく、もうここへはこない。──そうだな、もう成仏するのもいいかもね。どうせ幽霊には、なんにもできないんだ」

 自嘲的な言葉を残し、清水はその場を去った。

 孝士は、ぼんやりとかすんで見える幽霊の後ろ姿を、心配げに見送るしかなかった。

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