「あれ、簾頭鬼さん?」

「あれ、簾頭鬼さん?」

 孝士は目を丸くした。

「どうもお~」

 と、笑顔の簾頭鬼がぺこりと孝士へ会釈する。

 まっ赤な肌で額から二本の角を生やす、ダークスーツ姿の鬼か悪魔。それが商社の事務所であたりまえのように存在しているのだ。とてつもなくシュールな光景である。

「どうしたんですか? ていうか簾頭鬼さん、現世にもくるときがあるんですね」

「はい~。今日はちょっと用事がございましてえ~」

 その簾頭鬼へ、隣の席にいた円島支社の事務員である寺石麻里が、なにかを差し出した。

「では、こちらが直近のデータになります」

「あ、おそれいりますう~」

 簾頭鬼が寺石から受け取ったのは、小さなフラッシュメモリだ。孝士は簾頭鬼が持っているそれを指さして、

「なんです、それ?」

「これえ、臼山町にいる幽霊の分布データですう~。実はいまあ、このあたりで妙なことが起こっておりましてえ~……」

「妙なこと?」

「そうなんですう~。お盆に現世へ帰省した霊魂さんのうちでえ、あの世へ戻ってこない方がいらっしゃるんですよねえ~」

 八月の中旬に故郷へ帰省するのは、なにも生きた人間だけではない。地獄の釜の蓋が開くお盆には、亡くなってあの世へ逝った人々の魂が、現世の縁者のところへ帰ってくる。そしてそれらは、お盆がすぎればまたあの世へ戻るのだ。あの世へ戻るとは表現的におかしいようだが、実際そうなのである。

 孝士は脇に抱えていたスーツの上着とリュックを自分の机に置くと、椅子を引いて座った。

「へえ、戻ってこない霊魂が。たくさんいるんですか?」

 孝士に問われた簾頭鬼は困り顔で肯いた。

「なのでえ、今日はわたくし、円島支社で把握している幽霊のデータを見せてもらいにい、こちらへまいったというわけなんですう~。お盆のピークと現在の数を照らし合わせればあ、なにかわかるかもしれませんのでえ~」

 なるほど。孝士は納得した。霊界データバンクは霊子センサーという機器を使って、全国規模で幽霊の実態を調査管理している。生息数、現世の在留期間、危険性の有無、等々。そのデータを精査すれば、簾頭鬼が言ったように今回の懸案解決のヒントが見つかるかもしれない。

「そういや最近、おれの担当んとこ、チェック対象の幽霊が減ってんなあ……。なんか関係あんのかな?」

 言ったのは折戸である。彼は事務所の隅に置いてあるテレビの前に陣取り、夕方のニュースを観ている最中だった。

 すると折戸の言葉を聞いた円島支社の支社長である中田が、

「なにい? こら折戸、そういうことはちゃんと報告せんか」

「え、いやだって、おれらルートナビで指示されたエリアまで行って、幽霊確認するだけだし」

 折戸は咎められたのが心外だと言わんばかりの表情である。常にマイペースの彼は、典型的な自主性に欠ける問題社員といった感じだ。

「言われたことだけやればいいわけじゃないだろ、ったく」

 中田は吐息交じりにそうこぼした。

 幽霊が減っている──そういえばと、孝士は今日の昼間に会った清水と岩元のことを思い出した。たしか岩元が最近、いつも幽霊が集まる臼山霊園でも数が少なくなっているとか話していたような。

 しかしだ。現世に帰省した幽霊があの世へ戻っていないとすれば、逆の現象が起こるのではないだろうか。臼山町では確認される幽霊が増えるはずだ。それが減っているとは、あきらかにおかしい。まさか幽霊が神隠しに遭っているとでもいうのか。

 現場で幽霊の数をチェックする立場の孝士自身にも関係のあることなので、ちょっと気になった。彼は簾頭鬼に訊いた。

「以前にも、こんなことはあったんですか?」

「いやあ、わたくしの知るかぎりい、ないですねえ~」

 と簾頭鬼。そして彼は肩をすくめ、両の掌を上に向けたお手上げのポーズをして、

「原因が不明というのが困りますう~。こちらのデータを参考にしてえ、なにかわかればよいのですがあ~」

 不可解な話だった。とはいえ、現時点では情報が少なすぎる。件の話題はそれで終わって、孝士は本日の日報をパソコンへ入力するなどの事務処理を終え、帰宅することにした。

 円島支社の事務所を出るころには、あたりはもう日が暮れていた。

 孝士の自転車は神社の下にある裏の駐車場に置いてあった。そこへ降りる狭い道に向かう途中、彼は後ろから誰かに声をかけられた。

「あのお~──」

 簾頭鬼だった。ちょうど境内にある常夜灯の石燈そばに差しかかった孝士が振り返ると、暗がりから相手がぬっと現れた。しかし簾頭鬼はあの容姿だ。人気のない夜の神社で出会ったりすれば、さすがに心臓に悪い。

「ひっ!」

 驚いた孝士が思わず小さな声をあげる。それを見て簾頭鬼は申し訳なさそうな顔で苦笑した。

「おっとお、すいません~。びっくりさせちゃいましたあ~?」

「いえ、大丈夫です……」

 と、どぎまぎしつつ孝士。

「ならいいんですう~。えっとお、それで針村様あ、どうですかあ、新しいお仕事のほうはあ~?」

「ええまあ、なんとかやってますけど」

「そうでらっしゃいますかあ~。それを聞いて安心いたしましたあ~。わたくしのほうも針村様の転職をお世話をさせていただいた立場ですのでえ、ちょっと気になりましてえ~」

 そうなのだ。数カ月前、不慮の事故で亡くなったあと、孝士が幽限會社・霊界データバンクという職場で働くことになったのは、簾頭鬼のおかげなのだ。しかし、それもいま思い返すとよいやら悪いやら。生き返ったことに関しては感謝しかない。が、孝士にとって幽霊を調査管理するという仕事は、特殊すぎた。いや、誰だってそうか。向き不向きの問題ではなく、控え目にいってもまともな職業ではない。

 試用期間の現在は仕方がないとして、いずれ遠くないうちにさっさと辞めてしまいたい。それが孝士の本音である。

「あー、とりあえず簾頭鬼さんのご迷惑になるようなことは、ないかと……」

 実のところ辞める気が満々ながら、その場しのぎで茶を濁す孝士。

 すると簾頭鬼は片方の手をひらひらと振って、

「いやいや、わたくしのことはおかまいなくう~。それに、中田支社長から伺っておりますよお~。針村様はがんばってらっしゃるとお~」

「ハハ、ほんとかなあ」

「はい~」

 簾頭鬼が笑うと、口の端から牙がにゅっと突き出た。その威圧的な容貌と、彼の腰の低さはなんともアンバランスだ。ああ見えて、簾頭鬼はやはり人外の魔族なのである。ソフトなイメージは、なにかおそろしい本性を隠すためのようで、孝士にはそれがかえって不気味に思える。

「ところで針村様あ~、臼山神社の本殿ってえ、ご覧になったことありますかあ~?」

 簾頭鬼がいきなり話題を変えた。

 孝士は以前に見た、臼山神社の本殿を頭に思い浮かべた。本殿というから立派なものかと思っていたが、実にちんまりとした祠だった。しかし、だいたいの神社の本殿とはそういうものらしい。一般的には内部に神社が祀る御神体を納めてあり、ただそれだけを目的とする社殿だ。

「拝殿の裏にあるんですよね。建物は外から見たことありますけど、なかはないですよ」

 と孝士。

「そうですかあ~──」

 言って簾頭鬼は、拝殿の横から回ってゆける境内の裏手のほうをちらりと見た。

「あのお、ちょっといまからあ、見てみません~?」

「えっ、なかに入るんですか? それはまずいんじゃ……」

「いえ、もちろん勝手にご開帳しようってわけじゃないですよお~。でもお、御神体はわたくしも拝見したことがないのでえ、興味あるんですよねえ~」

 簾頭鬼はそう言うと、人差し指を立てた片手を顔の横に掲げた。すると、その指先にぽっと小さな炎が灯った。青い炎はすぐに簾頭鬼の指を離れ、ふわりと宙に浮かびあがる。

 鬼火だ。簾頭鬼の頭上で漂い、あたりの闇をあやしい色で照らしはじめた。

「わっ……」

 まるで手品のような芸当に孝士は息を呑んだ。

「ちょっとだけですからあ~」

 簾頭鬼に促され、孝士は仕方なく歩きはじめた彼につづいた。

 臼山神社の周囲は木々が茂る深い森だ。夜に鳴く虫たちの声を聞きながら、ふたりは拝殿の裏手へと進んだ。しばらくすると本殿が見えてくる。切妻屋根の質素な小屋。高床式で正面は格子扉になっていて、その前に小さな階段がある。

 本殿の前でふたりは並んで立った。青白い鬼火に照らされたせいもあって、周囲は実に異様な雰囲気である。簾頭鬼は階段の下から身を乗り出して、まっ暗な格子扉のなかへ興味深げな視線を注いでいる。

「中田支社長の話によりますとお、ここに祀られている百萬坊大権現はあ、かなりの暴れん坊天狗だったようですねえ~」

「ええ、そうらしいですね」

 孝士も地元民ゆえ、さすがに当地ゆかりの百萬坊大権現については多少なりとも知っていた。

「いわゆる天狗の神通力を使ってえ、いろいろ悪さなんかもしていたとかあ~。どうですう、なにか感じますう~?」

「特にはなにも……」

 と、首を横に振りつつ孝士。

「まあ、いまは封印されてますからねえ~」

「封印?」

「はい~。伝承によりますとお、百萬坊大権現は数百年前にい、おなじくこの地にいたまれびどんと大げんかをしたそうですう~。それでえ、お互いに共倒れとなったところを、果心某というお坊さんに調伏されてしまったんですねえ~。なのでえ、ここには百萬坊大権現を祀ってあるというよりはあ、封じ込めてあるといったほうが正しいですねえ~」

「へえ、そんな逸話があったんですか……」

 孝士も以前、百萬坊大権現とまれびどんのことはおぼろげに聞いたことがあった。だが、まれびどんはともかく、百萬坊大権現が封印されたとは初耳である。

 孝士は簾頭鬼の話にだんだんと興味がわいてきた。

「まれびどんが外法古墳に封じられたのは知ってましたけど、百萬坊大権現のほうもそうだったんですね」

「どちらも当時の人間たちが畏怖を抱く存在だったようですねえ~。百萬坊大権現は山神、まれびどんは海神だったそうですう~」

「なるほどお~。自然崇拝ってわけですかあ~」

 と孝士。どうも簾頭鬼としゃべっていると、たまに喋り方が伝染ってしまう。

「ええまあ、百萬坊大権現は山岳信仰の対象とも言えますけどお、まれびどんは根本的にちがいますねえ~。なんたってえ、あれ別の世界からきた来訪神ですからあ~」

「えっ、別の世界って、どういう……?」

 なにげに衝撃的な簾頭鬼の発言に、孝士はぽかんと口を開いた。

 孝士の驚きようを見た簾頭鬼が、さもおかしそうに笑う。そして、彼は言った。

「あらあらあ、ご存知なかったんですかあ~? まれびどんていうのはあ、こことは別の次元からきた邪神なんですよお~。やばいですよねえ、そんなのが身近にいるなんてえ~。したがって現在い、外法古墳のあたりはあ、ちょっとしたトワイライトゾーンになってますう~。現世と幽世の境界が曖昧になってたりしますのでえ、あまり近づかないほうが身のためですよお~」

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