別の日。れのんはふたたび

 別の日。れのんはふたたび浮谷早苗にアプローチを試みた。

 今度は待ち伏せ作戦である。テニス部の練習が午前中で終わったその日、れのんは美術室の近くに潜伏して早苗の帰りを待つ算段だった。が、残暑の厳しい本日の最高気温は三二度を超えている。校舎の廊下で我慢できたのは、ほんの一〇分足らず。彼女がとっととエアコンの効いた図書室へ待避したのも無理はない。

 円島女子商の図書室は夏休みのあいだ、自習をする生徒にかぎって開放されている。そこはコの字型をした校舎で美術室のちょうど反対側に位置するため、向こうの様子も監視できる。快適このうえない。最初からこっちにいればよかったのだ。

 図書室にはよく見れば自習する生徒に混ざって、れのんと同じように涼んでいるジャージ姿の生徒もちらほらいた。どうやら運動部員のサボりポイントとしても活用されているらしい。

 れのんが退屈しのぎにスマホをいじったり、蔵書の古いコバルト文庫をぱらぱらめくったりしているうち、美術室になにやら動きがあった。遠目でよくわからなかったが、人の動きからして後片付けをはじめたようだ。

 窓のそばに置いた椅子から腰を浮かせたれのんは、借りた本を書棚に戻すと急いで美術室へ向かった。

 人影のない校舎の廊下に、リノリウムの床と内履きのゴム底が擦れる音が響く。と、いきなり行く手に美術部員の集団が現れた。駆けていたれのんはあわてて急停止すると、近くにあった柱の出っぱりに身を隠した。そろりと顔の半分だけを覗かせ、様子を窺う。

 キャッキャウフフとかしましい女子たちが、階段を使い一階へ降りてゆく。そのなかには早苗の姿もある。れのんは少しの距離を置き、こっそり彼女たちのあとにつづいた。

 美術部員の一行は校舎の昇降口で三々五々に別れ、散っていった。靴を履き替えた早苗はそのまま帰宅するようだ。彼女がひとりになったのを見定めたれのんは、自分も昇降口で外履きのスニーカーに足を突っ込むと、ダッシュで校舎を飛び出した。

 外に出た途端、まぶしさに目が眩んだ。時刻は午後三時を回ったころ。肌をじりじりと焦がすような強い日射は最高潮である。れのんは校門の手前で、ようやく早苗に追いついた。

「おーい」

 と、背後から声をかける。

「あれ、覆盆子原さん」

 立ち止まり、後ろを顧みた早苗は空色のリボンがついたカンカン帽をかぶっている。れのんは彼女の横に並ぶと、

「いま帰り?」

「はい」

「あたしもなんだ。途中まで、いっしょにいかない?」

「ええ。かまいませんよ」

 よしよし、と心のなかでほくそ笑むれのん。

 とりあえず第一段階は成功である。それから、れのんは早苗と並んで歩きながら、つぎにどうやって幽霊の話を切り出そうかと考えた。ずばり本題に入るのは論外だ。ねえ、幽霊って見たことある? そんなことをすれば変人扱いされるのは目に見えている。

 れのんは、この学校の誰にも自分の霊能力のことを話してない。昔から、それでさんざんいやな思いをしてきたのだ。他人からばかにされたり、仲のよかった友達に急に距離を置かれるようになったり。だから〝視える〟ことは、絶対に誰にも打ち明けてはならない──れのんはいままでの経験からそう学んでいた。

 夏の日射しが作る濃い影を踏み、ふたりはしばらく無言で歩いた。

 れのんは気後れしてまごまごするばかりである。するとそのうち、早苗のほうが彼女へ、

「あの、覆盆子原さん、どうしたんですか?」

「なにが?」

「なにがって、このごろわたしによく声をかけてくるので、大事なお話でもあるのかなと思ったんですけど。今日もそうだったんじゃ?」

 小首を傾げた早苗はれのんの意図を見透かすような微笑を浮かべて、そう水を向けてきた。

 ──バレてる。

 うぎっと小さく呻いたれのんだが、さすがに最近の彼女の行動は不自然だったろう。あれでおかしいと思わないほうがおかしい。

 こうなっては、もう正面切って話したほうがよさげである。だが待てよ、はやまるのは禁物だ。なるべく遠回しに、さりげなく。

 れのんは頭のなかで言葉を選びながら、慎重に口を開いた。

「……うん。実は、そうなんだ。この前、美術室でちょっと話したでしょ。あのときの浮谷、なんか元気ないように見えてさ」

「えっと、わたし、そんなふうに見えたでしょうか?」

「あー、見えた。見えたよ、確実に。それで、まあおせっかいだろうけど、あたしでよかったら相談に乗ろうかなって思ったりなんかしたもんだから」

「そうだったんだ。ありがとう、心配してくれて」

 やや事実とは異なるが、悪質な嘘ではない。

「で、どうなの? なんか身の回りで困ってることとか、あるんじゃない?」

「うーん、困ってることか──」

 れのんに問われた早苗は、握った拳を口元にあてて考え込んだ。そうして、

「強いて言うなら、将来のことですね」

「しょ、将来のこと?」

 早苗の予想外の返答に、思わずおうむ返しをするれのん。

「はい。わたし、卒業したら鉋沢市の美術大学へ進むつもりだったんですけど、やっぱりあきらめようかと」

「え、どうして?」

「美大は学費が高いし、なによりわたし自身に才能がないみたいです」

「そんな……絵を描くの、あんなにうまいのに」

「絵は練習すれば、誰でもそこそこ描けるようになります。わたしは小さいころから絵画教室に通ってました。それで、高校に入ってからは大人向けのコースで学んでいたんですけど、なかなか上達しなくて」

「もしかして、誰かに才能ないって言われたの?」

「うん、そういうことになるのかな。この前、絵画教室の人たちと絵のコンクールに応募したんです。そしたら、わたしだけ選外でした」

 本人はこともなげに話しているようだが、おそらくショックだったにちがいない。れのんはすぐになにか言わねばと思い、

「それ、審査員の見る目がなかったんだよ」

 するとれのんの配慮を察して、早苗はうれしそうに少し笑った。

「気を遣ってくれなくてもいいんです。なんとなく分不相応なコンクールだと思ってたし、個人の才能を評価するのは常に他人の冷静な視点ですから。たぶん、あの結果がいまのわたしの実力なんです。でも、いっしょに応募した同年代の子が小さな賞を獲っていたのに、自分だけ選から漏れたというのは、さすがに堪えましたね」

 れのんは軽々しく訊ねたのを後悔した。早苗のは思いのほかヘビーな悩みだった。かける言葉が見つからない。

 学校をあとにしたふたりは、いつしか小さな水路に沿って歩いていた。横手の雑木林から聞こえる蝉時雨が、ひどくやかましい。

 場の空気が、ずーんと重くなった。早苗もそれを感じたのだろう。あえて明るくした声で、今度は彼女がれのんに訊いた。

「覆盆子原さんは、卒業したらどうするつもりなんですか?」

「あたし? あたしは──」

 いきなり浴びせられた質問に、うろたえるれのん。

 もちろん将来のことを考えたことがないわけではなかった。しかし明確な未来の指針となると、れのんにはまだこれといったものがない。部活のテニスは遊びだし、商業高校へ入学したのも学力の関係である。自身の取り柄といえば、幽霊を視ることができる超自然的な能力のみ。そんな自分の長所を活かして就職できるとすれば、霊界データバンクくらいではなかろうか。

 幼いころに両親を亡くしたれのんは伯父である中田支社長と暮らしている。中田夫妻は、ずっと親身になってれのんの面倒を見てくれていた。彼女を霊バン円島支社のバイト要員として雇っているのも、そのひとつだろう。だからいずれは、霊界データバンクで働くことになるのだとれのんは漠然と考えていた。自分の両親もそうだったように。

「まだわかんないけど、親戚にコネがあるから、うまくいけばそっちの会社に入れると思う」

 とれのん。

「へえ。どんな会社なんですか?」

「んー、リサーチ会社みたいなとこかな。あんまし有名じゃないから、言ってもわかんないよ、きっと」

「そうなんだ。うちは商業高校だし、就職先となると企業の事務職が多いですね。地方自治体とか銀行だと、安定してて申し分ないんだけど」

「そだね」

「わたしもそろそろ本気で進路のことを考えないと」

「美大には、もう未練ないの?」

 れのんが言うと、早苗は笑顔で肯いた。

「はい。長くつづけていたら、なにか結果が出るかと思っていましたけど、甘かったですね。見切りをつけるには遅いくらいだったかも」

「そっか。でもごめん。あたし、浮谷の力になれそうにないや」

 しゅんとなるれのん。

「いえ、いいんです。あ、絵を描くのはたのしいし、まだつづけますよ。絵画教室のほうにも──」

 ふと、言葉が途切れた。

「どうかした?」

 れのんは横を歩く早苗のほうを見た。すると、その表情が硬い。

「あの、わたし自身のことじゃないんですけど、ほかにちょっと心配事が……」

「なに? よかったら、話してみなよ」

 れのんに促されたものの、早苗はためらっている。しかし、そのうち小さく息を吐くと、彼女は重い口を開いた。

「絵画教室に、昔からいっしょに通ってた男の子がいるんです。だけど彼、最近まったく顔を見せなくなってて」

「やめちゃったの?」

「それが、ちがうみたいなんです。どうも、なにか心因性の病気みたいで」

 話しているうち、しだいに早苗の足取りは重くなってゆく。その男の子のことが本気で心配なのだろう。切実な表情で彼女は語を継いだ。

「わたし、その子の妹さんとも知り合いなので事情を聞いてみたんです。そしたら彼、夜になるとへんな声が聞こえるとか、描いた絵を誰かに破かれたとか言ってるらしいんです」

「それって……」

 れのんは胸の内がざわつくのを感じた。

「なんか、恐い話ですよね。本人は部屋に閉じこもったままで、ご両親もすごく心配なさってるそうです。それで近いうちに、心の病気を診てくれる病院へ連れていくんだとか」

 早苗の声を聞きながらも、れのんは半ばうわの空だ。黙ったままの彼女に気づき、早苗は気を取り直した。

「あ、こんな話をされても困っちゃいますよね。すいません、覆盆子原さんには関係のないことなのに」

「ううん、いいよ。その子、はやく元気になるといいね……」

 それから互いに向かう方向のちがう交差点で、ふたりは別れた。

 まだぼんやりとだったが、ようやく今回の核心へ至る手がかりを摑んだ。

 唇をきゅっと結んだれのんは、途端に駆け出した。霊界データバンク円島支社のある臼山神社へ向けて。

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