八月の下旬。
八月の下旬。お盆からの繁忙期が長引き、霊界データバンク円島支社ではまだ忙しい日々がつづいていた。
今日も定時を過ぎたはずなのに、臼山神社の社務所には明かりが灯っている。その円島支社の事務所も兼ねる建物内では、針村孝士と折戸謙が残業に勤しんでいた。
「おまえの淹れるコーヒーって、なんでいつも不味いの?」
手に持つマグカップに湛えられた褐色の液体を見つめつつ、折戸が言った。
折戸と机を並べている孝士は、自分の事務机に置いてあるコーヒーをひと口すすってみた。
「こんなもんでしょ」
孝士がそう言ったものの、折戸は納得できないようだ。
「お湯とコーヒーの素を混ぜるだけなのに、どうやったら不味く作れるんだよ」
「インスタントに品質を求めても仕方ないですよ」
「いや、だいたい色からしておかしいし。薄いだろこれ、紅茶かよ」
「ぼく、いつもこのくらいの濃さですけど。カフェインの摂り過ぎは身体によくありませんからね」
「えっ、ハリソンおまえ、健康とか気にしてんの?」
「逆に訊きますけど、折戸さん気にしてないんですか?」
「ねーよ。そんなのおっさんになってからでいーんだよ」
「うわあ、気づいてないんだ。もうすでに自分がそうなってることに」
瞬間、ハトが豆鉄砲をくらったような顔をした折戸だったが、すぐに彼は余裕のある笑みを浮かべた。
「ふざけんなよ。おれはまだ三十路前だぞ。完全にピチピチボーイだろうが」
「ピチピチっていうのも死語っぽいなあ」
と、鼻で笑いながら孝士。
「おま……いちいち揚げ足とるんじゃねえよ」
「まあ、いずれにせよアラサーでしょ。それって世間的にはもう──」
「う、うっせーな、まだ一年モラトリアムなんだよ!」
折戸はたまらず半ギレで声を荒げた。肌のハリ、体力の低下、記憶力等々──どうやら彼自身、おぼろげながら加齢に対しての危機感はあったのだろう。孝士のほうはそれをわかってて言ったので、折戸の反応をにやにやしながら眺めている。
残業に飽きてくると、毎回このようなじゃれ合いがはじまる。ガキか。少なくとも精神年齢は確実に実年齢と一致してない。だいたいこのふたりは集中力に欠けており、さらに社会人としての自覚や労働へ取り組む意識が低すぎる。そんなだからいやいやの残業をしなければならないハメになるのだ。
「おつかれー」
ふいに声がした。
孝士と折戸が声のほうを振り返ると、事務所の出入口にれのんの姿があった。いましがたの会話を途中から耳にしていた彼女は、ふたりへひどく冷めた目を向ける。
あたしから見れば、どっちもおっさんだよ──
おへそが見えそうなショート丈の黒いタンクトップに、オリーブ色のカーゴパンツといったボーイズライクなれのんは、ちょっとの間、事務所内を見渡した。
「麻里姉は?」
「寺石さん、もう帰ったよ」
と孝士。
「なんだ、遅かったか」
れのんは言うと、唇を尖らせた。その彼女へ向けて折戸が、
「なあれのん、コーヒー」
「は?」
「コーヒー淹れてくれよ」
「なんであたしが?」
「おれいま手が離せねえの。仕事中だし」
「じゃあハリソンに頼めば?」
「ぼくが淹れたのは、いやなんだってさ」
ジト目の孝士があきれた様子で折戸を見やる。すると折戸は穢れたものでも遠ざけるようにして、持っていたマグカップを机の端に置いた。
「やっぱインスタントはだめ。口に合わない。おれ、ちがいのわかりすぎる男だから」
「なら、コーヒーメーカー使いなよ。いつもそうしてるじゃん」
れのんはそう言うと事務所の奥を顎でしゃくった。そちらは給湯室になっており、コーヒーメーカーが置いてある。しかし、折戸はだめだめというふうに手を振って顔をしかめた。
「あれはおれらが使うの禁止されてんだよ。勝手に触ると、寺石ちゃん発狂するし。だからおまえに頼んでんの」
そうなのだ。以前、折戸と孝士が金曜日の夜に残業したとき、コーヒーの出涸らしをそのままにして帰ったことがある。そして月曜日、出勤した寺石麻里がコーヒーメーカーを見ると、見事にカビが生えていた。それ以来、折戸と孝士は円島支社のコーヒーメーカーへ触れるのを固く禁じられたのだった。
「もう、しょうがないな。そんなの誰がやっても同じでしょ」
ぶつくさ言いながらもれのんは奥の給湯室へ向かい、そこの照明を点けた。
給湯室は手狭だがシンクがあり、小型の冷蔵庫も設置されている。れのんは冷蔵庫を開けて、ガラス製の広口瓶と水のペットボトルを取り出した。広口瓶に入れてあるのはコーヒー豆だ。れのんはコーヒーメーカーのミル部分へ豆をざらざら落とすと、給水口から水を注いだ。水は軟水と硬水をミックスしたもので、コーヒー豆も割と値の張る高級な品だった。寺石はなかなかコーヒーにこだわっているようだ。
コーヒーメーカーのスイッチを入れると、ミルがやかましく豆を砕きはじめる。れのんは事務所へ戻った。そして寺石が使っている事務机の椅子に座る。浮かない表情。
「寺石さんに、なんか用事だったの?」
斜向かいの席の孝士が訊ねる。れのんは頬杖をついて目を伏せた。
「うん、ちょっと相談事」
「なんだよ、おれらに話してみ。カネの無心じゃないなら聞いてやるから」
と折戸。
れのんは、いま事務所にいる実に頼りにならなそうなふたりを見比べた。しばし打ち明けようか迷ったが、彼女は思いきって口を開いた。
「んとね……うちのクラスに、気になる子がいるの」
その年頃な少女の口から出た言葉に、折戸と孝士はぎょっとなる。
「なにっ!?」
「え……」
いったん顔を見合わせた男ふたりは、同時にふたたびれのんのほうへ目を移す。
「お、おまえの学校、女子高だったよな?」
「百合かあ……」
途端、れのんは心底めんどくさそうに顔を歪めた。
「はいはい、ちがうちがう。へんな想像しないでよね。気になるってのは、そういう意味じゃないから」
「じゃ、どういう意味だよ?」
折戸が訊いた。れのんはちょっと考え込んで、
「浮谷早苗って子なんだけど、なんていうか、幽霊の気配がするんだよね」
「気配? そりゃまた、あやふやだな」
「そうなの。取り憑かれてる──ってわけじゃなさそうなんだ。幽霊の姿はどこにも視えないから」
「だがしかし、その子の近くに霊がいるような空気は感じると」
折戸の言葉にれのんはこくりと肯く。
「本人と話してみたら? 霊障とか出てるかもしれないよ」
と孝士。霊障とは、幽霊が現世で引き起こす事象のことである。幽霊そのものが見えたり、姿のない誰かの声が聞こえる、原因不明な身体の不調、はては家電製品が壊れまくるなど程度はさまざまだが、概ね当事者に害のある怪現象だ。
「うん。今日、部活で学校にいったら見かけたんで、それとなく訊いてみたよ」
れのんは学校の水飲み場で早苗と話したときのことを思い出して、
「特に身体に異常はないし、周りでも変化ないって言ってた」
なるほど、それは妙だと首を傾げる孝士と折戸。
れのんの霊感がずば抜けて鋭いのは確かだ。おそらく勘違いや思い過ごしではあるまい。浮谷早苗の周囲には、まちがいなく幽霊がいるのだ。しかし肝心の姿が視えないとは、いったいどういうことなのか。
「ま、幽霊っつっても、害悪になるのばっかりじゃねえしな。守護霊みたいな高次の霊になると、良識が備わったのもいるぜ。そういった類いかもな」
と折戸。
「そうだね。悪質な幽霊なら霊子センサーに反応あるだろうし。実害がないなら心配しなくていいのかも」
孝士も楽観的な意見のようだ。
「だったらいいんだけど……」
れのんは椅子の背もたれに寄りかかり、ぼんやりと上を向いた。
浮谷早苗はクラスでも目立たない存在だ。はっきりいって影が薄い。そんな彼女を意識するきっかけが、幽霊とは。れのんにしてみればちゃんと会話したのも、今日が初めてだった気がする。同級生というなまじ身近な存在だけに、ほうってはおけなかった。それに姿の見えない幽霊というのが、どうも気になる。
束の間、深く考えをめぐらせるれのん。が、彼女はやにわに、バネが刎ねるようにぴょんと椅子から立ちあがった。
「話聞いてくれてありがと。でも気になるから、もう少し様子見てみる。じゃ、あたし帰るね。──あ、コーヒーできてるよ」
はきはきと言い連ねたれのんは、そのまま事務所を出ていった。さすが若者は思考の切り替えも行動に移るのも早い。
あとに残った孝士と折戸には、まだ片づけなければならない仕事がある。孝士が給湯室のコーヒーメーカーからサーバーを持ってきて、自分と折戸のマグカップへ熱々のを注いだ。さあ、これを飲んだら仕事モードだと、ふたりはコーヒーに口をつける。
すると──
「なんじゃこりゃあ!!」
いきなり折戸が霧吹きのようにして、コーヒーをぶーっと吹き出した。つづいて孝士も、口に含んだほろ苦い汁をだばーっとマグカップに吐き出す。
困惑顔をしたふたりの口の中には、大量のコーヒーの出涸らしが残っている。孝士がガラス製のサーバーをよく見ると、褐色の液体のなかにはふわふわと黒い粒子が漂っていた。彼は急いで給湯室に戻り、コーヒーメーカーを確認する。
「あ、これフィルターがセットされてないや……」
どうやられのんは、コーヒーを濾過するペーパーフィルターを付けずにコーヒーメーカーを動かしたようだ。
「もういい……やる気なくした。おれ帰るわ」
そそくさと帰り支度をはじめる折戸。
「そうですね」
あっさり同意する孝士。
思わぬハプニング。だが、仕事を放り出して帰るよい口実ができた。
ありがとう、れのん。
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