「それ、なにやってんの?」

「それ、なにやってんの?」

 背後からの声に浮谷早苗が振り返ると、間近に覆盆子原れのんの顔があった。

 気づかなかった。いつからいたんだろう。校庭の水飲み場でしゃがんでいた早苗は、突然に現れたテニスウェア姿のれのんを見てしばらく固まった。

 腰を屈めたれのんは早苗の肩越しから彼女の手元に視線を注いでいる。いま早苗の前には木製パネルの上に載せた水彩紙があった。さっきまで、彼女はそれに刷毛で水を塗る作業をしていたのだ。

「……えっと、これは、水張りです」

「へえ。紙に水塗ると、どうなるの?」

「す、水彩画はたくさん水を使うので、そのまま描くと紙がふやけて波打つときがあるんです。だからこうやって、紙にあらかじめ水を吸わせてからパネルに貼り付けて乾かすと、歪みが抑えられます。紙の繊維が膨張した状態で固定されるというか、そんな感じです」

 動揺する早苗は、やや早口で捲し立てた。思いつくままに言葉を並べたが、理解してもらえただろうか。

「そうなんだ」

 とれのん。

 早苗はてっきり、そのままれのんが立ち去るのだと思った。しかし彼女は校庭のほうを向くと、手に持っていたペットボトルのキャップを開け、水を飲みはじめる。

 校庭のグラウンドでは陸上部の部員たちが練習に励んでいた。夏休み中の部活動。れのんはテニス部の練習に参加している途中だろう。早苗も今日は、昼から美術部の活動に顔を出しにきたのである。ほぼ毎日練習がある運動部とちがって、文化部は週に二度ほどの活動だった。

 どちらも無言の状態がつづいた。れのんは水飲み場の水道でペットボトルをゆすいでから、内を水で満たした。その彼女を横目に、早苗は手持ち無沙汰だ。

「浮谷って、美術部だったんだ」

「あ、はい」

「美術室にも水道あるよね。なんでここでやってんの?」

「ええ、そうなんですけど、あそこ狭いし、ちょっと混んでて。あと、エアコンで身体が冷えてしまったので、外でやろうかなって……」

「そっか」

 ふたたび沈黙の帳が降りる。なんとなく気詰まりを感じ、早苗は筆洗の水を意味もなく刷毛でかき混ぜたりしている。すると、れのんがまた、

「絵はいつごろから描いてるの?」

「一〇歳くらいからです。ちゃんとした技法を学びはじめたのは、中学生になってからですけど……」

「ふうん。すごいね」

 早苗は自分の顔が赤くなるのを感じた。そんなにすごいだろうか。社交辞令にしても、さすがに言い過ぎでは。

 れのんと早苗はクラスメートで席が近いため、もちろん何度か言葉を交わしたことはある。しかし、それは必要に迫られた場合だ。両者はどちらも他人に気安く話しかけるタイプではなかった。ところがどういうわけか、いまのれのんはやけにぐいぐいと詰め寄るように話しかけてくるのだ。早苗が困惑したのも当然だったろう。

「あのさ、最近どう?」

「へっ?」

 れのんの唐突かつ、曖昧模糊な問いかけに早苗は思わず聞き返した。

「いやほら、体調とか」

「体調、ですか……ふつうに良好だと思います」

「夜はちゃんと眠れてる?」

「ええまあ、ぐっすりと」

「肩、凝ったりしてない?」

「いえ、大丈夫です」

「家族の人、みんな元気?」

「はい、おかげさまで」

 なんだか医者の問診のようだ。受け答えするあいだ、ずっとまっ白な水彩紙に目を落としていた早苗は、おそるおそるれのんのほうを向いた。すると、彼女も早苗のほうを見ていた。

「あっそ。ならいいや」

 言うと、れのんのほうが先に視線を外した。そうして、じゃあねと軽く手を振ってその場を去ってゆく。甘酸っぱいデオドラントの香りを残して。

 テニスコートのほうへ歩いてゆくれのんの後ろ姿を、しゃがんだままの早苗はしばらく不思議そうに見つめていた。

 いったい、なんだったんだろう?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る