篠宮の姿が消えた。
篠宮の姿が消えた。
最初はなんらかのすれちがいかと思っていた。もともと孝士と篠宮は知り合ってから日が浅いし、毎日会う約束を交わしたわけでもない。ただの霊バン社員と幽霊という関係だ。しかし、そこが問題である。篠宮は地域巡回の対象幽霊として指定されているのだ。彼女を見失えば当然、それは孝士の不始末となる。
「針村くん、いかんなあ」
デスクに指を組んだ両手を乗せ、困り顔をした中田支社長が孝士に言った。
「ハイ……」
と孝士。円島支社の事務所内、上司の前で頭を垂れる新人社員の図。
「まだ仕事に慣れていないのもわかるが、ミスはミスだ。こう何日も確認対象の幽霊を見つけられないのがつづくと、会社としては非常に困る」
「ゴモットモデス……」
「うむ。では、この機会に話しておこう。なぜ幽霊の存在を霊界データバンクが把握しておかなければならないのか、だ」
「エエ……」
「まず幽霊とは、言ってみれば夾雑物だ。現世は生きた人間の住む場所、これはわかるね?」
「ハイ……」
「そして現世での幽霊は死者の魂であり、同時にまた、恨み辛みや執着心といった負のエネルギー体でもある。ここで厄介なのは、幽霊が成仏できずに現世で長い時間を過ごすと、その負のエネルギーがしだいに増大することなんだ」
「ヘエ……」
「負のエネルギーが増大しすぎれば、幽霊は幽霊でなくなる。妖怪、物の怪、あやかし──いろいろ呼び名はあれど、多くは人間に仇をなす存在に変化する。さらに年月を経ると、人が畏怖を感ずるほどになる場合もあるぞ。そこまでゆけば、もはや神と言ってよいだろう。人の信仰心を糧にして、より強大な力を得ることになるんだ。そうなったら、もう手がつけられん」
「ウワア……」
「ゆえに、霊界データバンクという組織があるのだ。幽霊の存在を的確に把握し、ときにはコントロールするために。手っ取り早くれのんのような霊能力者を使って、すべての幽霊を強制的に成仏させればよいと思うかもしれんが、それはまずい。霊界と人界には協定があるんだよ。霊界へは、できる限り清らかなままの魂を送らねばならぬ、というね」
「ナルホド……」
「うん。これできみにもわかったろう。じゃ、明日からまたよろしく頼むよ」
そうして中田支社長は首をのばすと折戸のほうを向いた。
「あー、それと折戸、すまんが針村くんの面倒をもう少し見てやってくれ。どうもまだひとりでは心許ないようだ」
「へーい」
自分のデスクでPCを操作していた折戸は、相も変わらずの生返事である。
その日はそれで終業となった。中田は各自を労って帰宅した。もともと彼は物腰の柔らかな男だ。が、それでもやはり上司がいなくなれば、事務所内はすうっと緊張感が解けて空気が軽くなる。
孝士はいたたまれない気持ちである。会社と、先輩である折戸に迷惑をかけてしまったという負い目が、彼を苛んでいた。
「はあ……」
ふらふらと自分のデスクまで戻り、椅子に座ると意識せずにため息が漏れた。それを見て、折戸とまだ事務所に残っていた寺石がちらりと視線を交わす。
いきなり折戸が孝士の脳天をアイアンクローで摑んだ。
「ぎゃああっ!」
折戸の五指で頭蓋骨を締めつけられ、悲鳴をあげる孝士。そうして折戸は、
「うっしゃハリソン、そんじゃちょっとおれに付き合え。な、寺石ちゃんもどう? アンディで一杯」
「うん。いいよ」
と笑顔で寺石。
それから三人は事務所の戸締まりをして夜の臼山町へと繰り出した。といっても、ここらは暗くなってからもまだ開いている店などほとんどない。彼らが向かった先は、シャッター街でしぶとく営業をつづけている一軒のバーだった。
アンディという名のその店は、いつも中年のマスターがひとりで客を出迎える。照明を控え目にした店内はアイリッシュパブ風で、うなぎの寝床のように細長い。BGMにジョン・コルトレーンのテナーサックスがゆったりと流れ、おおよそド田舎のバーとは思えない洒落た雰囲気である。
先客の姿はなかった。三人はカウンターの止まり木に座り、めいめいの飲み物を注文した。寺石はボンベイ・サファイアとレモン果汁をシェイクし、それにシャンパンを加えたフレンチ75。折戸はミントの葉を浸したラムベースのモヒート。孝士はポンジュースだ。
マスターの安藤は注文の品を手際よく用意すると、カウンターの奥にひっこんでグラスを磨きにかかった。そこには小さなテレビが置いてあり、彼はプロ野球の中継に見入っている。店の経営には関心がないのか、それとも客に安らぎの空間を提供するのに徹しているのか。
「んで、どんな幽霊だ? ハリソンを手こずらせてるってのは」
折戸は言うと、手にしたグラスの透明な液体をすすった。
「えっと、篠宮さんていう幽霊になったばかりの女性なんですけど、どうやら生前に交際していた恋人のことが忘れられないみたいで……」
「ははあ、そういうパターンね。あるある」
折戸のは一を聞いて十を知るといった口ぶりだった。孝士の隣にいる寺石も、うんうんと肯いている。
「死に別れて幽霊になるケース、多いよね。それで、その篠宮さんのお相手だった人は、誰だかわかってるの?」
「ええ。隣町の大学に通ってる学生です」
孝士が寺石にそう答えると、折戸は拍子抜けしたように鼻を鳴らした。
「なんだ、簡単じゃねえか。じゃあ、そいつにテキトーなこと言って花でも持たせて、元恋人の墓にお参りさせりゃ一発で成仏よ。彼、まだわたしのこと忘れてなかった、愛してくれてた~ってな」
「いや、そうもいかないんですよ。順を追って話すと、まずその大学生、篠宮さんが亡くなってすぐに新しい恋人を作ったようなんです」
「おいおいマジでか」
「はい。で、篠宮さんもそれを知ってしまったようで、以来どこにも行方が知れなくなったんです」
「あー、そりゃまずい。まずいわ~、いひひ」
下品に笑う折戸は、他人のこじれた色恋沙汰がおもしろくて仕方ないといった様子だ。寺石がそれをあきれた顔で窘める。
「もう、折戸くんたら」
孝士は力なく笑った。最近は折戸のおちゃらけた態度にもずいぶん慣れてきた。
「たびたび霊子センサーに反応はあるんです。けど、反応が弱くてルートナビでも正確な場所を特定できなくて。ぼく、どうしていいのやら……」
「霊子センサーの反応が弱いのか。じゃあ篠宮さん、迷ってるみたいね」
と寺石。
「そうなんですか?」
「うん。霊子センサーは幽霊の負のエネルギーパターンを探知するの。それが弱いってことは、おそらくいま篠宮さんのなかで、彼を許せない気持ちと、もうあきらめようっていうのがせめぎ合ってる状態なんじゃないかしら」
「じゃあ、そのまま自然に成仏してくれる可能性もあると?」
「もしそうなら、いちばんいいんだけどね」
「ですね。幽霊のままでずっと苦しむなんて、気の毒だし」
孝士は篠宮のことを思って心を痛めた。死んでなお永遠に愛憎の念で苦悶するなど、それはひどい拷問だ。
「にしても──」
ふと、傷だらけなカウンターの天板に頬杖をついて寺石が言った。
「元彼の人、篠宮さんが亡くなってからつぎの恋人に移るまで、ちょっとはやくない? わたし、そこが納得いかない」
「男女の仲ができちまったもんはしょうがねえよ。死んだ相手に操を立てろって法律があるわけでもなし」
言ったのは折戸だ。彼はスーツの胸ポケットから取り出したたばこに火を点けると、カウンターの遠くにあった灰皿へ手をのばして近くに寄せた。
「やだあ、折戸くんの恋愛観て冷めすぎ」
「お、寺石ちゃん、意外と夢見る乙女?」
「そうじゃないけど、男とか女とか関係なく、やっぱり自分がいなくなってからでも愛を貫いてほしいっていうのは、誰にだってあるでしょ」
「おれにはねえなあ。言ってみりゃ、誰も彼も自分勝手なんだよ。んでもって、男はみんな粗野でスケベ。女は独占欲と虚栄心の塊。これ、揺るぎのない真理だから」
「それを包み隠すのが恋心なの! きみ、ひねくれすぎよ」
と、ぷんぷんしながらカクテルを呷る寺石。それを折戸はたのしげに眺めている。ふたりのあいだにいた孝士は苦笑いを浮かべるしかない。
「ま、なんにせよ、こりゃまたれのんの出番かねえ」
その折戸の言葉に孝士は表情を硬くした。
「まさか。篠宮さんが要対処になるわけないですよ……」
「だといいけどな。この一件、どう転ぶかわかんねえぞ」
折戸は灰皿にたばこの灰を落とした。そうして、
「あとなハリソン、おまえ、こういうのすぐに相談しろよ」
「え?」
「え、じゃないの。ひとりで抱え込んでヘタ打つのがいちばんだめなんだよ。おれっていう頼りになる先輩がすぐ近くにおいでなさるんだから、いつでも泣きついてこいっつーの」
思わず、孝士は言葉に詰まった。
「……あ、はい」
あったけえ。まさか、折戸がこんな一面を持っていたとは。孝士は折戸と知り合ってから、はじめて彼のまともな部分を垣間見た気がした。
結局、篠宮の件で有意義な解決案は出なかった。しかし折戸と寺石は、孝士にできるだけ協力すると約束してくれた。孝士も仕事仲間に話したことで、背負っていた重い荷物がいくらか軽くなったようだ。
その夜、孝士はふたりの先輩が向けてくれた心馳せに感謝した。これならきっと、なんとかなる。そう思っていた。
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