あのとき以来、篠宮は

 あのとき以来、篠宮は高台へ頻繁に姿を見せるようになった。

 霊界データバンクは業務上の権限として、地域住民の戸籍データや住民基本台帳にアクセスすることを許されている。円島支社で事務を担当する寺石麻里がまとめてくれた情報によると、篠宮は地元出身の二三歳。短大を卒業後、郵便局に勤務。一週間ほど前に病死したのだとわかった。

 後日、正式に霊界データバンクの巡回チェック対象に指定されたため、必然的に孝士と篠宮は顔見知りとなった。

 その日の夕方も、孝士はチェックエリアのいちばん最後となる高台までやってきた。階段を登り、いつものように草の上で座り込んでいる篠宮のほうへ歩いてゆくと、声をかける前に彼女が気づいた。

「あ、針村さん」

「こんにちは」

 ぺこりと頭をさげる孝士へ篠宮が笑いかける。どこか翳りのある笑顔。そう見えてしまうのは、やはり彼女が幽霊だからだろうか。

 相変わらず篠宮はこの世に残している未練のことを明かしてくれない。ふたりが顔を合わせて話す内容といえば、天気や地元の話題など。ご近所どうしの挨拶のようなものだ。今日もそうして、ふたりは他愛のない会話を交わしている。と、急に篠宮がぽんと胸の前で手を合わせた。

「あっ、そうだ。わたし、すごいことに気づいちゃいました」

「なんです?」

「ふふ、見ててください」

 言うと篠宮は立ちあがった。肘を曲げた両腕を胸の前に持ってきた彼女は目を閉じ、念ずるように唸りはじめる。するとまもなく、篠宮の身体がふわりと宙に浮いた。

「おおう!」

「どう、すごいでしょ。このままどこへだっていけるんですよ」

「便利だなあ~」

 空中を綿毛のように漂う篠宮を見て、孝士はちょっとうらやましいと思ってしまう。

 が、そのうち──

 篠宮がくるくると回転しながら上昇をはじめた。それと同時に彼女のスカートがまるで傘のように開いてゆくのに、孝士はどきりとなる。

 うおっ、まずいですよ篠宮さん! このままだと見え、見え──しかし残念。これはきたと思える決定的な瞬間、孝士の目はいきなり夕陽に眩まされてしまった。

 閉じた瞼をふたたび開くと、篠宮が宙に浮いたまま、じっと動かないでいるのが見えた。首を大きくのけぞらせて、彼女は薄暮れた空の高いところを見あげていた。茜色の光で透けて見えるその姿は、ひどく幻想的だ。

「ねえ針村さん、わたしこのままずうっと空の上まで登ったら……天国にいっちゃうのかな?」

「ええっと、たぶん天国の前に、まず輪廻管理センターへいくことになると思います。死後の魂は、とりあえずそこで霊界での対応が決められるみたいだから」

「輪廻管理センター? そういうのがあるんですか」

「はい。三途の川にある、あの世の役場みたいなところかな」

 それを聞いた篠宮は片方の掌を頬にあてて、小首を傾げる。

「なんかあの世って、思ってたのとちがう」

「ほんとに」

 つくづく孝士も同意である。自分も実際に見てきた三途の川のタクシーや、輪廻管理センターの簾頭鬼のことを思い出し、彼は苦笑いした。

 風が涼しくなってきた。今日はいつもより話し込んでしまったようだ。そろそろ帰ろうかと腰をあげかけた孝士だったが、彼はふと思いついて口を開いた。

「あの、篠宮さん、ひとつ教えてもらっていいですか──」

 そう前置きして孝士が篠宮に訊ねたのは、以前から気になっていたことだ。

「幽霊になるって、どんな感じなんですか?」

 すると宙に浮く篠宮はしばらく考え込んだ。そして、

「やはり、生きているときとは変わったところがあります。いちばん感じるのは、時間の感覚がなくなったことかな。あと、暑いとか寒いとか、おなかが減るとかもなくなりました。ほかには、生きているときにあった、いろんなことへの興味が薄れたというか。でもわたし、ひとつだけ心残りがあって──」

 あてもなく視線をさ迷わせていた篠宮は、そこでふいに言葉を切った。それから、すとんと落ちるように地面へ降り立った。

 篠宮は茫然自失といった様子で立ち尽くしている。どこかの一点を見つめて。

 不審に思った孝士は篠宮の視線の先を目で追った。高台の下にある通りの歩道だ。ひと組の男女が並んで歩いている。大学生くらいの男性と、円島女子商業高校の制服を着た女の子。

「篠宮さん、どうかした?」

 孝士が声をかけたものの、篠宮はすぐに応えない。いくらかの沈黙のあと、

「わたし、今日はこれで──」

 つぶやくように言った篠宮はまた宙に浮かぶと、そのまま孝士の頭上を越えてどこかへいってしまった。

 急用でも思い出したのだろうか。違和感をおぼえる孝士だったが、ここにひとりでいても仕方がない。自分も帰ることにした。階段を降り、高台の下に置いた自転車のところまで戻る。

「ハーリソン」

 突然、誰かに名前を呼ばれた。いやそれは名前というか、あだ名だったが。

 孝士が声のした背後を振り返ると、そこにいたのは覆盆子原れのんだった。

「あれ、覆盆子原さん……」

「キモッ! それやめてよね。れのんでいいって何回も言ったでしょ」

 顔を歪めたれのんが心底いやそうに言った。孝士としてはいちおう霊界データバンクの先輩にあたるのでさんづけしているのだが、彼女はそれが気に入らないようだ。

「わ、わかったよ。つぎから気をつける。──そういえば、さっき誰かといっしょにここ歩いてなかった? 上から見えたんだけど」

 孝士は高台の上にいたときに見た男女を思い出して、れのんに訊いた。遠目だったが、女の子のほうはれのんとおなじ円商の制服を着ていたはずだ。

「んーん。あたし、ずっとひとりだったよ」

 れのんが首を横に振ると、彼女のポニーテールもふるふると左右に揺れた。

「そっか。で、なにやってるの。帰り道だっけ、ここ?」

「ちがうけど、あたしは放課後の時間があるときに臼山町のいろんなとこ回ってるの。新しい幽霊がいないかのチェック」

 言うと、れのんは孝士に自分のスマホを見せた。そのディスプレイにはルートナビの画面が映っている。どうやら彼女のスマホにも霊バンのアプリが入っているようだ。

 バイトとはいえ、仕事熱心なれのんに孝士は感心した。しかしそれには理由がある。というのも、彼女は出来高払制で中田支社長に個人的に雇われている。つまり霊バンに関する仕事を一件片づけるごとに、伯父である中田支社長からお小遣いがもらえるシステムになっているのだ。ゆえに、固定給の孝士と比較すれば仕事へ向ける熱意がちがうのも当然なのだった。

「それよかさ、見てたよ。さっきの」

 れのんは言いつつ、横手の高台を見あげた。

「ああ、篠宮さんのこと?」

「ずいぶん話し込んでたね」

「うん。あの人つい最近、幽霊になったんだ。まだ自分でも戸惑ってる感じだったな」

「ふうん。なんで幽霊になったの?」

「それがわからないんだ。訊いても教えてくれないし」

「まずいじゃん、それ──」

 れのんは表情を曇らせた。

「ちゃんと幽霊がこの世に残してる未練を把握しとかないと、こっちは対応のしようがないんだよ、わかってんの? 放置なんかすればあとが恐いよ。ほかにもチェックエリアどんどん増えてくんだから。自分の首絞めることになる前に、なんとかしないと」

「いや、そりゃわかってますけどお……」

 年下の女子高生に軽く説教をくらい、しょげる孝士。

「自分で無理なら折戸っちにヘルプ頼みなよ。ああ見えて霊バンの仕事長いし、要領いいんだから、あの人」

「だよなあ」

 しかし、正直めんどくさいのである。霊バンの仕事は意外にきつい。そもそも孝士自身、この仕事に望んで就いたわけではなかった。たしかに給料のほうは申し分ない。とはいえ、やはりやりがいの感じられない仕事には身が入らないのだ。プラス、もちろん孝士が無精者であるということも大きかったが。

 ──いやまあ、それもあと二カ月半の辛抱だ。

 孝士はそう思って、気を取り直した。

 もうあたりには夕闇が迫りつつあった。とりあえず、帰ろう。そうして孝士が自転車のワイヤーロックを外し、跨がろうとしたとき、ふと通りの向こうのコンビニに目がいった。ちょうど店の出入口から買い物を終えた客が出てきたところだ。それは先ほど篠宮の様子がおかしくなったとき、彼女が見つめていた男女である。

 孝士は思わず動きを止めてふたりを注視した。

「あのふたり──」

「なに、どしたの?」

 とれのん。彼女も車道を挟んだ反対側の歩道を歩くふたりに気づいた。すると、

「あれ、里保だ」

「知り合いなの?」

「うん。一年のときにいっしょのクラスだった子」

 自分とおなじ制服を着ている少女を見ながら、れのんは意外そうな顔をした。

「へえ。あんな年上と付き合ってるんだ」

「えっ、あれってカップル?」

「見りゃわかんでしょ……」

 孝士のあまりの鈍さに、れのんは信じられないといった目を向ける。

 言われてみれば、ふたりは必要以上に身体を密着させて歩いていた。時折、制服姿の少女が甘えた感じで男性の肩に頭を押しつけたりしている。あの親密さはどう見ても男と女の関係だろう。孝士とは無縁の世界だ。

 そのうちふたりは丁字路になっている交差点を曲がって姿が見えなくなった。

 孝士は車道を横切って交差点まで走った。れのんも何事かとそれにつづく。

 孝士とれのんは交差点の角で身を隠して、先の様子を窺った。あのふたりは少し進んだ先にある三階建てのマンションへと入っていった。しばらく待っていると、二階にある部屋の窓に明かりが点いた。

「あそこに住んでるのか……」

「ねえ、なんなの?」

 れのんが訊いたものの、沈思する孝士の耳には届いていないようだ。

 孝士はマンションのすぐ近くまでくると首を回して後ろを顧みた。マンションに面した道路は幅が広く、そこからは高台がよく見える。ということは、向こうからもこちらが見えやすい。

 想像でしかなかったが、もしかしたら篠宮は毎日、高台からこのマンションを見ていたのではないか。そして今日、彼女の様子が急変したのは、さっきのふたりを見た直後だった。

 こうなってくると鈍い孝士でも予想はつく。篠宮の心残り──幽霊になった原因は、たぶんこのマンションに住んでいる男性だ。

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