終章・四回目の春

「あれ? 一夏」

 朝の通学電車の中で遭遇したのは、高校生になった晴樹だった。腹立たしいほど身長が伸びて、一瞬、誰だか分からなかった。

「晴樹! 久しぶり!」

 空いている隣の席をぽんぽん叩いて座るよう促す。

「住所を教えとけばよかったね。手紙、出したかったよ」

 晴樹は私の隣に座り、声変わりした声で返した。

「一夏が佳代子さんから俺んちの住所聞いてくれればよかったんだよ」

「あ、そっか」

 隣に腰掛けた晴樹をまじまじ観察した。

「晴樹、こっちの学校通うんだね」

「地元に高校ないからな。兄貴の大学もこっちだし、ちょうどいいから」

「じゃ、今は健太お兄さんとふたり暮らし? 喧嘩してない?」

「たまに」

「なんか、よりお兄さんに似てきたね」

「やだなあ」

 晴樹が苦笑する。言葉の端々のイントネーションが月十蒔里訛りで、なんだか懐かしい。

「これからこの電車で通うの?」

「いや、部活の朝練が始まったら、もう少し早くなる」

「なんだ、一緒に登校できると思ったのに。私も合わせて早起きしようかな」

「やめとけ、一夏には起きられない時間だから」

 毒づいてから、晴樹は鞄に頬杖をついた。

「佳代子さん、元気?」

「うん、時々親戚の集まりで会ってる。元気。まだまだ妖怪を信じてるよ」

 おばあちゃんは、伯母さんの家で相変わらずらしい。

「明奈ちゃんは元気にしてる?」

「うん。でもちょっと生意気になってきて、俺が世話を焼こうとすると『お兄ちゃん面倒くさい』なんて言うようになった」

「あんなにお兄ちゃんっ子だったのに。でもそうだよね、明奈ちゃんも、もうそんなに子供じゃないんだよね」

 晴樹と話していると、あのときの思い出が蘇ってくる。記憶の片隅に薄ぼんやりと、茶色い後ろ頭が見える。

 ……懐かしいなあ。

「月十蒔里ってさ、化け狐の伝説あったじゃん?」

 ぽつっと言うと、晴樹はああ、と頷いた。

「なんか調べてたよな。狐の呼坂とか」

 晴樹はもう、覚えていない。

「佳代子さんが妖怪大好きだから、資料がたくさんあったんだよな。明奈も一緒に三人で、本棚見せてもらったよな」

“三人で”と聞いて、余計に実感した。本当に、忘れちゃったんだ。

「狐といえばさ。月十蒔祭の趣旨が、この頃変わってきてるんだ。狐と仲良くっていうか……そこそこ上手くやってくために、お揚げの屋台が出たりとか。本当は狐を祓う神社だったのにな。狐が嫌いだった村の住民も、なんだかんだで楽しんでる」

「へえ。でもその方がいいかもね。狐もきっと喜んでるよ」

 もしかしたら、あの白い大きな狐もご満悦かもしれない。

「ところで……一夏、それなに? そのボロ布は」

 晴樹が私の鞄に結びつけた手ぬぐいを怪訝な顔で見ている。

「なんでそんなの、つけてんの?」

「ほら、実は見えなくなっちゃっただけで、本当はまだ近くにいるとしたら、これを見たら取り返しに来るかもしれないでしょ」

 私は手ぬぐいの端を、指ですりすりと撫でた。


 時々、声を思い出せなくなる。

 そういうときは、この手ぬぐいを触ってみるのだ。ここにこれがあれば、あの夏の出来事は夢ではなかったのだと実感できる。

 水彩絵の具で描いた宿題の絵は、もうすっかり色褪せてしまった。でも、彼が見ていないところで、こっそりふたりの手を握らせたのをしっかり覚えている。


「取り返しに来るって……誰がだよ?」

 晴樹が不思議そうに問う。その反応が面白くて、なんだか笑えてきた。

「狐が!」

「はあ?」

 鞄のポケットには、鉛筆が入っている。

 これは、私があいつを大好きだった証。

 傍にいてほしくて、あげた。

 あいつが私に触れたいと思うとき、差し出してきてくれた。

 私はまだ、忘れていない。

 君が好きだったトウモロコシの味も、ふたりで作ったでたらめな星座も、私に触れた体温も。

 私がどんなにバカでも忘れない。絶対に忘れてなんかやらない。

 記憶の片隅にたしかに残る、あの里の晴れやかな景色のような瞳を思い出す。

 晴樹はまだ首を傾げていたが、やがて、ふっと笑った。

「なんか一夏、佳代子さんに似てきたな」


 おばあちゃんが言っていた。大好きな人というのは、いつでも傍にいてくれるそうだ。

 会いたいときは、胸の中に思い出す。そしたら、いつでも笑顔で会いに来てくれる。

 その笑顔を覚えている限り、いつまでも。


 春めいた風が遠い里から吹いてくる。

 目を瞑ると今でも、あの夏に帰れる気がした。

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