狐の呼坂

 月十蒔祭を控えた、最後の土曜日の午後のことだ。まだお祭の時間まで一時間近くあるのに、おばあちゃんが浴衣を持ってきた。

「一夏。浴衣着ようよ、浴衣」

「ええ、もう?」

 歌うように言いながら近寄ってくるおばあちゃんに、私は体を強ばらせた。おばあちゃんは一昨日くらいから私に浴衣を着せたがってうずうずしているのだ。

「まだお祭まで時間あるのに。めちゃくちゃ張り切ってるみたいで恥ずかしい」

「いいじゃない、めちゃくちゃ張り切れば。ほら着ようよ。一夏の浴衣姿を見られるの、おばあちゃん楽しみにしてたのよ」

 おばあちゃんの手の上に、夕焼け空のような鮮やかな赤の浴衣がきれいに畳まれていた。白い小花が散りばめられた、かわいらしいデザインである。この夏、私がここへやってくると決まってすぐ、おばあちゃんが知り合いの呉服屋さんで買ってきたのだという。

 私はまだ恥ずかしくて渋っているというのに、おばあちゃんは私のTシャツをスポンと脱がせた。

「わあっ!」

「はい、これを羽織って」

 赤い生地が私の体を包む。おばあちゃんは畳んであった黄色の帯を私の腰に巻き付けてぎゅっと縛った。

 浴衣の色も帯の色も、すごくかわいい。でも、お転婆な私にはお淑やかな格好は似合わない気がして、もじもじしてしまう。

「はい、出来上がり。うん、やっぱり私の見立ては間違ってなかった」

 おばあちゃんは満足げだ。私はしどろもどろにお礼を言う。

「あ、ありがとう」

「これならヨウも、かわいいって褒めてくれるわよ」

「えっ!? なんで……」

 突然名前を出されて、私は咄嗟に変な声を出した。と、そこへ、玄関から私を呼ぶ声がした。晴樹と明奈ちゃんが遊びに来たのだ。

 浴衣姿で出ていくのが恥ずかしくて、廊下に顔だけ覗かせる。すると、玄関先にいた甚兵衛姿の晴樹とピンクの浴衣の明奈ちゃんが目に入った。

「あっ! ふたりも着替えたんだ!」

 私は自分が似合っていないのが恥ずかしかったのも忘れ、勢いよく飛び出した。

「似合うね!」

 駆け寄る私に、明奈ちゃんが微笑む。

「一夏ちゃんもかわいいよ」

「はっ……」

 急に恥ずかしくなった私は、自分の格好を見て硬直した。晴樹が私の浴衣を見つつ言う。

「ヨウも着替えてくるのかな……あ、そっか」

 途中まで言いかけて、彼ははたと思い出した。

「あいつは祭には来ないんだったな」

「うん」

「一夏どころかヨウまで、また引越しちゃうなんてな」

 晴樹と明奈ちゃんにも、ヨウがいなくなってしまうと説明をした。ただし妖怪だからとか、そういうのは隠している。晴樹はちょっと残念そうに宙を仰いだ。

「今日の祭の前には引越しの準備しなくちゃならないんだっけ」

「……うん」

 夕方から始まる月十蒔祭の頃には、ヨウはここを出ていく。せめてお祭は一緒に行きたかったな、なんて、未だに思っている。

 そこへ、今度は庭の方から、私を呼ぶ声がした。

「イチカー!」

 まさに話題に上がっていたヨウである。

「なんか面白い格好してるんだってー? 見せろよー!」

 なにやらおばあちゃんに吹き込まれたみたいだ。そしておばあちゃんまで私を呼ぶ。

「一夏、ほら、ヨウに見せてあげて」

 わざわざそう言われて、急激に緊張した。

 笑われちゃうだろうか。意外と褒めてくれたりしないかな。ちょっと想像してみると、余計に恥ずかしくなった。

 開きっぱなしの引き戸から、そっと部屋に入る。ヨウは庭にいて、縁側に膝をついていた。

 そして私を見るなり、一瞬固まった。

 ヨウの視線が真っ直ぐ、私に注がれている。慣れない恰好が恥ずかしくて、私は彼の方を見られなかった。おばあちゃんは、可笑しそうに微笑んでいる。

 微妙な沈黙に耐えきれず、私から口を開いた。

「おユキ!」

「へっ!?」

 ヨウがびくっと肩を弾ませた。私は黄色い帯の腰に手を当て、仁王立ちした。

「ほら、ヨウはすぐ私とおユキさんを間違えるから。こうしてお淑やかにしてると、一層似てるんじゃない?」

 半ば照れ隠しで早口に言うと、ヨウは、ふはっと吹き出した。

「全然似てねえ。おユキはもっと上品なんだよ」

「なんだとー!」

 私が怒って縁側へ飛び出すと、ヨウは可笑しそうにけらけらと笑い、庭へと飛び退いた。サンダルを突っかけてヨウを追い回していると、晴樹と明奈ちゃんも部屋に入ってきた。明奈ちゃんが苦笑する。

「一夏ちゃん、折角おしゃれしたのに着崩れちゃうよ」

 それを横目に、おばあちゃんが満足そうな顔をした。

「ふふっ、いいのよ。崩れちゃったらまた直してあげるから、好きなだけ遊びなさいな。さて、スイカでも持ってくるわね」

 おばあちゃんはにこにこしながら部屋を出ていった。走り回っていたヨウが、息を切らしながら縁側に座る。私も、追いかけるのをやめて隣に座った。と、ヨウはそろりと、ひそひそ声をかけてきた。

「イチカ、その……」

 私が振り向くと、話かけたのはヨウの方のくせに、彼は慌てて顔を背けた。

「その、えっと。思ってたより、面白くないぞ」

「こら!」

 私は思わず吹き出した。 もしかして精一杯に照れ隠しをして、精一杯に褒めてくれたのだろうか。嬉しいやら恥ずかしいやらで、私は顔がほかほかと火照ってしまった。

 今こんなに近くにいるヨウがいなくなってしまうなんて、想像できない。想像したくもなかった。

 いつの間にか、ヨウはこんなにも、私の心の中で大きな存在になっていた。


 *


 晴樹と明奈ちゃんも加わって、四人で縁側に座り、おばあちゃんが出してくれたスイカを食べる。日が暮れるのが遅いのでまだまだ空は明るいけれど、お祭が始まるまであと十五分足らずだ。

「さてと、俺はそろそろ行くかな」

 ヨウがスイカの皮をお皿に置き、伸びをした。

「じゃあ、またな」

「うん。また遊ぼうね」

 いつもどおり、ブロック塀を乗り越えるヨウの後ろ姿を見送る。なんだか、これで最後なんておかしい気がする。

「ねえヨウ、もうちょっと話さない?」

 塀にしゃがんでいたヨウに声をかけると、くるっと顔だけ振り向いた。

「なにを?」

「なにをって。しばらく会えないんだよ」

 しばらくなんて、優しいものではない。本当は、晴樹と明奈ちゃんは、これを最後にヨウのことを忘れてしまう。

 もしかしたら、有り得ないとは思うけれど、私も忘れてしまうかもしれない。

 ヨウはこちらに体を向けて、ぷらんと脚を投げ出して座った。

「ばいばいなんて言ったら、本当に最後みたいじゃん」

 本当に最後なんでしょ、と、私は目で訴えた。が、ヨウは気づかないふりをした。

「じゃあな。カヨコによろしく。あとキジコも」

 無造作に手をひらひらさせて、ヨウはぴょんっと、ブロック塀を越えていった。

「また絶対遊ぼうね!」

 私は半ば叫ぶように、塀の向こうに声を投げた。ヨウの明るい返事が返ってくる。

「おー」

 それ以降、声はしなくなった。辛気くさい話はしないで、しれっといなくなる。あいつらしいといえば、あいつらしい。

 ヨウがいなくなって、妙な沈黙が縁側を包んだ。不思議と悲しい空気ではない。晴樹は無表情、明奈ちゃんも、泣いていない。ただ、胸にぽっかり穴が開いてしまって、異様に風通しがいいのだ。

 初めて味わう感覚だ。私の知っている言葉では言い表せない。

 私はスイカの皮に目を落とした。

「いなくなっちゃったけど、なんだか、あいつ明日また来そうな感じがするよね」

 あまりにも普段どおりだから、もう会えない実感がわかない。

「明日ってさ……」

 明奈ちゃんがか細い声を出した。

「一夏ちゃん、帰っちゃうんだよね」

「うん、朝になったら帰る」

 その実感も、まだ湧いていない。

 ヨウがいなくなって、もう会えなくて、私も、もうここには戻ってこない。奇跡のようだったこの夏は、もう二度と来ない。

 だめだ、考えると寂しくなる。私は自分の頬を叩いて、にこっと笑顔を作った。

「だから今日は思い切り遊ぼ。お祭の案内、お願いね」

「そうだね。すっごく混むからはぐれないようにね」

 明奈ちゃんも、にっこり笑った。


 *


 お祭の開始時刻に合わせて、神社へ向かった。

 明奈ちゃんの言っていたとおり、人で溢れかえっている。メイン会場は石段をのぼった先だそうだが、石段の下でも出店が並んでおり、やきそばのいい匂いがする。木から木へと提灯が繋がれて、お祭らしい空気を演出していた。

「すごい人出だね。この里、こんなにたくさん人がいたんだ」

「一大イベントだからな。山の麓の市から遊びに来る人たちもいるんだ」

 晴樹が私に説明し、それから人混みに呑まれて遠くへ行きかけた明奈ちゃんを慌てて引っ張った。

「迷子になるなよ。言ってるそばから明奈、気をつけて。ああもう、帯が崩れる」

「大丈夫だよ。お兄ちゃん、気にしすぎ」

 他愛もないやりとりをするふたりを横目に、私はキョロキョロと屋台ののぼりを確認した。大きな木の下にかき氷の屋台を発見する。

「かき氷食べたい! 買ってくる!」

「一夏、はぐれるから!」

 駆け出そうとした私の腕を晴樹が掴む。これだけ人が多いと、たしかにはぐれてしまいそうだ。

「かき氷ください」

 お隣のご両親が営むかき氷の屋台を覗き込む。すると、おばあちゃんの声がした。

「一夏」

 お隣のご両親がかき氷を売る横で、おばあちゃんが近所の人と一緒にラムネを売っていた。

「おばあちゃんはお仕事してたんだ。手伝うことがあったら呼んでね」

「なに言ってるの! 一夏は遊ぶのがお仕事よ」

 おばあちゃんは気さくに笑って、人数分のかき氷とラムネを買ってくれた。

 メロン味のかき氷をさくさくつつきながら、石段を上った。石段にも人がたくさんいる。のぼる人、おりる人、座って食事をしている人もいれば景色を眺めている人もいる。

 なんだか、変な感じだ。いつもは人なんかいなくて、自由に駆けっこができていた石段がにこんなに人が集まっている。なんだか秘密基地が見つかってしまったような気持ちだ。

 神社に遊びに来た日が、頭の中に浮かんでくる。誰がいちばんに上まで行くか競走した。私が優勝して、ヨウと晴樹が競って、明奈ちゃんがゆっくりとしんがりをつとめる。そうだ。いつもならここに、ヨウがいた。

 晴樹がラムネの瓶を掲げた。

「ラムネの中のビー玉ってさ、兄貴に聞いてみたんだけど、取り出すにはやっぱり瓶を割るしかないみたい。取れるタイプのも売ってるらしいけど」

 夕焼けの光を浴びたラムネの瓶は、青とも赤ともつかない不思議な色をしていた。中でビー玉がコロコロ、静かに回転する。

 かき氷をひと口含む。甘いシロップが、舌の上でじわりと溶ける。そういえば、ヨウがいきなり現れてアイスを横取りしに来たとき、メロン味を食べていたな、などとぼんやり思い出した。ストローでできたスプーンをカップに突き刺す。トン、とカップの底を叩く音がした。見ると、もう残りひと口分しか残っていない。

 やけに長く感じた石段をのぼりきると、普段はなにもない参道に屋台が出て、こちらも人がたくさんいた。

 少しでも目を離すと、小学生なんて大人の背丈に飲まれて見えなくなってしまう。はぐれないように晴樹の肩掛け鞄と明奈ちゃんの手提げ鞄を握ろうとしたときだった。

「あ、太一だ」

 晴樹が射撃の屋台の前でこちらに手を振る少年に気がついた。晴樹の友達だ。

「晴樹、来て来て」

 呼び寄せられて、晴樹はちらと私と明奈ちゃんを不安気に見た。

「ちょっと行ってくる。花火までには戻るから」

 晴樹がぱたぱた離れていく。私は人混みに消える晴樹をしばし見ていたが、明奈ちゃんに向き直った。

「かき氷のカップ、片付けようか」

 明奈ちゃんの手からイチゴの香りのするカップを取り、自分のカップを重ね、近くの屋台のゴミ袋に入れる。

 片手に握ったラムネ瓶の中で、玉がコロコロ音を立てる。提灯の光を受けて、きらきらしていた。

「さて、明奈ちゃん。次はなにを食べる?」

 明奈ちゃんの方を振り向いて、あれ、と見回す。いつの間にか、明奈ちゃんの姿は人混みに呑まれて消えていたのだ。

「明奈ちゃーん、どこ?」

 名前を呼びながら明奈ちゃんを捜すも、私は人混みに押し出され、境内の隅っこまで追いやられた。ツゲの植え込みに、浴衣の帯が触れる。

 賑やかな神社も、出店のない端の方は薄暗い。ひとりになってしまった私は、賑やかな景色を遠巻きに眺めていた。

 そこへ、私の名前を呼ぶ声がした。

「イチカ」

 背後からの声に、ハッと振り返った。

「晴……じゃない、え」

 植え込みから顔を出して、手招きしていたのは。

 茶色い髪に、黒い上着。鳶色で緑色の、不思議な瞳。

「ヨウ!? なんでここに?」

「イチカ、ちょっとこっち来て」

 旅に出たはずのヨウが、植え込みの向こうの木の陰にしゃがんでいる。私は浴衣が汚れるのも気にせず、植え込みを越えて、ヨウのいる方へ飛び込んだ。

「なにやってるの、もう出ていったんじゃなかったの?」

「そんな冷たいこと言うなよ」

 しゃがんでしまうと、植え込みの影になって自分の姿は向こうからは見えない。提灯が飾られた木の下に丸くなっているヨウは、術が解けかけているのか、尻尾がはみ出していた。

「どうしてまだいるの」

「忘れ物した!」

「ええ? だらしないなあ。どこに? おばあちゃんち?」

 取りに行きたいから鍵を貸せとか言うのだろう。しかしヨウは首を振った。

「違う、ここに」

「ここ? 神社?」

「違う」

 なんだか言い出しにくそうに、首をぶんぶん振る。

「イチカに」

「私に?」

 どきん、胸の音がした。

「辛気くさいのが嫌で、ばいばいなんて言わないとか、言ったけどさ。イチカは分かってるんだもんな、最後になるの」

 鳶色のような緑色のような、変わった色の瞳が私を映す。

「どうしたって、イチカは俺のこと忘れちゃうんだから」

「や、やめてよ。忘れないよ……?」

「仮に覚えててくれたとしても、また会えるって約束できない。だから」

 大きな瞳が真っ直ぐ、私を見つめる。

「今ちゃんと言っとかないと、絶対、後悔するんだ」

 お祭の喧騒がすぐ脇から聞こえる。賑やかな笑い声と売り子の呼び声が混ざり合う。

「おユキにお礼言えなくて、後悔したから。もうあんなの、一回でたくさんだ」

 ニッと笑った笑顔は、あまりにいつもどおりだった。

「一緒におユキを捜してくれて、ありがとう」

 いつもどおりだけれど、その瞳が酷く懐かしい。

「それから、鉛筆をくれて。おいしいものいろいろ教えてくれて、あとハルキとアキナも面白かったし、それから、それから」

「いいよもう。いいよ……」

 私はうわ言みたいに呟いた。

 やめて。目の前にいるのはやめて。お別れを実感させないで。

「もういいから……お祓い、されちゃうよ」

「大丈夫だよ、こんなのただの縁日だよ」

「もういいから! 早くどっか行ってよ!」

 私は声を裏返して怒鳴った。怒鳴ったけれど、お祭の喧騒の中では全然響かなかった。

 このままじゃ、泣いちゃう。

「ヨウは私なんかいなくても平気かもしれないけど、私は全然平気じゃないんだよ」

 は、と息を吸い直す。

「わがままなのは分かってる。でもヨウとお別れなんて我慢できないの」

「仕方ないだろ、理なんだから」

 ヨウが気だるそうに言い返してきた。ざわざわするお祭の音に飲まれてしまうような、小さな声だった。

「なんでヨウは……平気なの……?」

 お祭の騒ぎ声が遠のいて聞こえる。

「私は平気じゃないよ。このままなんて、嫌だよ」

 目の前のヨウを見ていられなくて、地面に視線を落とした。手ぬぐいの巻かれた足だけが視界の端に入る。

「そうやってそこにいるだけで、手を繋いでもくれない」

 喧騒の中に消えるくらいの、小さな声で言った。

 数秒の沈黙。そして。

 ふわ、と体が温かいものに包まれた。

「……え?」

 今、私の頬に触れているのはヨウの髪で、唇に触れているのは、ヨウの肩。背中の温かいものは、ヨウの手のひら。

 自分の体がヨウの腕の中に抱き寄せられていたことに気づくまで、数秒かかった。

 手からラムネの瓶が滑り落ちる。草の生えた柔らかい土に、とさ、と音がした。

「……だめだよ、私に触ったら……」

「うるさいな。黙ってろよ」

 声が、すごく近い。耳が擽ったいくらい、すぐ近くで声がする。

 心臓が苦しい。息ができなくなる。

「触ったらだめだよ、ヨウ……」

 ラムネのビー玉は、瓶を割らないと手に入れられない。

 急に今、そんなことを思い出した。

「だめ……。本当に最後になっちゃう……」

 こらえていた涙が、ぽろ、とヨウのパーカーに落ちた。

 ヨウの髪が柔らかいことを、初めて知った。

 ヨウの体は、少しだけ獣くさくて、少しだけ砂っぽくて、すごく温かい。

 それがあまりにも心地よくて、私は涙を零しながらヨウの背中に手を回した。人間と変わらない体の感触が、体じゅうに伝わってくる。ヨウの肩にぼろぼろ涙が零れて、止まらない。私は声を押し殺した。ぎゅうっと抱きしめてもまだ足りなかった。

 腕が離れると、真夏なのに空気が嫌にひんやりして感じた。目の前でまた膝を抱えたヨウは、どうやら満足げに笑っているようだったが、目の前がぼやけて顔がよく見えない。

「はは、本当だ。泣くとすっげえブサイク」

「うっさい」

 むに、とヨウの顔を両手で挟んでやった。頬が柔らかい。多分変な顔になっているのだろうけれど、よく見えない。

 ヨウが私の手をぺちぺちと叩いて抵抗する。

「やめろって」

「ふふっ、そっちこそ酷い顔」

 涙で霞んで見えなかったけど、笑ってやった。

 頬から手を離す。その手をそっと握られた。

「あのさ」

 ヨウの手が私の頬に触れた。

「ちょっと思ってたんだけど、イチカっておユキの子孫か、生まれ変わりなんじゃないかな。証拠はないし、そうだったとしても、だからなんだって話なんだけど」

 私の頬を伝う涙を、ヨウの親指が拭った。

「一時はそんなことも考えてたんだよ。でも今は、イチカがおユキと関係あるとかないとか、もうどうでもいい」

 何度拭ってくれたって、ずっと前がぼやけている。ヨウの手の甲に、私の手を重ねた。

「今は、イチカに伝えたい」

 温かい。


「大好き。友達でいてくれて、ありがとう」


 ひゅるる、どん。

 花火の音がした。わあ、という歓声。

 声を出そうとした。

 でも、言いたいことが全部喉で絡まって、なんの言葉も出てこなかった。

「人間と妖怪でも、こんなに好きになれるんだな。それが証明できて大満足だ」

 だんだん、頬に触れる感覚が消えていく。

「これ、イチカに返す」

 パーカーのポケットから、鉛筆が出てきた。絵を描いてから、またヨウに返していた鉛筆だ。

「これが俺がここにいた証。イチカのこと、大好きだった証な」

 鉛筆が私の手の中に転がり込んだ。温かい。

「ありがとな! すっげえ楽しかった!」

 どうやら笑っているらしい、その姿も。

 ぼやけて見えないけれど、緑豊かな背景の中に染みていく。

「やだよ、」

 やっと声を出せた。

「やだ……」

 浴衣の袖で、ぐっと涙を擦った。

 空いている方の手で、ぎゅっとヨウの手を握り締めた。

「私も、私も大好き」

 声が詰まって、上手く言葉にならない。

「好きなの、すごく、大好きだった。今も、ずっとこれからも、君が好き」

 手の中の感覚が薄れていく。空気を握っているような、それでいて、温かさだけ残っているような。

「何回生まれ変わったって、ずっと。絶対、忘れないから」

 袖から顔を上げると、すでに目の前は植え込みと木が鬱蒼とした空間がぽかんとひらけて、地面に手ぬぐいが落ちていた。


「一夏! 一夏!」

「一夏ちゃーん!」

 どん、どん、という花火の音の間から、私を呼ぶ声が聞こえた。

「一夏!」

 晴樹と明奈ちゃんが、私を捜している。

「あっ、一夏ちゃ……」

 茂みを覗き込んできた明奈ちゃんと目が合った。

「……一夏ちゃん?」

 私は浴衣の裾をドロドロにしてしゃがみこんだまま、ふたりを見上げた。晴樹の戸惑う声がする。

「おい……なんだよ、どうしたんだよ」

 やっぱり、涙で前が見えない。

「う、」

 もう、耐えられなかった。

「うあああ……」

 ふたりの前で、私はぼたぼた涙を零した。


 *


 次の日の朝早く、お父さんの車が私を迎えに来た。

「お世話になりました」

 おばあちゃんに深々と頭を下げると、おばあちゃんはキジ子さんを抱っこして、しわくちゃの手で私の頭を撫でてくれた。

「こちらこそ。楽しかったわ。ありがとう」

 夏休みは呆気なく終わってしまった。思っていた以上に短くて、なんだか大切なものをいろいろ見落としたような気がする。

「一夏!」

 お隣のドアが開いて、晴樹が明奈ちゃんを引っ張ってきた。

「一夏ちゃん、元気でね!」

 明奈ちゃんが叫ぶ。お見送りに来てくれたふたりに、にっこり笑って頷いた。

「本当にありがとう。晴樹と明奈ちゃんのお陰で寂しくなかったよ」

「私も、お姉ちゃんができたみたいで楽しかった」

 明奈ちゃんが震える声を出す。晴樹も、ちょっと眠そうな声で言う。

「一夏がいると面白かったよ。また来いよな」

「うん、また遊ぼうね。健太お兄さんにも、あと近所に住んでる人……皆に、よろしくね」

 ここでお世話になった、たくさんの人たち。思い出がいっぱい詰まっているせいで、お礼を言いたい人を思い浮かべたら、きりがなかった。

「じゃあそろそろ……。一夏がお世話になりました」

 お父さんが頭を下げて、車に乗った。私も、荷物を積み込んだ後部座席に滑り込む。

「一夏、助手席に来ないのか? そっちは狭いだろ」

 運転席からお父さんが声をかけてきたけれど、私は窓の外に手を振りながら、お父さんと目を合わさずに返した。

「こっちがいい」

 車が発進する。明奈ちゃんがなにか叫んで、目から大粒の涙を零していた。それを宥めながら、晴樹が私を見つめる。おばあちゃんがふたりの頭を撫でる。そんな姿が、遠のいていく。

 畑の間を通る道を、車がゆっくり進む。後ろを向いてシートの背もたれに手をかけ、見通しのいい道を眺めた。手を振る人影は小さくなって見えなくなっていく。

「楽しかったか、一夏」

 お父さんの声がした。

「うん」

「思い出、いっぱい作ったか」

「うん」

 神社の前を抜けて、山道に差し掛かる。ずっと、後ろを見ていた。

「よかったな」

「うん」

 タイヤが石を踏んだ。ぼこ、と車体が揺れる。

 坂道を上ると、村に下りる道と、暗い坂道に分岐する分かれ道が見えた。

「一夏、危ないから前を向いて座りなさい」

「うん、あとでそうする」

 私は前を向けなかった。

「今だけ、後ろを見ててもいい? 大丈夫になったら、ちゃんと前を向くから」

 車がぼこぼこ揺れる。

 揺れる度に、大切なことが頭からひとつずつ、零れていってしまう、そんな気がした。ずっと後ろを見ていたら、頭がよくない私でも、ひとつくらい覚えていられるかもしれない。

「そうか」

 お父さんは優しい声で言った。

「町に帰ったら、誕生日プレゼントの自転車、見に行こうな」

 私が大人しいとき、気遣い屋のお父さんは無理矢理明るい声を出す。

 狐の呼坂が遠ざかっていく。

 握りしめた手ぬぐいが、私の体温で熱くなる。


 山道の急カーブを曲がると、あの坂道も見えなくなった。

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