君のいない夏
夏休みが残り五日を切った。ところどころ終わっていない宿題を鞄に詰める。ぼちぼち帰り支度を始めていた。
おばあちゃんが奇妙な話を切り出したのは、そんなある午後のことである。
「隣の健太がまだ幼稚園に行ってた頃、座敷童子と友達だったのよ」
そんな話、本人からはもちろん、その弟妹からも聞いたことがない。それも、そういうものをまるで信じない理科系男の健太お兄さんが、なんて。
半信半疑の私に、おばあちゃんは洗濯物を畳みながら、楽しそうに話した。
「あの子が見えない誰かと遊んでたのを、家族も私も見てるの。健太に誰と遊んでるのか聞いたら、『大人には見えない子』って答えたのよ」
驚きだ。あの健太お兄さんが……。おばあちゃんは満足げに頷いた。
「大人には見えないとなると、やっぱり座敷童子だと思うのよ」
「ひとり遊びしてただけ、ってことはない?
小さい頃って、そういうときもあると思うよ」
遊ぶ友達が近くにいないから、自分で架空の友達を作ったのではと、私は考えた。おばあちゃんもうーんと唸った。
「そうかなとも思ったけど、ある日『お別れした』って泣いてたことがあったのよ。それからパッタリなくなった」
あのお兄さんにそんな過去があるのはすごく意外だが、ヨウがいるのなら座敷童子がいても不思議ではない。そう考えていると、おばあちゃんは続けた。
「それから、健太が中学校に入った年に、その当時のことを聞いてみたの。でもあの子は全く覚えてなかった。あの子はもう妖怪を信じなくなっていたし、見えなくなって記憶からも消えちゃったのかもしれないわね」
本人も、もう覚えていないのか。
そうだとしたら、本当にきれいに記憶から消えてしまったんだ。少しでも覚えていたら、ちょっとくらい妖怪を信じていてもおかしくない。
「どうして忘れちゃったのかな。お別れで泣くくらいなら、そんな忘れられるような存在じゃなさそうなのに」
私は荷物を鞄に押し込み言った。おばあちゃんが微笑みながら小さく息をつく。
「よくあることらしいわよ。子供の頃に一緒に遊んでた妖怪のことって、大人になると覚えてないの。記憶からきれいに、その子の部分だけ抜け落ちてしまうんだって」
「え……」
思わず、荷造りしていた手が止まる。
「なんで……?」
「忘れなくちゃいけないことだから、じゃないかしら。そういう理があるのね、きっと」
おばあちゃんが畳んだタオルを積み上げる。
「子供に限った話じゃないわよ。大人でもそうらしいわ。妖怪と関わった記憶って、消えちゃうんだって」
おばあちゃんの声を、私はただ黙って聞いていた。
「覚えてる人間も、覚えられてる妖怪も。どちらもあってはならないのかもしれないわね。詳しいことは分からないけど……。ああ、私も覚えてないだけで、不思議な友達がいたのかしら」
おばあちゃんはにこにこ笑い、畳み終わったタオルを持って部屋を出ていった。
私は呆然として部屋に取り残された。
忘れてしまう? それじゃあ、私も、ヨウのことを忘れてしまうの?
おばあちゃんが出ていって数分、縁側に出て頭を冷やした。
落ち着け。おばあちゃんはああ言ったけど、私はヨウを忘れることはない。あんな印象の強い奴を忘れるなんて、有り得ない。
風鈴がチリンと鳴った。私は縁側の板にごろんと横になる。ひんやりして気持ちよかった。部屋からキジ子さんが私を見ている。
仰向けになると、軒で欠けた青空が見えた。いい天気。空が高い。ツクツクボウシの声がする。
ふいに気配を感じて庭に視線を動かすと、ブロック塀をよじのぼるヨウを発見した。
「あ、来た」
「ういっす。なにしてるの? 随分大荷物だな」
ヨウが障子の向こうの部屋の荷物を一瞥する。私は体を起こして座り、ちらと壁沿いに積んだ荷物に目をやった。
「もうすぐ夏休みが終わるんだよ」
まだ残り日数はあるけれど、それなりに片付いてしまった。
「そっか。いつ帰んの?」
「次の日曜日。月十蒔祭の翌日」
そう答えてから、私はしばし、下を見た。自分の膝小僧と睨めっこして、やがて口を開いて、やっぱり言うのをやめた。
月十蒔祭の翌日。つまり、ヨウがいなくなっちゃったあと、くらい。
ヒワさんが言うには、ヨウが姿を消すのはお祭の前までとのことだから、そのくらいだ。
「寂しいのか? なんだよ、大人になったらまた来るんだろ」
ヨウは庭を横断し、縁側まで来て私の横に座った。私はそうだね、と返した。
「あ、おばあちゃんが茹でてくれたトウモロコシがあるよ。食べる?」
「食べる!」
目を輝かせたヨウを縁側に残して、私は台所にトウモロコシの載ったお皿を取りに行った。濃い黄色と淡い黄色の粒がぎゅっと敷き詰まって、まだら模様を描いている。
トウモロコシを持って戻ってきたら、ヨウは膝にキジ子さんを乗せていた。キジ子さんはヨウに首を撫でられて、喉をゴロゴロと鳴らしている。私も縁側に腰掛けて、ヨウとの間にトウモロコシを置いた。
「キジ子さん、なんて言ってるの?」
「毎日暑いね、って」
ヨウはキジ子さんの言葉が分かる。羨ましい。
トウモロコシを半分に割って、ヨウに差し出した。ヨウが早速手を伸ばすと、膝の上にキジ子さんを乗せたまま、トウモロコシに齧り付いた。
もぐもぐしているヨウの膝で、キジ子さんが欠伸をする。
前にトウモロコシを食べたのは、おユキさんの子孫がどうとかと話したときだった。すごく前のようにも、昨日のことのようにも感じる。きっとこれからは、こんなふうに今のことを思い出す。
「……大人になっても」
つい、口から言葉が零れ落ちた。
「大人になっても、トウモロコシを見たら思い出すかな」
「なにを?」
ヨウが掠れた声で聞いた。私はそろりと、ヨウの瞳を覗いた。
「ねえヨウ、私、大人になってもヨウのこと忘れないよね?」
「なに言ってんだよ……」
「ヨウはすごく、印象的だもん。忘れないよね?」
じっと、ヨウの不思議な色の瞳を見つめる。ヨウはしばらくは私を眺め返していたが、やがてふいっとキジ子さんに視線を背けた。
「誰かから、なにか聞いたのか?」
やっぱり、ヨウも知っていたんだ。ヒワさんが、ヨウを忘れるようにお願いしに来たのも、おばあちゃんの話が本当だからなのだろう。
「ヨウ、人間と関わりすぎたから、いなくなっちゃうんだって。お祭の前に、どこかへいなくなっちゃうって」
「えっと……」
「それで、人間は妖怪と一緒に過ごした記憶をなくしちゃうんだって。だからヨウは私から離れていって、私はヨウのこと忘れちゃうんだって……」
人間と妖怪の理。それがきっと、こういうことだ。
「忘れないよね? だって、大人になる頃には、また一緒に花火するんでしょ?」
私は真っ直ぐヨウを見つめているのに、ヨウは膝の上のキジ子さんにばかり視線を注いでいた。
「……短くても、数百年の旅になるんだ」
ヨウの返事は、ぽつりと静かな声だった。
「人間の一生と妖怪の一生は、長さが全然違う。生きていくために必要なものも、大事にしてるものも、違う。本来は関わらないで、別々の領域で暮らさないといけないものなんだ」
ぽつりぽつり、ヨウは言葉を並べた。
「友情でも憎悪でも、恋でも。個人の人間に対して特別な感情を持ってしまった妖怪は、妖怪として、心が未熟なんだ。だから数百年、修行の旅に出かける」
「……なに、それ」
数百年もいなかったら、私は、もう。ヨウは顔を伏せたままだった。
「だから本当は、これでお別れしたら、もう会えない」
そう言って、またヨウはトウモロコシを口に運んだ。
私は言葉をなくした。なにから言えばいいのか、分からなかった。
ヨウがトウモロコシを頬張り、唸る。
「人間の方はなんか知らんけど、妖怪との記憶は消えていくそうだ。人間社会の中に妖怪は必要ないから、これもまた人間側の理なんだ」
ヨウがいなくなるのも、私が忘れてしまうのも、ヨウが妖怪だから、私が人間だから。別々の生き物だから。それで、納得しなければならないの?
ヨウは切り替えたみたいに明るい声を出した。
「なんて、余計なこと考えないで、ぱーっと遊ぼうぜ。お互い、残り日数は少ないんだ」
声は楽しげなのに、視線はこちらに向けようとしない。私はまだ声が出せなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃになった。どうしたらいいのか、分からなかった。
「……なんで?」
ようやく声を絞り出した。
「ん?」
ヨウは振り向かない。
「なんでそういう大事なことすぐに言ってくれなかったの!」
怒鳴りつけると、びくっとしてヨウがやっとこちらを向いた。驚いたキジ子さんが部屋に逃げていく。私はヨウが固まっているうちに捲し立てた。
「なんで!? なんで大人になったらまた花火しようなんて言ったの? 妖怪は忘れられちゃうの分かってるから、私と晴樹と明奈ちゃんだけでやると思った? 自分ばっかり腹括ってるつもり? 私たちは、知らないで忘れちゃうのに!」
「え、ごめ……そんな……怒ると思わなくて」
「嘘だ! 分かってて隠してたんだ! 私に叱られるって分かってたから、隠し通していなくなるつもりだったんだ!」
「しょうがねえじゃん、会えなくなるなんて言ったらアキナが泣くだろ、そしたらハルキが困るし」
ヨウはわたわた慌てながら反論してきた。
「イチカだって、そういう顔する」
真っ直ぐ見つめられた、自分の顔にハッとなる。手を当ててみると、頬が熱くなっていて、目の端が少しだけ濡れていた。
ヨウはしばらく真顔で私を眺めていた。が、ふいにぷっと吹き出した。
「ひっでえ顔。ブッサイク……」
くつくつと笑い出した彼に、私はムスッとむくれた。
「失礼だな……」
「黙ってたのは謝る。けど、俺は覚えられてても困るし、人間もまともな大人になるためにも覚えてない方がいい。スーッと忘れて、なかったことにする。それでいいんだよ」
ヨウはあっさり割り切った。
「それが妖怪と人間の付き合い方としてあるべき姿なんだよ。諦めてくれ」
そう言ってまた、トウモロコシにかぶりつく。私は食べかけのトウモロコシを一瞥し、もう一度ヨウに顔を向けた。
「やだ。絶対、忘れてなんかやらない」
ヨウが面倒くさそうな顔をした。それでも私は首を縦には振らなかった。
「絶対絶対忘れない。意地でも忘れない。いくつになっても忘れない、死んでも忘れない」
しつこく唱えたら、ヨウが仰向けに倒れた。
「もう! 分かったよ。しょうがねえな。やれるもんならやってみろ」
諦めたヨウを、私は勝ち誇った目で見下ろしてやった。ヨウが急に、真面目な顔になる。
「でも、これだけはお願い。ハルキとアキナには、忘れさせてやってくれ」
真剣な眼差しに、胸がぎゅっとした。
「そんなんで、ヨウは寂しくないの? 友達の記憶から消えちゃうんだよ?」
少しだけ、声が震える。
「寂しくないよ。俺が覚えてるから」
……ずるい。
「ヨウばっかり覚えてるんだ。それ絶対、晴樹も明奈ちゃんも怒るよ」
「だから言わないでほしい、怒られたくねえから。残りの時間短いのにギクシャクされても嫌だしな」
ヨウはむくっと起き上がって、私を横目で一瞥した。
「どうせ忘れちゃうんだ、楽しくやろうぜ。残り少ないんだからそれくらいのお願い聞いてくれてもいいだろ」
なんだか敗北感があるけれど、ヨウがそうしてほしいなら、仕方ない。晴樹と明奈ちゃんには悪いけれど、私はこくりと頷いた。
「その代わり、私は絶対忘れない」
「はいはい、できるんならやってみ。多分無理だぜ、理には敵わない」
ヨウは挑発のようにニヤリと笑ってきた。
忘れるわけないと、私は思う。こんな気持ちはきっと、一生に一度きりだ。こんなに私の心を掴んで離さないヨウのことを、忘れられるはずがない。
私は部屋に転がっている携帯を取ってきた。
「ヨウ、写真撮っていい?」
携帯は、最近使っていなかった。充電もせずに放っておいたせいで、電池が残り少ない。カメラを起動してヨウに向ける。しかし画面に表示された「カメラが起動できませんでした」の文字に指が固まった。
「あれ、撮れなくなった」
「妖怪の写真を撮ろうとなんかするからだよ」
ヨウはよくあるよくあると呟きながら頷いていた。なんだか、自分の存在の証拠を残さないためにヨウがわざとやっている気すらしてきた。
辺りをキョロキョロ見渡して、ふと荷物の山に目がいった。筒状に丸めた画用紙が横たわっている。
「そうだ、ヨウ、じっとしてて」
私は画用紙を引っ掴んで縁側に広げた。
サバ子さんが泥をつけた足で歩いた跡がシミになっている。
「写真が撮れないなら、絵を描かせて。それならヨウの姿をしっかり残せるよね」
昔の絵巻物にヒワさんの姿が残っているくらいだ。絵ならきっと残せる。
「鉛筆貸して。ヨウにあげちゃった一本しか持ってなかった」
言うと、ヨウはパーカーのポケットから鉛筆を取り出し差し出してきた。受け取った鉛筆は、ほんのり温かかった。
庭を描いて、縁側を描いて、そこに立っている少年を描く。縁側には、ぽつぽつと肉球型の足跡。キジ子さんがつけてくれたシミを利用した。
「おい、俺、そんなにたくさん足跡つけてねえよ!」
「うるさいな。文句言うと変な顔に描くよ」
脅かしながら言って、私はヨウを見上げた。
「尻尾、描いてもいい?」
「だめ。大騒ぎになっちゃうから隠せって言ったの、イチカだろ」
「描いちゃえ」
「おい、結局描くのか」
絵の中の少年にふわふわの尻尾を描き足した。モデルは不愉快そうにむくれたが、やがて力の抜けた笑みを零して、私の描く絵を見下ろしていた。先の丸まった、柔らかい鉛筆が解れた線を描いていく。
「それじゃあさ、その近くにイチカも描いてよ」
ヨウが目を細める。夏の日差しを受けた瞳が、きらっと輝いて、無性に眩しかった。
「一緒にいたって、分かるように」
「うん、そうだね」
私は絵に描いたヨウの隣に、ポニーテールの女の子を描いた。描きながら、絵の中のふたりの手をそっと近づけた。
ちらっと、本物のヨウの顔を盗み見る。実物のヨウに触れることはできないけれど、せめて絵の中でなら、手を繋いでもいいだろうか。
でもヨウが見ているところでそんなのを描くのは恥ずかしくて、手を描くのを後回しにした。
部屋に避難していたキジ子さんがとことこ歩いて戻ってきた。真っ直ぐにヨウに擦り寄っている。
「本当はさ」
ふいに、ヨウが真面目な声を出した。
「イチカって、最初は変な奴だと思ってたし、今も変な奴だと思ってる」
なんだか言い出したので、私は怪訝な顔になった。
「なにそれ、なにが言いたいの」
「変な奴だけど、イチカがここにいて、すごく幸せなんだ」
ヨウは消えそうな声で、そろっと言った。私は鉛筆を止めてヨウに釘付けになった。自分でも分かるくらい、顔が熱くなる。
いきなり、ヨウが慌て出した。
「や、俺じゃない、キジコがそう言ってんの!」
ヨウは尖った犬歯を剥き出しにして、それからすうっと私から目を逸らした。
「そう……キジコの言ってたのを訳しただけだから。俺が思ったんじゃないから。本当だぞ、本当だからな」
そう言ったヨウの真意は分からなかったが、ヨウの言葉は素直に嬉しくてこそばゆかった。
「そっか、ありがとうキジ子さん」
キジ子さんの背中を撫でる。彼女はナオ、と短く鳴いて私の手に頭を擦り付けてきた。
緑の庭の前で、白い画用紙が陽射しを反射する。
きっと私は、この光景を忘れない。
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