珍しいお客さん

 おばあちゃんの大量の本を古本屋さんが見積りに来た日、自由研究のレポートが書き上がった。おばあちゃんから借りた本を元にまとめている。そして、どの文献にも残っていない、ヒワさんから聞いた真実まで書き加えた。

 レポートを鞄にしまったところで、ちょうど玄関から私を呼ぶ声がした。晴樹と明奈ちゃんが遊びに来たのだ。

「いらっしゃい! 今日はなにして遊ぶ?」

 玄関へ出迎えにいった私に、晴樹がぴしゃりと言った。

「宿題! 特にイチカ、自由研究以外、全然進んでないだろ?」

 ……それは、なにも言い返せない。

 毎日遊んでばかりで楽しくて仕方なかったせいで、宿題がおざなりになっている。

 不思議なものだ。ここへ来る前は、月十蒔里はカラオケもショッピングもできない、つまらない場所だと思っていた。それがこんなに楽しくて、夏休みがあっという間に過ぎてしまうなんて。

 寝室にテーブルを出して、宿題を始める。特に進みが悪い算数ドリルを前に、私は何度も、突っ伏したり仰向けに倒れたりしては晴樹に叱られていた。

「あー、もう! 疲れた」

 何度目かの仰向けのとき、晴樹がふいに、切り出した。

「なあ、一夏」

「んー?」

「昨日うちの親父から聞いた。佳代子さん、引っ越すんだって?」

 どきりとした。そういえば、まだ言っていなかった。

「ほんで、佳代子さんがいないから宛もないし、一夏も来年はここに来ないと」

「うん」

 素直に頷くと、晴樹はこちらを見下ろして聞いてきた。

「いつから知ってた?」

「三日前……」

 私だって驚いた。来年も再来年も、また会いに来るつもりでいた。

 明奈ちゃんは、黙って下を向いている。手に持った鉛筆は止まっていた。晴樹がむっすりと膝を抱える。

「一夏はもうこの里には来ないし、小さい頃からお世話になってる佳代子さんともお別れ。お陰様で、事情を知った明奈が大泣きして、昨日だったんだぞ」

「私だって、寂しいよ」

 私は体を起こして、ヨウの言葉を借りた。

「でもさ、ヨウが言ってたんだけどね。大人になれば、誰かの都合じゃなくて自分で来たいときに来れるようになるよ。そしたら今度は、大人に叱られるとか気にしないで、花火しよう」

「それもそうだな。永遠の別れってわけじゃないんだ。そのときはちゃんと佳代子さん連れてこいよ」

 晴樹はまだ不服そうではあったが、渋々受け止めてくれた。明奈ちゃんも、ようやく口を開く。

「次に会えるの、大人になってからになっちゃうなら、お祭の日まで、いっぱいいっぱい遊ぼうね」

「うん。ヨウも一緒にね」

 大人の事情は、子供である私たちには、どうしようもない。ただ、今の私にできるのは、この夏をめいっぱい楽しむこと。最高の友達との、忘れられないこの夏を。


 *


 その日の夕方のことである。

「ここが佳代子殿の家か……うむ」

 真っ白な毛並みに、大きな九本の尻尾。細く繊細な毛は、光を宿して透き通るように輝いている。

 庭のブロック塀に座っていた姿に、私は口をあんぐりさせた。

「ヒワさん!」

「邪魔するぞ、一夏殿」

 大きな九尾の狐は、にぱっと笑って庭の中におりてきた。この庭にヨウが現れるのはもう慣れっこだが、ヒワさんが来たのは初めてだ。見慣れた庭の景色に神秘的な白い九尾の狐というのは、なんとも不思議な光景である。

「びっくりした! ヒワさんが隠れ里から出てくるなんて、珍しいね」

 縁側に座っていた私に、ヒワさんは顔を近づけた。

「うむ。愚かな人間の里を、ワタシの狐火で燃やしてしまおうと思ってな……」

「えっ」

 私がびくっと肩を強ばらせると、ヒワさんはけらけら笑って首を引っ込めた。

「冗談冗談! 安心するのだ、燃やしたりしない。お主の反応が面白いから、つい意地悪を言ってしまった」

「そ、そう……」

 この狐はヨウとは違って本当にやりかねない感じがするから、ちょっと怖い。私が縮こまっているのを見て、ヒワさんは微笑んだ。

「一夏殿が警戒するのも分かる。ワタシが本気を出せば、土地を取り返すこともできるだろう。だが我々狐に、人間と戦う意思はもうない。暦ねえちゃんも望まないだろうし、なにより面倒くさい。隠れ里があれば充分なのだ」

「じゃ、本当に里で悪さしない?」

「うむ、我々は寛大なのだ」

 誇らしげに胸を反らせるヒワさんに、私は苦笑いした。悪さはしないと約束してくれているが、わざと私を驚かすくらいだ、生粋のいたずら好きである。

「いたずらしたくなるのは、妖怪の本能みたいなものなんだよね」

 私が言うと、ヒワさんは頷いた。

「妖怪だから、人間を見かけたらなんかやらなきゃと思うものなのだ」

「そっか。ちょっとびっくりさせるだけのいたずらだったら、里の人たちもそんなに怒らないと思う。案外仲良くなれたりしないのかな。里で人間と狐が一緒に暮らせたら、楽しそうだよね」

 人間がいるのと同じように、狐のご近所さんがいる生活。考えただけでも面白い。しかし、ヒワさんはあっさり言い切った。

「それは難しいだろな。この里の人が特別心が狭いわけではない。でも、狐も人間も、お互い意地になってるのだ」

「意地?」

「心のどこかではとっくに許してるのに、今更引っ込みがつかないのだ。一夏殿やヨウくらい幼ければ、複雑な事情も知らないし知っていても仲良くできたりするけれど、生憎大人はそんなに器用じゃないのだ」

 ヒワさんは小首を傾げてはにかんだ。

「さて、今日はそんな話をしに来たのではない。此度ヨウが世話になったから、挨拶に来たのだ」

「そうだったんだ。ご丁寧にありがとう。ヒワさんも、私がもうこの里に来ないのを知ってるんだね」

 ヨウから聞いたのかな、なんて思っていると、ヒワさんはきょとんとして、素っ頓狂な声を出した。

「む? 一夏殿が?」

「えっ? 私が帰っちゃうから、お別れの挨拶に来てくれたんじゃないの?」

「いやワタシは、人間と妖怪の理を……」

 ヒワさんはなにか途中まで言いかけて、言葉を切った。

「そうか、知らぬのか」

 白い尻尾が、ゆらりと揺れる。

 人間と妖怪の理。そんなもの、今初めて聞いた。私は黙って、ヒワさんの次の言葉を待つ。彼は虚空を仰ぎ、数秒考えて、やがて口を開いた。

「実は我々は妖怪は、あんまり人間と一緒にいちゃいけないのだ」

「そうなの? 私、知らないでずっとヨウと遊んでたよ」

 一緒にいても仲良く遊べたのに、なにがいけないのだろう。日渡さんは青い目を伏せた。

「ともかくヨウは、狐のくせに人間と深く関わりすぎてしまった。そうなると狐は、しばらく人間の前から姿を消す」

「ヨウ、どこかにいなくなっちゃうの?」

 私は思わず身を乗り出した。

「それ、いついなくなるの? どれくらいで帰ってくるの? 帰ってくるんだよね?」

「いつ……ふむ、月十蒔祭が始まる前までは、まだここにいられるだろう。あまり細かいことはワタシからは話せない。いずれにせよ、理というものが人間と妖怪の間を上手いこと取り持っておるのだ」

 ヒワさんは曖昧に言葉を濁し、話を終わらせた。

「ともかくヨウが世話になったな」

「ねえ待って、ヨウはどこへ行っちゃうの?」

 私は大きめの声で呼びかける。ヨウがいなくなってしまうなんて、聞いていない。

 ヒワさんは下を向き、数秒黙っていた。こちらも目を逸らさずにいると、ヒワさんはまた、お茶を濁した。

「うん、まあ。ヨウがどこにいようとワタシたち狐同士ならすぐに分かるからよいのだ」

 私の質問には答えてくれていない。もう一度問いかけようとしたのだが、その前にヒワさんは、真剣な目で言った。

「だから一夏殿。折り入ってお願いだ」

 青い瞳が私を射抜く。

「ヨウを忘れてやってくれないか?」

「……へ?」

 なにを言われたのか、よく分からなかった。

 もう一度考えてみた。やはりよく分からない。

 考えても分かりそうにない。

「それ、どういうこと?」

 直接尋ねてみる。ヒワさんが、重々しく口を開きかけた。が、突然、ぴんっと耳を立てる。

「まずい、佳代子殿が来た!」

 そう言うと、ヒワさんは私に尻尾を向け、ぴょんっとひとっ飛びでブロック塀を越えていった。

「え、ちょっと待って、待ってってば!」

 私も追いかけてブロック塀まで駆け寄り、背伸びしてその向こう側を覗いた。

「一夏、お夕飯よ」

 おばあちゃんの声がする頃には、白い狐の姿はすでに消えていた。

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