なんでもいいよ

 宴会から帰ってきたおばあちゃんは、少しだけ酔っぱらっていた。

「ただいま。いい子にしてた?」

 子供だけで花火をやったことは秘密だ。

 ブロック塀に座っていたヨウはもうどこかへいなくなっていて、辺りに散らばってた「狐火」も跡形もなく消えていた。

 それでも、私の心臓のどくん、どくん、という早鐘はおさまらなかった。

 ヨウはなにを考えていたのだろう。人里に下りてきて、おユキさんを捜して、子孫すら見つからなくて。どうするつもりなんだろう。復讐のために、この里に火を放つつもり……とか。

「今日の宴会ね。重大な話をしたのよ」

 縁側に座る私の横に、おばあちゃんも腰掛けた。

「へえ。里じゅうの大人が集まって、なんの話をしてたの?」

 胸のざわざわをおさえつつ、私はおばあちゃんに聞いた。おばあちゃんは、真面目な顔で言う。

「源蔵さんって人がいるんだけど、その人が化け狐が出たって言うのよ」

 その言葉に、私は凍りついた。

「他にも、真理子さんも泰介さんも。姿は見てないんだけど、ここ最近、植木鉢の並び順が変わってたり、不自然に郵便受けが開いてたりするんだって」

『ほら、妖怪って人間に意地悪してなんぼっていうか、いたずらしたくなるものなんだよ』

 ヨウが言っていた言葉が脳裏をよぎった。おばあちゃんはひとりで頻りに頷いている。

「狐の仕業に違いない。ついに出たのね! イチカも気をつけなさいね」

 ついにヨウが、人間に悪さをしはじめたか。とはいえ、植木鉢だと郵便受けだの、いたずらの度合いが低い。妖怪のいたずらという感じがしない。私は首を傾げ、おばあちゃんに問う。

「狐じゃなくて、子供のいたずらじゃない?」

「それがね。狐の仕業だと決定付ける証拠が出たのよ」

 おばあちゃんは目を爛々と輝かせていた。

「泥の足跡が残っていたの。いたずらされてる現場のすぐ近くに、肉球の形の足跡が!」

 ああ、気をつけてって、あれほど言ったのに!

「今はそんな、害のないいたずらでもね。だんだんエスカレートするのよ」

 おばあちゃんがさらに真剣な顔になる。

「だって化け狐は、人間を憎んでいるのよ」

 淀みない言葉が、私の胸にぐっさり刺さった。

 やっぱり、ヨウは人間が嫌いなのだ。

 おばあちゃんの言うとおりなら、今はまだ小さないたずらをしているが、これからもっと大きな悪さをしでかす。そうだ、ヨウは里を燃やすことだってできる。

「ねえ、おばあちゃん」

 私はおばあちゃんの優しい目を、真っ直ぐに見つめた。

「本がいっぱいある部屋。あの部屋の本、もう一度見せて」


 *


 寝室の隣の、図書館みたいな本だらけの部屋。私はその部屋の本棚をしきりに眺めた。背表紙の文字をひとつひとつ見ていく。

「一夏、もう遅いから明日にしたら」

 おばあちゃんが廊下から声をかけてきた。

「なにを調べてるの? 自由研究の課題の……狐の呼坂の伝説だったら、急がなくてもいいじゃない」

「違うの、今は」

 今は、ヨウの正体を人間に知られずに、彼にそっと山に帰ってもらう方法を調べるのだ。

「分かった。ちゃんと寝るのよ」

 おばあちゃんは悟ったように優しく言って、部屋を出た。

 ヨウのいたずらを止めるため、私なりに考えた方法が、ひとつある。

 おユキさんの幽霊を呼び出す。それがいちばんだ。

 ヨウが里にやってくる目的のひとつは、おユキさんへの復讐である。満足すれば里の人にまで危害は加えず、狐の呼坂の向こう側、妖怪の領域へ帰ってくれる。

 身長の届く範囲で、目に止まった本を抜き取った。タイトルに「降霊術」と入っているものだけで五冊。

 夜に薄暗い部屋で、呪術とか霊とか、そんな単語を見ると背中がぞくぞくする。背後に誰かいるような気がして、鳥肌がたつ。大量の文字が挟まった本が、びっしりと部屋じゅうを埋めて私を囲んでいる。それが、視線のように感じる。

 どうにかしてヨウを山に戻したいのに、私が怖がってどうするのだ。

 私は降霊術関連の本の他にも、化け狐に関する本を探した。

 おばあちゃんは幽霊関係より妖怪関係の方が好きなので、狐の本はあちこちから見つかった。

 もし、おユキさんに来てもらう以外に、穏便にヨウを山から下りてこないようにする方法があるなら、それがいい。できればヨウ自身が納得できる方法で、なにかあれば。

 ヨウの気持ちも分かるのだ。昔の里の人間が狐にしたことは最低で、狐に復讐されて当然かもしれない。

 でも、そうもいかない。この村にはおばあちゃんがいる。晴樹がいて、明奈ちゃんがいる。この里には、私の大好きな人がたくさんいる。

『抱えきれないくらい大変になったら、話せよ? もしかしたら、力になってやれるかもしれないし』

 晴樹の言葉を思い出す。晴樹に相談してみようか。

 だがすぐに、だめだと首を振った。晴樹と明奈ちゃんを信じてはいるけれど、万が一ヨウが狐だと知って、大人に言いつけたらと思うとできない。もう一緒に遊べなくなったら嫌だ。それに私が喋ったら、私はヨウを裏切ってしまうことになる。

 本を散らかすだけ散らかして、考えはまとまらない。時間だけが過ぎていく。このまま明日になってしまうのか。このまま、私はなにもできないのだろうか。

 この里を守りたい。でも、ヨウを傷つけたくはない。

 おユキさんもきっと、そうだった。里の人たちは狐を嫌っていたけれど、怪我をしたヨウを放っておけなかった。

 おユキさんがヨウに手ぬぐいを巻いたのは、結果的にヨウを妖怪にしてしまったが、気持ちは優しさからだった。おユキさんはきっと、私と同じで、人間も狐も大切にしたかったのだ。

 人間も狐も、どちらも悲しまない道はないのだろうか。

 私は、どうしたらいい?

「ヨウ……」

 名前を呟いた、瞬間だった。

「呼んだ?」

「うわあっ!」

 突然開いた障子から、ヨウが顔を出した。

 吹き込んできた風を受けて落ちていた本が捲れ、ばさささ、と音を立てる。

「いつからそこに!?」

 ばくばくしている胸をおさえる。ヨウが障子の向こうでにこっと笑う。

「前に言っただろ? 名前を呼ばれたら、どこにいたってちゃんと聞こえるんだって」

 月明かりに照らされて、縁側で立ち膝の姿勢を保っている。足が板につかないようにしているらしい。

「随分夜更かししてるじゃん。どうした?」

 立ち膝したまま、ヨウが宙を仰ぐ。

「そういえば、前に眠れないときもあるって言ってたな。今、それなのか? なんで眠れないんだ?」

 部屋の蛍光灯の光に当てられているヨウの無邪気な表情に、泣きそうになる。

 こいつのせいでこんなに悩んでいるのに、こいつの声で安心する。

「なあ、イチカ」

 一瞬、ヨウの表情が曇った。

「そんなに一生懸命、なにを調べてるんだよ」

 狐の呼坂、化け狐、退魔術。このラインナップでは、まるで私が狐をお祓いする方法を調べていたみたいに見える。私は咄嗟に、散らけていた本を背中に隠す。

「あっ、違……これは」

 しかし私が隠した本には見向きもせず、ヨウは私から視線を動かさなかった。

「俺は狐だから、字は読めない。本を隠されても、なんの本か分からない。分からないけど、イチカの考えてることはなんとなく分かる」

 不思議な色の瞳が私を捉える。

「俺……なんか、悪いことした?」

 風でそよそよ、ヨウの髪が揺れる。私は背後の本の上で拳を握り締めた。ヨウは続けて問うてきた。

「隠れ里から帰ってきた次の日の夜とか。花火の後だって。様子が変だぞ。もしかしてヒワさんが話してたこと、まだ気にしてんのか?」

 それから、少し躊躇って、そっと尋ねる。

「それとも俺のこと、嫌いになったの?」

「嫌いなのは、ヨウの方でしょ?」

 私はやっと、声を絞り出した。

「人間が嫌いなんでしょ?」

「イチカ?」

 ヨウが立ち上がった。立ち膝をやめて、裸足の足で縁側に立つ。

「憎いんでしょ、おユキさんのこと」

 言うと、ヨウはふらっとした足取りで私に歩み寄ってきた。

「イチカ」

「でも、ヨウ。おユキさんはヨウに意地悪したくて手ぬぐいを巻いたんじゃないよ。お節介だったかもしれないけど……おユキさんは、ヨウのためにって思ったんだよ……!」

「イチカ!」

 ヨウが大声を出した。

 びくっと肩が飛び上がった。ヨウはすぐ目の前で、同じ目の高さで座っていた。

「今、おユキの話をしてるんじゃない。イチカの話をしてるんだ」

 きゅっと眉間に皺を寄せて、真剣な目で、真っ直ぐに私の目を見つめている。

「今はおユキなんてどうでもいいんだよ。俺は、イチカが、どうかって聞いてんの」

 覗き込んでくるヨウの目が、あまりにも純粋で、胸が締めつけられる。

「私は……ヨウのこと、嫌いになんてなれない……」

 脚に置いた手をぎゅっと握る。拳が震えた。

「嫌いになれたら楽だったのに。嫌いになれたら、とっくに山に追い返すのに」

 さっさといなくなるように。里を守るために、悪党の狐なんか追い出すのに。

「大好きになっちゃったから……。どうしたらいいのか分からないの……」

 理由はなんであれ人里に下りてきて、友達になれたヨウを、私は失いたくないのだ。

「もう二度と、人間の都合で傷つけたくない」

 目頭が熱くなってきた。口に手を当てて、こみ上げるなにかをぐっと堪えた。ぎゅっと目を瞑ると、睫毛が濡れた。

 そのとき、こつ、と、頭になにかが当たった。

 目を開けると、ヨウが不満顔で、私のおでこに鉛筆を押し当てていた。

「その顔、ブサイク」

「なっ……」

 顔を上げると、ヨウは鉛筆の消しゴム部分をぐいぐいと押し付けた。

「いいか、イチカの悪いところは、他人の話を聞かないところと思い込みが激しいところと、ひとりで抱え込むところだ」

 いきなり短所を並べられて、ひとつひとつがグサグサ胸に刺さる。

「まず、俺がいつおユキを恨んでるなんて言った?」

「だって、お雪さんがお節介を焼いてその手ぬぐいをつけたせいで、ヨウは……」

 ヨウの左足に視線を落とす。

「そうだよ。でもな、だからって恨んでるとは限らないだろ」

 それから不満顔のまま少しだけ頬を赤らめる。

「こんなお節介を焼く物好きがいるなんて、なんていうか……感謝してんだよ」

「感謝?」

「他のキツネも妖怪の狐も、別の野生動物や植物も皆、口を揃えて人間は悪い奴だって言うから、俺もそうだと思ってた。けどさ、俺はおユキに優しくしてもらって、思ったんだ。お互いきちんと歩み寄ったら、案外仲良くやってけんじゃねえかなって」

 私はきょとんとしてヨウの赤くなった顔を眺めた。

「だから妖怪になってまで捜してる。ちゃんとお礼を言いたいんだ。あわよくば友達になりたくて……」

 ヨウはばつが悪そうに目を逸らした。

「分かってるよ……単純だよな。たった一回、怪我の心配されたくらいで」

 ああ。そうだったんだ。胸の奥のもやもやが、すっと解けていく。

 ヨウが手ぬぐいを外さないのは、復讐の誓いなんかではない。感謝の気持ちを忘れないためだったのだ。

「他の狐たちには、そんなの人間の気まぐれだって言われた。それでも粘ってた。おユキが通りかかるのを待ってた。おユキが俺を見つけてくれた、狐の呼坂で」

 ヨウはどこか自嘲的に、でもはっきりと話した。

「でもおユキは全然現れなかった。だからちょっと、やっぱり気まぐれだったのかな、人間とは仲良くなれないのかな、と思いはじめてた」

 そろりと、上目遣いに私を見上げる。

「そこに、イチカが来たんだ」

 ヨウが私の頭に乗せていた鉛筆を引っ込めた。

「イチカが友達になってくれた。だから、俺は間違ってなかったんだって。人間と妖怪でも、友達になれるんだって」

 ぎゅっと鉛筆を握って、頬を紅潮させた顔で私を睨む。

「……言わせんなよ。人間と妖怪が仲良くなれると思ってるなんて、こんなこと誰にも言ったことなかったのに」

 なんだ。そうだったんだ。

 その本音を聞いて、私の中で、何かのスイッチが入った気がした。私がバカみたいに考え込んで、ヨウのことを分からなくなっている間、ヨウはずっと、私を待っていてくれた。

 それに気づいたら、なんだか胸がちくっとして、顔が熱くなる。

「だから、なんでおユキさんに会いたいのか聞いても、教えてくれなかったの?」

「だって狐のくせに人間と仲良くなりたいとか、お礼言いたいとか、こんな恥ずかしいこと言えるわけないだろ!」

 ヨウが照れて声を荒らげる。それが可笑しくて、私はつい、吹き出した。

「あはは! ごめんねヨウ。私、勘違いしてた」

「まあ俺も、里を焼き払えるなんて脅かすようなこと言ったしな」

 鉛筆をパーカーのポケットに突っ込みながら、ヨウはため息をついた。

「でも、そんなに俺のこと大好きなら信頼してくれたっていいじゃん。困ってるんなら、いたずらだって控える」

「あっ! おばあちゃんが話してた小さいいたずら、やっぱヨウの仕業だったんだ」

 宴会で話題になったという、いたずらとも取れないようないたずらのことだ。ヨウは火照った顔で下を向き、腕を組んだ。

「そう。人里にいながらなにも悪さしないなんて、妖怪のプライドが許さないからな。でも、あんまり怒られない程度だろ?」

「これからエスカレートしたりは?」

「しない。大暴れしたら、それこそ人間と狐の溝が深くなるだろ。俺は仲良くしたいんだから、人間を困らせるようなことしないよ」

 はっきり言い切るヨウに、私はほっと胸を撫で下ろした。よかった。全部、私の考えすぎだったのだ。

「これからはいたずらするときは、足跡とか、証拠を残さないようにね」

 するとヨウは意外そうにまばたきした。

「へえ、いたずらするなとは言わないんだ」

「うん。あんまり自由を奪いたくないからね。ヨウのこと大好きだから」

 ヨウの言葉をそのまま借りると、彼は一瞬固まってから、またかあっと頬を赤くした。

「変な言い方すんな!」

「ヨウが言ってたとおりに言ったのに」

 くすっと笑ってみせると、ヨウは決まり悪そうにそっぽを向いた。

「なんなんだよもう。帰る」

 ヨウはくるっと向きを変えて、庭の方へとスタスタ逃げていった。縁側から飛びおりたヨウの背中が、夜の闇に飲まれていく。

「あのね、ヨウ!」

 思わず引き止める。ヨウは振り向きはしなかったが、立ち止まった。

「今ね、幽霊とか妖怪のこと考えて、不安で怖かったんだ。だから、ヨウが来てくれてほっとした」

 散らかした怖い本が、私を囲んでいる。ヨウが来てくれたことが、今ここにいてくれることが、私をこんなに安心させる。

 ヨウはちらっと、こちらに気色ばんだ顔を向けた。

「バカ。俺だって妖怪だっつの」

「妖怪でも化け物なんだっていいよ。ヨウはヨウだもん。明日も一緒に遊ぼ」

 えへへ、と笑うと、ヨウはまだ赤いままの顔をさらにかあっと赤く染めた。

「あんまり調子に乗ると、化かしてびっくりさせるからな!」

 彼はそう吐き捨てて、ブロック塀を越えていなくなった。

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