秘密の花火
翌日。気がつくと、私は布団の中にいた。ばさっと体を起こすと、壁の時計が午前九時を示しているのが目に入った。
たしか、私はヨウに案内されて狐の隠れ里に行ったと記憶している。いつの間に帰ってきたんだろう。
だんだん意識がはっきりしてきた。そもそも狐の隠れ里なんか本当にあったのだろうか。今起きたということは、あれは全部夢だったのか。
もそもそと起き上がって服を着替えて布団をしまう。あまりにもいつもどおりだ。
隠れ里は多分夢だ。絶対夢だ。
しばらくして、晴樹と明奈ちゃんが遊びに来た。なにもかもがいつもどおりだ。私は次第に、隠れ里のことを忘れていった。
しかし宿題を広げようとしたとき、晴樹が神妙な面持ちで切り出した。
「一夏、昨日なにがあった?」
やはり昨日、なにかあったようである。
「夕方くらいに山の方から帰ってきてさ、すごく顔色悪くて。佳代子さんが『山の狐の祟りだ』とか言い出して、大量にお稲荷さん買ってきて……」
全然覚えていない。
「そういえばお昼過ぎに遊びに来たら、もう一夏ちゃんいなかったんだよね。どこかに出かけてたの?」
明奈ちゃんに問われるものの、答えられなかった。狐の隠れ里の存在は秘密だと、ヨウと約束している。
「なんだっけかな、ちょっとヨウと遊んでて疲れちゃったんだ。祟りなんかないよ」
誤魔化すと、明奈ちゃんはああ、と零した。
「佳代子さんの儀式の間、ヨウくんが傍で様子見てたよ」
そうか、ヨウがここまで送ってくれたのだ。それにしても、ヨウがその場にいても大丈夫だなんて、おばあちゃんのお祓いの儀式にはなんの効力もなかったというわけだ。おばあちゃんが能力者にはなれないのはその辺りなのだろう。
「一夏が平気なら、まあいいけどさ」
晴樹がぽん、と広げたノートを叩いた。
「ところで明日の夜、花火やろうと思ってるんだけど、一夏もどう?」
「花火!」
私が顔を上げると、明奈ちゃんが頷いた。
「そうなの。手で持ってパチパチさせる花火」
「明日、ちょうどおばあちゃんが出かけちゃうから暇だったんだ。行く行く!」
晴樹の誘いに私は頷いた。頷いた後で気がついた。
「あれ? 明日おばあちゃんがいないのって、里の宴会だからって聞いてるんだけど……晴樹たちのお父さんとお母さんは、宴会に行かないの?」
「行くよ」
「え、じゃあ子供だけで火遊びするの? ばれたら叱られるよ」
大声を出したら、明奈ちゃんが人差し指を口に当てた。
「佳代子さんに聞こえちゃうよ」
「子供だけでやる方が面白いだろ。だから、大人がいない明日が狙い目なんだよ」
晴樹もひそひそと声を小さくして言った。
「いざとなったら兄貴引っ張ってくればいいよ」
「中学生がついてたとしても、やっぱり怒られると思う」
「じゃあ、ばれないようにやるしかないな」
なにがなんでもやる気だ。まあいいか、楽しそうだし。
「ヨウくんも呼ぼうよ。どこにいるのか分からないけど、見かけたら誘おう」
明奈ちゃんがにっこりしたのを見て、私は思わず凍りついてしまった。
ヨウは私たちと遊んでくれるだろうか。本当は人間を恨んでいるのなら……ヨウが人間と遊んで楽しいのかなんて、今となっては分からない。
*
その日の夜、私は布団に潜って考え事をした。
携帯の時計を見たらもうすぐ零時。おばあちゃんはとっくに眠っていた。
なんだか眠れそうになくて、縁側で涼むことにした。障子を開けてみて、目に飛び込んだ光景にぎょっとした。ヨウがブロック塀の上を歩いている。
「ヨウ、なにしてるの」
おばあちゃんを起こさないように静かに声をかけると、こちらを振り向いた。
「散歩」
それからひょい、と塀に座って脚をだらんと投げ出した。
「イチカなんで起きてんの? 人間って、夜になると寝るんじゃねえの?」
「眠れないときもあるの」
私は縁側に腰掛けて障子を閉めた。
ヨウは膝に頬杖をついた。
「体調、よくなったか? 隠れ里に行ったあと、妖気に当てられすぎてぼんやりしてたぞ。なんかイチカらしくないくらい暗くなってたし、ぐったりしてすぐに寝たしな。カヨコが心配して変な儀式始めたから、お稲荷さんのつまみ食いさせてもらった」
「妖怪の領域は人間に適さないっていうのがよく分かったよ。お陰でなにが起こったか、あんまり覚えてない」
最後の方は覚えていない、それは本当だけれど、あのとき聞いた話はいやに鮮明に覚えている。
「ヨウ」
「ん?」
頬杖をついたまま、私を真っ直ぐ見つめて首を傾げる。私は彼の緑の目を見つめ返した。
「ごめんね」
「なにが?」
言ったあと、ヨウは視線を外した。
「なにを反省してるんだか知らないけど、少なくとも俺は、怒ってない」
「……うん」
私は膝を抱き寄せた。ヨウがちらと私に視線を送る。
「らしくないな。まだ妖気に当てられたまま本調子じゃないのか。よし寝ろ。明日、元気なイチカに戻ってたらまた遊ぼうぜ」
ヨウがニッと笑った。
正直、ヨウの本音は分からなかった。きっと人間を恨んでいる。あの手ぬぐいを外さないのも、その恨みを薄れさせないためなのだろう。おユキさんを捜して、復讐したいと思って、そのおユキさんと度々見間違える私なんて、きっと憎いはずだ。
それでも、ヨウが明日も遊ぼうと言ってくれることに、私は安心してしまっていた。
遊びたいと思ってしまうのは、私の勝手な意思で、ヨウの気持ちをちゃんと考えていない証拠かもしれない。
ブロック塀から去ろうとしたヨウに、私は声をかけた。
「あのね!」
後ろを向いていたヨウが、顔だけこちらを向く。私は暗闇の中に浮かぶ緑の瞳を、じっと見つめた。
「明日の夜、花火をやるよ。ヨウもおいでよ」
「ほお」
ヨウは目をぱちぱちさせた。
「面白そうじゃねえか。明日の夜な。分かった」
そう言って彼は、ブロック塀の向こうに消えた。
よかった、「面白そう」と言ってくれた。ヨウは私の友達でいてくれている。
そうほっとしたが、しばらくするとまた変な不安が襲ってきた。本当は楽しくないくせに、なにか理由があって、仲良しのふりをしようとしているのだろうか。
嫌だ。ヨウに対して、こんなに疑心暗鬼になる自分が、すごく嫌だ。
今夜は雲が多くて星が見えない。ヨウが去ったブロック塀をしばらく見つめてから、布団に戻った。
*
翌日の夜、日が沈んでも八月の外気は蒸し暑かった。うっすら雲が浮かんだ空にプツプツと星が見える。風は殆どない。
家の前には晴樹と明奈ちゃんが水を溜めたバケツを用意していた。
手持ち花火の大袋がひとつ、未開封のままアスファルトに置いてある。カラフルな字でたくさんの文字が書き込まれていて、見ているだけで楽しくなってくる。
山の方からテクテク歩いてくるヨウが見えた。
「あっ、来た来た」
合流してきたヨウも中に混ざって、いよいよ花火が始まった。
明奈ちゃんが花火のパッケージの裏を楽しそうに読んでいる。
「どれからやろうか」
「蛇花火ってどんなだ? 細長いのか?」
ヨウも覗き込んでいる。晴樹がバケツの隣にしゃがんだ。
「燃えカスがヘビみたいになるんだよ。見たことない?」
「見たことない。花火って打ち上げるのしか見たことないんだ」
ヨウが晴樹の隣にしゃがむ。そうか、ヨウは妖怪だから、人間のおもちゃは遊んだことがないのかもしれない。打ち上げ花火は山からでも見える。妖怪だとは知らない晴樹は驚いた。
「本当かよ!」
「本当。この棒がどうなるのか、想像もつかん」
ヨウは明奈ちゃんから受け取った花火をじっくり眺めた。晴樹が地面に置かれたライターを拾った。そのライターでヨウの持つ花火にぽっと火がつける。途端に、ヨウの手元で花火がパアッとオレンジ色の火花をあげた。
「わ、すげえ」
ヨウの手元で弾ける火花が、辺りを眩しく照らす。彼の瞳に炎の色が反射して、きらきら輝いた。元から不思議な色をしている目に炎の色が加わると、一層宝石のようで、私は思わず見入ってしまった。
「きれいだね!」
明奈ちゃんも、持っている花火に火をつけた。
次々に噴き出す火花が、色とりどりに表情を変える。そのくるくる変わる光に当てられているヨウの横顔は、とても無邪気だった。輝く瞳がきれいで、何度も目を奪われる。
ずっと見ていたせいか、ヨウが視線に気づいてこちらを向いた。煌めいていた目を細め、小さな牙を見せて笑う。
「ほら見て、イチカ。火がきらきらして、すっげーぞ!」
「うん!」
彼が人間を恨んでいることなんて、今はもう忘れてしまった。
私も花火を一本貰って、火をつけてもらった。ぱちぱちと火花がはぜる。火の光に照らされてカラフルになった煙がふわふわと上がって、私の視界からヨウが消えかけた。
やがて、最後のひとつの火花が散って、ぷしゅんと細い煙を上げながら終焉を迎えた。
明奈ちゃんが終わった花火をバケツに突っ込んでから、私に新しい花火を差し出した。
火が点くと、今度はまた違った色味の炎が出てきた。
「ハルキ、これは?」
ヨウが花火のパッケージをごそごそ漁っている。
「それはロケット花火。面白いぞ、これ」
晴樹がロケット花火に点火した。大きな音と派手な火花が飛び散って、私たちは歓声をあげた。音が宴会の会場まで聞こえたかもしれない。次はねずみ花火に火をつけた。今度は明奈ちゃんの悲鳴が宴会会場まで届いていそうだ。
様々な花火をひとつずつ楽しんでいく。田舎の夜空に私たちの笑い声が響く。初めて花火で遊んだというヨウは、どれも新鮮だったみたいで全部に歓声を上げていた。
いつの間にか、最後の線香花火だけが残っていた。
「もうおしまいか。あっという間だったね」
しゃがんで手元で線香花火をぱちぱちさせながら、明奈ちゃんが言った。
「来年も再来年も、こうして一緒に花火、やりたいな」
「そうだね、来年も再来年も……」
私はそう口をついて、膝を抱き寄せた。来年も再来年も、私はまた、夏休みにこの里へ遊びにくるだろうか。
「秋になったら一緒に学校行って、冬は雪合戦したい。春は桜がきれいなんだよ」
明奈ちゃんの声は震えていた。
「ねえ一夏ちゃん、どうしても帰っちゃうの?」
明奈ちゃんが線香花火から顔を上げた。晴樹とヨウも、同時にこちらを見た。ぱちぱち。私は線香花火が立てる小さな火花を見つめた。明奈ちゃんがか細い声を出す。
「ずっと、ここにいるわけじゃないんだよね」
「うん。ごめん」
「どうして、楽しい時間は一瞬で終わっちゃうのかな。やだよ。もっと遊びたい。秋になっても冬になっても」
明奈ちゃんの線香花火から、光る粒がぽと、と落ちた。アスファルトに落ちた赤い粒は、しゅっとその光を沈ませた。
「一夏ちゃん、帰っちゃやだ……」
ぽた、ぽた、と落ちた線香花火の隣に、明奈ちゃんの涙が落ちた。一滴、二滴とアスファルトを黒く濡らす。晴樹が明奈ちゃんの肩に手を置いた。
「泣くなよ。一夏が困ってるだろ」
「ごめん……でも」
明奈ちゃんがうずくまったまま、膝に顔を埋めた。私だって、別れるのは寂しい。どうしようもない無力感に戸惑っていると、ヨウが明るい声で言った。
「好かれててよかったなイチカ! あっ、今喋った衝撃で花火落ちた」
「あはは、黙ってればよかったね」
「イチカのも今落ちた」
「黙ってればよかった」
私とヨウのやりとりを見て、晴樹が笑った。いつの間にか、明奈ちゃんもくすくすと笑っていた。
「とりあえず、夏だけでもさ」
ヨウは棒だけになった花火の残骸を眺めた。
「来年もこれやりに、また来ればいいんじゃねえか」
「そうだね」
私も残骸を見つめた。
「絶対、また遊びにくるから」
おばあちゃんが帰ってくる前に、花火の燃え殻を片付けて解散した。
火薬の匂いを消すために、すぐにお風呂に入った。そのあとで、夜風に当たりたくなって、縁側でぼうっと庭を眺めた。すると例の如く、ブロック塀の向こうからヨウがやってきた。
「ヨウ、さっきはありがとう。ヨウのお陰で空気が変わったっていうか」
私もちょっと寂しくなって、泣きそうになったから、ああして空気を変えてもらえて助かった。
「俺、なんかしたっけ?」
ヨウがブロック塀に腰掛けた。とぼけたのか本当に雰囲気を読めなかったのか分からない言い方に、私は苦笑いした。ヨウがニッと笑う。
「楽しかったな。人間の火の魔法」
「火の魔法かあ」
私もよく知らないが、花火が色とりどりなのは、「炎色反応」という化学反応らしい。でも妖怪のヨウには、魔法に見えるのだろう。
「でさ。俺も見せたいんだ。ほら」
ヨウがブロック塀から手招きしてきた。促されるまま近づいて、ブロック塀の向こうを背伸びして覗き込む。彼が指さす方を見ると、私は呼吸を止めた。
畑と民家のある道から、奥の山の方まで、点々と白い光が道を作っている。ひとつひとつがぼんやりした暗い光で、暗い道を照らすでもない。鈴蘭の花のようなかわいらしい光の粒が、ただゆらゆらと光っているのだ。
ヨウが自慢げに言った。
「あれ、狐火っていうんだ」
「狐火?」
「すごいだろ。妖力ってやつ。火の魔法が使えるのは人間だけじゃないんだぜ」
あれはヨウが見せている光なのか。私は光の粒に釘付けになった。
花火のように華やかではないけれど、まろやかな優しい光は、どことなく心をほっとさせる。
「でもこんなの序の口」
ヨウは塀の上で言う。
「狐の炎の魔法は、こんなもんじゃないんだぜ」
「もっとすごいことができるの?」
私はヨウを見上げ、彼の瞳を覗き込んだ。ヨウが自信ありげに、牙を覗かせる。
「いざとなれば、人間の里なんか焼き払えるんだよ、俺たち狐は」
頭の中が真っ白になった。
なにを油断していたのだろう。ヨウは人間を恨んでいる。それを忘れてはいけない。
どうして、一緒にいて楽しいと、私の価値観を押し付けてしまうのだろう。
「ごめん……」
「え? なに?」
ヨウの横顔の、ちらりと覗いた牙が鋭く光る。私は後ずさりして縁側に戻った。
「寝るね。おやすみ」
会釈した私を一瞥して、ヨウはすっと、ブロック塀から姿を消した。
友達だけど、友達のままじゃだめだ。
私が一緒に遊びたいからって。
ヨウは妖怪だ。なにを考えてるかなんて、分からない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます