狐の隠れ里

「イチカってさ、狐の呼坂のこと調べてるんだよな」

 縁側で宿題の漢字の書き取りをしていた私にヨウが言った。

 八月も中旬に差し掛かる、とある晴れた昼下がりだった。

「そんなとこにいないでこっち来たら?」

 ブロック塀の上で座っていたヨウは、私の言葉を受けて庭に降りてきた。

「調べてるんならさ、狐の隠れ里に行ってみないか?」

「隠れ里?」

 ノートから顔を上げると、ヨウは頷いた。

「狐の呼坂をずーっと下ったところにあるんだ。里っつっても、人間の里みたいに建物があるわけじゃない。ここらへんが縄張りの化け狐が暮らしてる、そういう領域」

「そんなところがあるの?」

 すごい、絶対行ってみたい。目を輝かせた後、ふと不安になる。

「でも、私が行って大丈夫なの?」

 この里では、人間と化け狐の仲は険悪そのものだ。人間の私ひとりが大勢の化け狐たちに囲まれたらと思うと、ちょっと怖い。

「まさか、私を生贄にするつもり……」

「なんの生贄だよ。仮にそうだとして、お前なんか捧げられても貰った方が困るっつの」

 ヨウは毒づいて私の頭を鉛筆でぴしっと叩いた。意地悪を言われた私は、むくれながらもう一度尋ねた。

「じゃ、なんで急にそんなこと言い出したの?」

「んー……まあ、なんだ」

 急に濁しはじめた。ヨウはごにょごにょと、ばつが悪そうに言う。

「今まで、隠れ里の狐には、人間と遊んでたこと内緒にしてたんだよ。それがばれちゃってさ」

「怒られたんだ」

「それでさ、隠れ里の長の狐が、イチカに会いたいって言ってんだ」

「なるほど。私が行ったら許してもらえるの?」

 聞くと、ヨウは首を傾けた。

「許してもらえるっつうか、もう怒ってないけど。とにかく会いたいって」

 理由はなんであれ、本当に化け狐の棲む場所なんてそうそう行けるものではない。自由研究にも書き足せる。

 隠れ里というくらいだから、きっとおばあちゃんも近所の人たちも、誰も知らないような場所だ。わくわくで緩んだ顔の私に、ヨウは真剣な面持ちで言った。

「でもイチカ、これだけ守ってほしい。そんな場所があること、絶対に他言しないでくれ」

 彼は縁側に座る私の隣に腰掛けた。

「人間から迫害された化け狐が、やっと見つけた静かに暮らせる場所なんだ。見つかったらまた居場所をなくす」

 ヨウが狐だということも必死に隠し通しているのだから、それは大丈夫だ。

「うん、絶対に言わないよ」

「その言葉を信じる。じゃ、行くか」

 ヨウがすっと立ち上がった。

「今から?」

 目を丸くすると、ヨウはこくこくと頷いた。

「今から。急がないとヒワさんの気が変わる」

「ひわ……?」

「狐の長」

 答えながら、身軽に庭を横断して、ブロック塀に飛び乗った。

「玄関の前で待ってる。手ぶらでいいから」

 ヨウの後ろ姿が、ブロック塀の影に消えた。マイペースな奴だ。私はノートを畳んで立ち、玄関へ向かった。

 テレビを観ていたおばあちゃんに、出かけてくるとひと声かけ、玄関の引き戸をガラガラ開ける。外で待つヨウが、早速歩き出す。私は早歩きで彼を追いかけた。

 畑の間を突き抜けているアスファルトの道を進む。今日もカンカン照りだ。

「ヒワさんっていったっけ、長は暦って狐じゃないの?」

 神社で読んだ、狐の呼坂の伝説に、そんな名前が出てきた。ヨウはさくさく歩きながらこたえた。

「コヨミねえちゃんはもう亡くなってだいぶ経つよ。俺も会ったことない」

 亡くなっていたと聞いて驚いた。妖怪って、死ぬんだ。

「今はヒワさんって狐が長なんだね」

「コヨミねえちゃんにいちばん信頼を置かれてた、九尾の狐だよ。でかくて真っ白でかっこいいんだ」

 ヨウが人差し指を立てた。

「すげえんだぞ、妖怪が尊敬する妖怪だよ。ほぼ神様みたいな妖怪だ」

「へえ!」

 おばあちゃんの部屋で見た本に、化け狐にもランクがあると書いてあったのを思い出す。暦さんもヒワさんなる狐も、最上ランクの気高い狐なのだろう。

 ひたすら歩くこと数分、私たちは山の麓まで来た。隣に神社を見ながら、坂になっている山の小道を上がっていく。この先が分岐点で、狐の呼坂への入り口だ。

 山の裾まで来るとアブラゼミの暑苦しい鳴き声が人の住む辺りより大きく響いている。緩やかな坂をのぼって、見えてきた分岐で立ち止まった。いよいよ、狐の呼坂だ。月十蒔里の住民が近づくことを拒む、狐の呼坂。

「ここから先は少し暗いし、人間の手入れが入ってない。足元気をつけろよ」

 ヨウが私に声をかけてから、テクテクと暗い坂道に入っていった。私も追いかける。

 ヨウの言うとおり、そこからはアスファルトが途切れて湿った葉っぱが地面を埋め尽くす道に変わっていった。

 少しだけ進んだ先に、ヨウと初めて会ったときに彼に助けてもらった場所があった。私が落ちて転んだ、その場所を覗き込む。下は結構急な斜面になっていて、先は木だらけで暗くてよく見えなかった。こんなところに落ちたのかと思うとぞっとした。

 こちらを振り返らずにざふざふと葉っぱを踏んでいくヨウを追いかける。

「ヨウ、裸足でこの道は歩きにくくない?」

 質問すると、ヨウはちらと振り向いた。

「俺にとっては裸足の方が歩きやすい。本来の姿はキツネだから、直接地面を踏んでる方が自然なんだ」

「それじゃ、その手ぬぐいは? うっかり踏んだら、転んじゃうよ」

 ヨウの左足の白い手ぬぐいに目をやると、彼は自身の足元を見た。

「まあ、これは邪魔くさいけど外せないんだ」

「固く縛られてるの? 切っちゃったら?」

「いや、固いわけじゃないんだけどさ」

 ヨウは少しだけ躊躇ってから言った。

「これは、おユキが結んだものだから」

 おユキ。

 彼がその名前を呼ぶとき、いつもより少しだけ、声色が柔らかくなる。

「大事なもの、なんだね」

「まあ……信念、というか」

 それからまた、明るい口調になった。

「踏んで転ぶなんてアホなことしねえよ。特に山道では」

 そうだ、山はむしろヨウの庭のようなもので、歩き慣れていて当然だ。

 私はというと、山なんて学校行事のハイキングで行くくらいで、こんなに滑る坂道を下るのは初めてだった。すり足気味でずるずると歩く。さっさと歩いていくヨウの背中が次第に遠くなる。

「ちょっと待って、ヨウ、歩くの速い」

 私は近くの木に手をついてヨウを呼び止めた。

「あ、わり。置いてくとこだった」

 ヨウが振り向いて、立ち止まって私を待ってくれた。

「こんなところに置き去りにされたら困るよ」

 笑いながらヨウに歩み寄って、ふいに足を滑らせる。

「ひゃっ」

 体が地面に倒れそうになるのを木に掴まってなんとか止めた。

「転ぶなよ、大丈夫か?」

 ヨウが手を差し出してきた。掴まりそうになってハッと手を引っ込めた。

「それだめ、触っちゃう」

「おお、そうだった」

 ヨウも手を引っ込めた。自分が気をつけるから大丈夫、なんて言っていたくせに、結構無防備だ。

「パーカーのフードなら掴んでもいい?」

 ヨウの首の後ろのフードを指さすが、ヨウは首を振った。

「だめ。これも俺が化かしてるものだから、言ってみれば服も俺の一部みたいなもんなんだ」

「そうだったの?」

「そ。だから無駄に妖力使わないように、シンプルで薄着」

 ヨウは言いながらパーカーのポケットに手を入れた。そして中から鉛筆を出す。

「こんなときこそ、これだよな」

 手の代わりに鉛筆を差し出された。握ると、体温に包まれていたせいか、ほんのりと温かい。

「これはこれで指が近いから、うっかりしてると触っちゃいそうだね」

「端と端持とうぜ」

 ヨウがいたずらっぽい笑みで言って、にじにじと指を鉛筆の端まで這わせた。私も鉛筆の先に手を持ち替えた。手の距離が鉛筆の長さと同じ距離になる。

 ヨウが体を前に向けて歩き出した。一歩出遅れた私の手もとから、キュポンと軽い音がした。見ると、手の中に鉛筆のキャップだけが残っている。ヨウが振り向いた。

「……ぷっ」

 間抜けな光景に吹き出してから、ヨウは戻ってきてキャップに鉛筆を突っ込んだ。

「もうちょっと、真ん中持つか」

 また少し、手が近くなった。


 *


 坂道を進むにつれて、どんどん暗くなっていった。足場は細くなって、足元を見るともはや道らしい道は通っていなかった。

「暗いね。今、何時くらい?」

「まだ昼だよ。この辺りは木が生い茂ってて暗いからすごく遅い時間みたいに感じるけどな」

 暗いし道もないし、時間の感覚もなくなる。振り向いたら、自分がどこから来たのかも分からない。うっかり置き去りにされたら、いよいよ自力で帰れない。道を分かっているヨウだけが頼りだ。鉛筆をぎゅっと握り締めていたが、なんだか頭が痛くて、手に力が入らなくなった。

「そろそろ、ちょっと意識が朦朧としてきたんじゃないか」

 ヨウがぽつり、私に言った。

「この辺は、人間の地図には載ってない、妖怪の領域なんだ。妖怪の放つ空気が強いところにいると、耐性のない人間はちょっとクラクラっとくるんだそうだ」

 蝉の声が降り注いでくる。声と声が重なって、わんわんわん、と森じゅうを反響し耳から頭をおかしくさせる。ぼうっとする。気がついたら鉛筆から手が離れてしまったが、ヨウは鉛筆をもう一度差し出してはこなかった。

「あとは迷う道じゃないから、もう鉛筆は大丈夫だな」

 手が遠くなるのは、不安だ。まだ鉛筆を握っていたい、と言いたかったが、全身がずっしりして声が出ない。瞼が重く落ちてくる。

 そのとき、突然ヨウが立ち止まった。

「連れてきました、ヒワさん」

 私は閉じてかけていた目を開いて、思わず息を呑んだ。

 私の身長よりもっと大きな、真っ白なキツネが一匹、木々の隙間に座っていた。

 ぴんと立てた耳から、さらさらのビロードのような毛並みの体、扇のように揃った九本の尻尾まで、全てが雪のように白い。こちらをじっと見つめる瞳は、海のような深い青だ。

 なんて美しいのだろう。そこにいるだけで体が強ばるような、圧倒されるほどの威厳を放っている。

 すぐに分かった。このキツネが、狐の隠れ里の長、ヨウが「ヒワさん」と呼ぶその狐に違いない。

「紹介する。この方がヒワさん……ヒワタリ様だ」

 ヨウが狐を手で示す。私はまだ、目の前の白い狐に圧倒されていて、声が出なかった。なんだろう、緊張で体がびりびりする。妖怪の領域とやらのせいで重くなっていた体が、無理に叩き起されたような心地がした。

 固まる体を曲げて、震えながら頭を下げる。

「はじめまして、一夏です」

 と、元気なおじいちゃんの声が返ってきた。

「会いたかったぞ、一夏殿!」

 顔を上げると、白い狐が青い瞳を細めていた。

「突然お呼びたてして驚かせたな。ワタシが、君に会いたいと呼んでおった日渡だ。ヒワさんって呼んでくれ」

 ヨウのように人の姿をしていないが、はっきりと人間の言葉が聞こえてくる。そして威厳に満ちた美しい姿からは想像もできないくらい、明るくて気さくな喋り方をする。

 人間と狐は仲が悪いというけれど、この狐はとても私を歓迎してくれている気がした。

 日渡さん、ヒワさんが無邪気に九尾を揺らし、牙の並んだ口を開けて笑う。

「お会いできて光栄だ。なんせヨウがわざわざ人里なんかに下りてまで会いにいく子だ、気になって気になって仕方なかったのだ」

 彼が鼻面をヨウの方に向けると、ヨウはぎょっとして、頬を赤らめた。

「べ、別にこいつにだけに会いに行ってるわけじゃない!」

 怒ったヨウを面白がって、ヒワさんはけらけらと笑っていた。

 こんなに神秘的な外見なのに、話す印象はとてもフランクだ。偉い妖怪というのが信じられないくらい、ヒワさん親しみやすい人柄……もとい、狐柄だ。

 ひとしきりヒワさんに弄られたのち、ヨウはそれより、と切り出した。

「イチカは月十蒔里の狐伝説について調べてるんだ。俺は若いからあんまり詳しいこと知らないけど、ヒワさんなら、伝説の起源のときからここにいますよね」

 するとヒワさんは、ふいに真面目な顔になった。

「伝説、と呼んでるのは人間だけだけどな。ワタシたちはこうして実在しておる。ヨウの言うとおり、ワタシたちは全ての事実を目の当たりにしてきた。研究に協力させてもらおうか」

 私は目を輝かせた。

「ありがとうございます!」

 すごい。化け狐から狐伝説の話を、それも当事者の話を聞かせてもらえるなんて。

 ヒワさんはマイペースに話し出した。

「何千年も昔。この山の麓の月十蒔里は、ワタシたち化け狐の棲みかだった」

「えっ、そうなんだ。人間が住んでいるときの話しか、聞いたことない」

「その頃はまだあそこも森で、今みたいに開発なんかされていなかった。狐も、今のように人間への未練や恨みみたいなものから生まれるんではなくて、他の妖怪と同じで、いつの間にか自分が妖怪になっていたり、生まれたときから妖怪だったり、皆バラバラだったが、あそこで平和に暮らしていた」

 ヒワさんの澄んだ声を、私は頷きながら聞いた。

「あるとき、山の中で暮らす人間たちがあの場所の近くまでやってきて、木々を開いてあそこに人間の里を作ろうとした。暦ねえちゃんは自分と仲間の狐の棲みかを奪われまいと、人間の姿に化けて人間たちにこの場所をとらないでくれと説得しに行った」

 ヒワさんは伏せ目で続けた。

「しかし人間は、暦ねえちゃんを変な奴が来たと、武器を向けた……」

 私は思わず、息を止めた。

 それなら、つまりもともと狐のものだった月十蒔里を奪ったのは人間の方だった、ということだ。

「長の暦ねえちゃんが攻撃されたのだ、当然、彼女が治める狐たちは人間への反撃を考えた。しかし暦ねえちゃんは、人間の命を奪うな、と」

 私は黙って聞いていた。というか、声が出せなかった。ヨウも、静かに立ち尽くしていた。

「かといって、人間が自分たちの場所を奪って里を開発しているのを黙って見過ごすわけにもいかない。狐は人間の邪魔をした」

 作物を荒らしたりとか、夫婦仲を悪くしたり、一時的に子供を神隠しにあわせたり。ヒワさんは、声のトーンを落とした。

「ワタシたちは絶対に人間を脅かさずに、それでいて自分の身も守りながら、どうにかして棲みかを取り返そうとした。せいぜい小さないたずらで人間を困らせるくらいしかできなかったがな。そうしてるうちに、人間は時代を追うごとに数が増えて、山を切り開いてしまった。妖怪の棲みかを次々と奪ったのだ」

 ヒワさんの青い瞳が、ちら、と私を見据えた。

「あるときついに、一匹の狐の堪忍袋の緒が切れた。妖怪ならば妖怪らしく、人間の里など燃やし尽くしてしまおうと、炎を放った」

 ふいに、神社で見た絵巻物を思い出した。そうだ、仲間を殺されて、人の小屋に火をつけた狐がいる。

 それも、真っ白な。

「でも、戦おうとしたのが却って失敗だった。狐は完全に、人間に忌み嫌われてしまった。人間が陰陽師だか術者だかを連れてきて、暦ねえちゃんと話し合いが行われた」

 彼はふうとため息をついた。

「暦ねえちゃんは、これ以上人間を傷つけてしまわないようにと、狐たちに呪いをかけた。そうして狐はとうとう、人間に触れることすらできなくなった」

 驚いた。狐が人間に触れない呪いは、狐である暦さん自身が、戒めとして狐へかけた呪いだったのだ。

 ヒワさんがため息混じりに言う。

「それだけじゃない、人間は狐が里に近づけないよう、神社なんか建てて境界線を引いた」

 私は口に手を当てた。息をするのを忘れていた。

 ヒワさんの白い毛が眩しくて、その美しさが余計に私をぞわぞわさせる。

「それからだ。狐は人間に嫌がらせをするために、人間に近づけるあの坂で、通りかかる人間を待つ――そこが、狐の呼坂と呼ばれるようになったのは」

 そうして、彼はにこっと青い瞳で微笑んだ。

「以上、これが化け狐伝説の真相だ」

 私は呆然と立っていた。

 知らなかった。そんなふうに考えたこともなかった。狐が人間にこんなに酷い目に遭わされていたなんて。

 愕然とする私を見て、ヒワさんはハッとした。

「ああ、すまない。そんなに驚くとは思わなかった。その、人間が耳を塞ぎたくなるようなことを言って、ちょっと脅かしてやるつもりで……」

 こんなに威厳たっぷりな姿なのに、叱られた子供みたいにむにゃむにゃと語尾を濁している。

「狐を脅かしたのはお主じゃないんだから、そんなに責任を感じるとは思わなかったのだ。そこまで傷つけるつもりはなかった」

 そんなヒワさんを眺め、ヨウが呆れ目をした。

「そういうとこですよ、ヒワさん。考え方も行動も、まんま昔ながらの妖怪で、すーぐそうやって陰気ないたずらする」

「ヨウ、お前さんだっていたずらは好きだろう? 仕方ないのだ、我々は妖怪だからな」

 開き直ったヒワさんは、再びにこっと目を細めた。

「触れられない呪いは暦ねえちゃんによる強力なものだが、神社の結界は経年劣化で今はもうまるで機能していない。だが我々狐も、もう人間にちょっかいを出す気も失せた。今じゃあわざわざ里に行くのなんか、ヨウくらいしかおらん」

 と、そのとき、ヨウがあれっと声を上げた。

「鉛筆、どっか落とした。ちょっと捜してくる」

 ヨウは来た道を、たたたっと駆けていった。

 私は、その場から一歩も動けなかった。体が重いような固いような、痺れているような感じがする。人間が妖怪の領域に入ると具合が悪くなると、ヨウが話していた。この感じがそれだろうか。

 いや、それだけではない気がする。この悪寒の正体はきっと、ヒワさんから向けられた明確な悪意のためだ。

 謝ってはくれたが、意図して私に意地悪をしたのは間違いない。里の人間が狐を憎むのと同じで、狐も人間を憎んでいる。それは想像できていたけれど、思っている以上に根が深い。それに、狐の方が人間に居場所を奪われたというし、狐は人間を傷つけなかったのに、人間は狐に武器を向けた。狐の恨みは、真っ当だった。人間の方が身勝手だったのだ。

 ヒワさんの真っ白な九尾がふよふよと揺れる。美しくて惹き付けられるのに、どこか胸がざわざわする。

「えっと……」

 私は、緊張しながらひとつの疑問を口にした。

「ヨウは……ヨウはどうして、おユキさんを捜してるのか、ヒワさんは知ってるの?」

 おユキさんを捜している、それは知っているのに、どうして会いたいのかまでは、ヨウからは話してくれない。でもヨウを含めた狐の長であるヒワさんなら、知っているかもしれない。

 以前、晴樹から聞いたことを思い出す。この辺りの化け狐は、この世への強い未練や思い入れで、妖怪として化けて出る。そこに今聞いたヒワさんの話を重ねると、ヨウはもしかしたら、人間に恐ろしい目に遭わされた狐なのかもしれない。

 ヨウは私たち人間に対して友好的だったから、恨みはないように見えるけれど。

「ヨウは、人間に……おユキさんに、酷いことをされたの?」

 心臓が早鐘を打つ。ヒワさんはしばし無言で座っており、やがて、ゆっくりと青い目を閉じた。

「直接的な理由ではないがな。恨んでいるかどうかは、ワタシには分からない」

「なにがあったの?」

「ヨウはもともと、単なる動物のキツネだった。子ギツネのとき、狐の呼坂を歩いていて、うっかり里の人間に見つかった。妖怪でなくただのキツネも、妖怪同様に嫌われていたからな、ヨウは人間に武器を向けられた」

 やっぱり。ヨウは人間のせいで、怖い思いをしたのだ。ヒワさんが優美に尻尾を揺らす。

「ヨウは後ろ脚に怪我をした。死ぬほどの怪我ではなかったんだが、そこへ来た『雪』という人間が、ヨウを気の毒に思い、怪我を介抱しようとして手ぬぐいを巻いた」

 どきりとした。ヨウが足首に巻いている手ぬぐい。

 ここへ来るときヨウもそう言っていた。おユキさん、つまり雪さんが巻いたのだと、話していた。

「放っておいても治る程度の怪我だったんだがな。その手ぬぐいのせいで、あいつに人間の匂いがついてしまった。そのせいで、まだ子ギツネだったのに、ヨウは親ギツネから捨てられたのだ」

 キツネの体では自分で外せなかったしな、と話すヒワさんを、私は呆然と見ていた。頭がくらくらする。

「それじゃ……ヨウは、人間のせいで寂しい思いをして……恨んで妖怪になってしまったの?」

「あいつ自身かどう考えてるかは、知らない。ワタシには分からない」

 ヒワさんはそう言うけれど、私には恨まれているようにしか感じられなかった。

「あの手ぬぐい、人間に化けていれば自力で外せるのに、ヨウは未だに外さないのだ」

 ヒワさんが呟く。

 きっと。きっと、それは、巻き付けた人間を忘れないために……。


『これはおユキが結んだものだから』


 ヨウの言葉が、今更立体になって私の頭に響いてきた。

 知らなかった。ヨウがおユキさんに会いたがるのは、おユキさんが大好きだからだと、無意識に思い込んでいた。

 違ったのだ。おユキさんを捜していたのはきっと、彼女への復讐のため。だからどうして捜しているのか、聞いても教えてくれなかった。

 復讐のために妖怪になって、捜しているのだ――。

 ヨウはおユキさんを見つけたら、どうするつもりなの、と聞こうとしたときだった。

「鉛筆、あった! よかったあ」

 遠くからヨウの大声が聞こえた。ヒワさんが閉じていた青い目をゆっくりと開く。

「詳しいことは、ヨウ本人に聞いてくれ」

 私とヒワさんがなんの話をしていたのか知らず、ヨウは鉛筆を高く翳して走ってきた。

「あぶねー、これ落としたらイチカを案内できなくなる。さっきもこれ、両端握ってきたんだもんな」

 こんなふうに私に笑いかけてくれるけれど、ヨウは、人間を恨んでいる。そんな素振りを一切見せないのも、人間を油断させて近づくため……?

「ヨウ……ごめん。なんか頭が痛い。私、帰るね」

 ずる、と足を引きずる。ヒワさんが心配そうに言った。

「大丈夫か? 仕方ない、ここは妖怪の領域だからな。人間はこれほどの妖気には耐えられぬものだ」

 多分、それもあるのだろう。こんなに心が不安定になるのも、きっとそのせいだ。今は、誰も信じられない。こんなに一緒にいたのに、ヨウが怖い。

 ヨウがこちらに歩み寄ってきた。

「じゃ、戻ろうか。はい」

 ヨウが早速、鉛筆の先を差し出してきた。しかし私は、それを拒んだ。

「大丈夫、ひとりで帰れる」

「帰れないだろ。道、入り組んでるし」

 ヨウは首を傾げた。私は頭を振った。

「大丈夫だって」

「なんでそんなこと言うんだよ。いいから行くぞ」

 ヨウがちょっと、苛立った声を出す。私はびくっと肩を弾ませた。

「う、うん……」

 素直に頷くと、彼は私に鉛筆をさらに突き出してきた。私は恐る恐る、その先っぽを握る。私はヒワさんに、深々とお辞儀した。

「お邪魔しました」

「また遊びに来てくれ」

 ヒワさんがひらひらと、手を振る代わりに尻尾を振った。


 *


 薄暗い山道をざくざくと歩いた。鉛筆を挟んで向こうのヨウは、真っ直ぐ前を向いてこちらを振り向かない。

「ごめん。急に帰りたがったりして」

 声をかけると、ヨウは少し間を置いてからこたえた。

「別にいいよ。体調、悪くなったんだろ」

「うん」

 また、沈黙が訪れた。木々の間から夕焼け空が見える。少しだけ冷えた空気の中で、カナカナカナとヒグラシが呟いている。その寂しい声と、ざふ、ざふ、という、葉っぱが擦れる音だけが耳を擽る。

 ヨウの茶色い後ろ頭を眺める。あれだけもどかしかった鉛筆の距離が、今度は近すぎて怖い。

 無言に耐えかねたのか、ヨウがまた、会話を切り出した。

「ヒワさんの話、あんま気にすんなよな。本人も言ってたけど、妖怪らしく人間を脅かしたかっただけで、別にイチカのことが嫌いだったわけじゃないんだよ」

「うん、ありがとう」

 私は濡れた斜面に目を落とし、ぽつぽつ言った。

「人間は、狐に酷いことしたんだね。知らなかった」

「んー、それは狐にだけじゃないな。人間って奴は、自然を壊して色んな動物にも植物にも迷惑をかけている。けど、強者というものはそういうものじゃねえの。勝った者、奪った者が正義みたいなとこ、あるじゃん。ある程度仕方ないだろ」

 ヨウのそれは、皮肉なのか、人間を許しているのか分からない言い方だった。

「そんなことより、なんでさっき、ひとりで帰るなんて言ったんだよ。迷子になるくせに」

 ヨウが先を歩きながら聞いた。私は震える手を、そっと鉛筆から離す。急に軽くなった鉛筆に違和感を感じたか、ヨウが振り向いた。

「キャップが外れた、わけじゃなさそうだな」

「うん。でも鉛筆なしでも大丈夫」

「そうか。転ぶなよ」

 ヨウはもう、鉛筆を差し出してはこなかった。パーカーのポケットに鉛筆をしまった手は、そのまま出てこなかった。

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