晴樹と健太の妖怪検証
「一夏、ちょっと見てほしいものがある」
晴樹が家を訪ねてきたのは、蒸し暑い昼下がりのことだった。明奈ちゃんを連れていなくて、晴樹だけで訪ねてきたのである。
「どうかしたの?」
晴樹に引っ張られて、お隣の彼の家に連れていかれた。玄関からすぐの階段を上り、案内されたのは晴樹の部屋だった。青っぽいカーペットが敷かれたきれいな部屋で、机がふたつある。恐らく、彼と彼のお兄ちゃん、健太さんのものだ。
「見てほしいものって?」
キョロキョロする私に、晴樹は無言で部屋の奥に進みベランダに続くガラス戸の前に立った。
「これ」
ガラッと晴樹がガラス戸を開け、外を指さす。私はその指の先を覗いた。そしてベランダに溜まった砂についた足跡に私は目をぱちくりさせた。
肉球の跡だ。砂を踏んづけたみたいに、肉球の形に跡が残っているのだ。
「猫が来たのかな」
私が間抜けなことを言っている横で、晴樹が神妙な顔で言った。
「さっき、ここにヨウが遊びに来たんだよ」
「えっ、ヨウが?」
ハッと息を呑んだ。そうだった、ヨウは見た目を人間の姿にしていても、足跡だけは狐になってしまうのだった。晴樹が眉を寄せる。
「ここにいきなり現れて、雑談して帰った。そのときあいつ、ベランダの柵を乗り越えて飛び下りてったんだよ。ここ二階だぞ? だから、怪我しなかったか心配して見てみたら、こんな足跡があったんだ」
晴樹が驚くのも無理もない。晴樹はヨウを人間の少年だと思っているのに、ヨウがいた場所に人間の足跡はひとつもなくて肉球型の足跡で点々と並んでいるのだから。
「へ……へえ、不思議だね」
私はお茶を濁した。ヨウの奴、狐であることはばれないようにと約束したはずなのに、時々こうやってうっかりをやらかす。晴樹の主張は止まらなかった。
「でね、俺、思ったんだよ。もしかしてヨウは人間じゃないのかもって」
「まさか!」
どきっとしたせいで声が裏返った。晴樹が続ける。
「もちろん、俺もそんなわけないと思ったよ。でも二、三年くらい前だったか、佳代子さんと兄貴が話してたんだ。化け狐の足跡の話。なにに化けてても足跡だけはキツネの足跡なんだって」
頭がぐらぐらしてきた。晴樹が気づいてしまったら、ヨウはいよいよ里から追い出されてしまう。
「そんなのただの作り話だよ」
なんとか誤魔化そうとしたが、晴樹もモヤモヤしているようで首を捻っていた。
「俺だってそんなバカなことあるわけないと思うんだけど。思い起こせば、ヨウに初めて会ったとき尻尾が見えた気がするんだよ」
晴樹の勘の鋭さに、私は言葉に詰まってしまった。晴樹がお兄さんのものらしき机に目をやる。
「足跡については、そんな文献があるよって佳代子さんから聞いて、うちの兄貴は否定した。化け狐なんかいない、もし不自然な足跡がついたとしても、『妖怪だから』なんて荒唐無稽な理由以外になにかしらの説明がつくはずだって。俺もそう思った」
晴樹はまた、ベランダの足跡に目を向けた。
「でももしこの足跡が『本物』なら、兄貴に研究してもらいたい。どんな理屈なら、こんなことが起こるのか」
なにも言えなくなる私に、晴樹は淡々と続ける。
「俺は人間の足でこんな足跡がつく理由があるなら知りたいし、そうじゃないならヨウは人間じゃないってことになる。一夏はどう思う?」
晴樹がベランダのガラス戸を覗き込んで、砂についた足跡が消えていないことを確かめる。間違いなく、獣の足跡だ。
「そもそもヨウって、謎が多すぎるんだよ」
晴樹が壁に寄りかかって訝った。
「裸足に手ぬぐいを巻いているのも、あの変わった目の色も、理由を聞いたことはない。そういえばあいつの住んでいるところも名字も知らない」
「うん、変わった奴だよね……でもなんでそんなこと、私に?」
私は晴樹と目を合わせられず、視線を泳がせた。晴樹が唸る。
「そういうとこ。ヨウが不思議な言動をすると、顔に出るほど慌て出すのはいつも一夏だ。だから、なにか知ってるのかなと思った」
頭が痛くなってきた。ここまで推測されてしまっては、もう誤魔化しようがないのではないか。無言で床を見つめていると、みし、みし、という階段を踏みしめる音がした。明奈ちゃんの足音ではない。もっと重たそうに聞こえる。
ばん、と部屋のドアが容赦なく開いた。背の高い、眼鏡のお兄さんが不機嫌そうな顔で立っている。晴樹がドアの方に目をやる。
「兄貴。学校の図書館に出かけてるんじゃなかったのかよ」
お兄さんはギロッと私と晴樹を睨んでから、借りてきた本を机に載せた。それからのっそりと、机に向かって椅子に腰掛ける。もう私にも晴樹にも見向きもせず、本を開いていた。私には意味の分からない、化学式が表紙を飾っている本だ。
「兄貴」
晴樹が声をかけた。読書中のお兄さんは、無反応だった。晴樹は懲りずに続けた。
「勉強してるのにごめん。ちょっと教えてほしいんだけど」
「うるさいな、なんだよ」
お兄さんがじろっと晴樹を横目で睨んだ。こういう威圧的な反応には慣れているのか、晴樹は動じない。
「人間の足で歩いたのに、肉球みたいな足跡がつく方法ってあるの?」
「バカか。そんなことあるわけないだろ」
お兄さんが椅子ごとこちらに体を向けた。
「それがさ。あったんだよ」
晴樹はベランダを指さした。
「実物があったら、検証してくれるか? 妖怪なんかいないのに、そんな足跡をつけることができる、理由」
晴樹が負けじと言う。お兄さんはしばらく怪訝な顔で呆然としていた。数秒後、ようやく、素っ頓狂な声を出す。
「はあ?」
「変なこと言ってるのは自分で分かってる。とりあえずベランダ見てよ」
晴樹に強引に促されて、お兄さんは面倒くさそうに立ち上がってベランダのガラス戸を覗いた。足跡はまだ風にさらわれていない。
「なるほど、この足跡か」
お兄さんが足跡を眺めているのを、晴樹が横目で見る。
「そこに、俺の友達……友達っていうか、なんかそういう奴が来たんだよ。夏に入ってから知り合った奴」
お兄さんがガラス戸から俺に視線を移す。
「友達じゃないのかよ。それ以前に、なんでベランダに来るんだよ」
「そう! それもおかしいんだよ。ベランダから来るし、足跡は肉球印だし」
晴樹がまくし立てると、お兄さんは難しい顔で眼鏡を指で押さえた。
「ベランダに人が来るわけないだろ。多分、晴樹の見間違えだぞ。暑さで頭がおかしくなったんじゃないのか?」
「そんなはずない! じゃあこの足跡は誰が残したって言うんだよ」
晴樹が頭を抱えた。混乱する晴樹を見下ろして、お兄さんはため息をついた。
「分かった。実験をしよう。それでお前の目が覚めるんなら」
私はただただ、無言で狼狽していた。お兄さんがヨウの足跡を検証する。このままでは晴樹にもお兄さんにもヨウは妖怪だと認定されてしまう。お兄さんが人間の足で獣の足跡を付けるロジックを解明できれば回避できるけれど、実際にヨウは狐だからそんな足跡を付けているのだ。
「一夏、ヨウを連れてこよう」
晴樹が私の方を振り向いた。
「どこに住んでるか知らないけど、この里は狭いから名前呼んで捜したらすぐ見つかる。行こう」
彼は興味津々に目を輝かせ、部屋から飛び出した。私も慌てて追いかけた。
*
晴樹たちの家から出てすぐ、晴樹は周囲をキョロキョロ見回して言った。
「どこにいんのかな、あいつ。ヨウっていつも、気づくといるからな」
こうなったときの晴樹は思っていたより押しが強くて、私は完全に流されていた。どう誤魔化そうか必死に考えてみるが、暑さと混乱で頭がぐちゃぐちゃでなにも思い浮かばない。
私がこんなに頭を悩ませているというのに、元凶はあっさり姿を現した。
「なにか用か?」
突如、トウモロコシ畑の隙間の道から、ヨウがやって来たのだ。晴樹がぎょっと目を剥く。
「うわ! いつからそこに……」
そうだ、ヨウは呼ばれたらどこにいても聞こえると言っていた。晴樹と私が捜していることに気づいたのだ。しかし、自分がなぜ呼ばれたのかまでは分かっていないらしい。
「ヨウ、ちょっと確認させてほしいことがあるんだ」
晴樹がひょいと自宅の方に目をやる。ヨウは事情を知らずに首を傾げていた。
「兄貴呼んでくるよ。そこで待ってて」
晴樹が再び、家の中に戻っていった。晴樹の背中を眺めて首を傾げるヨウに、私はすぐさま説明した。
「大変なことになったよ。ヨウが狐かもって、晴樹が勘づきはじめた」
それを聞いて、今度はヨウが目を丸くした。
「なんでばれたんだ?」
「ヨウが不用心だったせいだよ! とにかく、今からヨウの足跡を検証するつもりみたい。このままじゃヨウの足が人の足なのに狐の足跡が残るのがはっきりしちゃう」
今頃になって焦り出したヨウに、私はせがむように言った。
「ヨウの足跡って、人間の足跡に変化させたりできないの?」
「できない。こればっかりは……」
「どうしよう。私も止められなかった。今のうちに逃げようか?」
そんな発案をした直後、逃げ場を奪うみたいに晴樹とお兄さんが家から出てきた。お兄さんは、水の入ったバケツを持っている。
晴樹がヨウの足元を見た。
「ほら、どう見ても人間の足だろ」
お兄さんが眼鏡の奥で目を細める。
「そりゃ人間だから人間の足だろ。この足なのに、獣の足跡が残るって言うのか?」
お兄さんが詰め寄ってくると、ヨウは彼を見上げてたじろいだ。お兄さんがギロリとヨウの手ぬぐいを巻いた足を睨む。
「お前、ちょっと足の裏見せてみろ」
「なんだよ、ほら」
ヨウはくるっとお兄さんに背を向け、ひょこっと手ぬぐいのある方の片足を上げてみせた。私も覗き込んだが、足の指からかかとまで、完全に人間の足そのものである。山の中を歩いてきたせいで、ちょっと汚れていた。
「で、この足で……」
お兄さんはひとりごとを言い、バケツを地面に置いた。
「このバケツに足を突っ込んでから歩いてもらいたい。そんでアスファルトに足跡をつけてほしいんだ」
お兄さんに促され、ヨウはパーカーのポケットに手を突っ込んで渋った。私はいよいよ眩暈がした。回避する方法を考えても、全く思いつかない。
お兄さんがバケツを指さす。
「晴樹は、ベランダにあった肉球型の足跡はあんたのものだ、なんておかしなこと言ってる。俺もその足跡は見たが、あんたの足を見る限りあんたの足跡とは思えない。だから、晴樹にあんたの足跡を見せてやってほしい」
お兄さんの冷ややかな声を聞きながら、私は目を白黒させた。お兄さんはここでヨウに人間の足跡を付けさせて晴樹を納得させるつもりのようだが、そうはいかないと私は知っている。逆に獣の足跡を、見せつけてしまうことになる。
私は必死に頭を回した。
「ベランダの足跡だよね、そうか、それ多分あれだよあれ……」
やがてハッと、私は手を叩いた。
「キジ子さんだ!」
縁側にぺたぺた付けられた肉球マークを思い出したのだ。
「キジ子って……猫の?」
お兄さんが繰り返す。私はこくこく頷いた。
「だって肉球の足跡でしょ?」
それから私は、不自然なほどに饒舌になった。
「ごめんね、ちゃんと見てるつもりなんだけど、たまに脱走しちゃうみたいなの。そちらのお宅のベランダにまでお邪魔してたなんて。これからはちゃんと管理する」
それを受けてヨウも加勢した。
「そうだよな、たしかに俺、裸足だし変な奴みたいに思うかもしれないけど、流石にベランダから来たりしねえよ。猫ならやるかもしれないけど」
ベランダから来てあの足跡を残した本人が、その主張だ。私は耳を疑ったし晴樹もぎょっとした。
「お前、ベランダに来てたじゃん!」
「そうだっけ? 寝ぼけて夢でも見たんじゃないか」
ヨウがすっとぼける。晴樹はまだ納得できないようで口を半開きにしてなにか言い返そうとしていたが、なにも思いつかなかったのか声が出ていなかった。
「ほらな晴樹。やっぱり肉球の足跡なんて猫のものだったじゃないか」
晴樹の代わりにお兄さんが納得してしまった。
お兄さんはバケツを持って庭の隅に行き、汲んだ水は花に与えた。水が零されて、私とヨウはひと安心した。
「そうか、猫か……」
流される水を見つめて、晴樹が呟く。
「……うん、やっぱりおかしいだろ。大きさ全然違ったぞ」
やはり晴樹は頑固なところがある。彼はまた私とヨウを交互に見比べた。
「隠し事がないんなら、水をつけて足跡を見せてくれてもいいはずじゃないか」
「晴樹の見間違えだって。猫が脱走しないようにこれからはおばあちゃんにもよく言っておくから、この話は終わり」
私は無理矢理に晴樹を黙らせて、ぷいっとそっぽを向いた。
お兄さんはやれやれと玄関のドアを開けて帰ってしまった。なんとか危機を回避したヨウは、安心して大きく息を吐いた。
「じゃ、俺も帰る」
これ以上晴樹に勘繰られたら困ると思ったのか、ヨウはさっさと引き上げてしまった。
軒下に取り残された私と晴樹は、その背中を眺めていた。しばしの沈黙が訪れる。私は自分のサンダルに目を落とした。
なんだか今更、無性に晴樹に申し訳なくなった。晴樹がひとりで見間違えていたのだという結論になってしまったが、本当は彼はなにもおかしなことは言っていない。私はそれを知っていて、嘘をついたのだ。
「……ごめんね、晴樹」
隣で足元に視線を落としながら、ぽつりと呟いた。
本当は、ヨウがベランダから入ってきたのも足跡が変なのも、信じている。
晴樹も、はあ、と大きなため息をついた。
「まあ、誰にだって秘密のひとつやふたつ、あるよな」
晴樹の呆れ声が、じわじわうるさい蝉の声に掻き消されそうだ。
「だけどさ、抱えきれないくらい大変になったら、話せよ。もしかしたら、力になってやれるかもしれないし」
「うん、ありがと」
晴樹が私にまでお兄ちゃんぶる。彼は気遣い屋で考え事が多くて、めちゃくちゃ心配性で、そして優しい。彼はガシガシと頭を掻いた。
「俺、暑さで変になってるみたいだから、水飲んで頭冷やしてくる。一夏も熱中症には気をつけろよ」
そう言って、晴樹が家に戻っていく。私も暑い中でごちゃごちゃ考えたせいで、余計に汗をかいた。もう少しで倒れてしまうところだった。
*
その日の夕方、庭のブロック塀にヨウがやってきた。縁側で涼む私の前に現れて、脚を組んで座っている。
「ヨウ、もうちょっと気をつけてよ」
私は団扇で顔をパタパタ扇いでヨウを睨んだ。
「足跡だけじゃないよ。ベランダから飛び降りたり、前触れもなく現れたり、人間っぽくないから晴樹が気づいちゃうでしょ」
「ごめんごめん。次からなるべく気をつけるよ」
ヨウが軽やかに誤魔化し笑いをする。私はぴたっと、団扇を動かす手を止めた。
「でも晴樹、明奈ちゃんには、このこと話してないみたいだった」
「そうだな」
「もしヨウが妖怪だったと分かっても、秘密にしてくれたのかもしれないね。やっぱり、晴樹は優しいね」
「……そうだな」
ヨウはまた、つまらなそうに顔を歪めた。
「なんかなあ。イチカがハルキ褒めると、なんかムカついてくる」
「なにそれ」
仲が良くないのは分かっていたが、露骨な発言に私は苦笑した。ヨウはムッとむくれた。
「分からん。ライバル心っていうのかな。とにかく」
それからヨウは急に塀の上に立ち上がった。
「とにかく、もしもハルキがイチカを独り占めしようとしたら、化かしてやる」
勝手にそう言い残して、ヨウは私の返事を待たずに塀の向こうへと飛び降りていなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます