昔と今
おばあちゃんは、毎朝仏壇に手を合わせる。私も隣で手を合わせるけれど、遺影のおじいちゃんのことはよく知らない。どうやら小さい頃に一緒に遊んだことがあるらしい。けれど、最後に顔を見たおじいちゃんのお葬式では私はまだ四歳だったので、覚えていない。
「おばあちゃん。おじいちゃんってどんな人だった?」
仏壇の前で正座して遺影を見つめるおばあちゃんに尋ねる。
「一夏が生まれたとき、喜んで感動して大泣きしてた。そんな人」
不思議な感じだ。私はおじいちゃんを覚えていないのに、おじいちゃんは私が生まれたことをそんなに喜んでくれていたなんて。
もう一度、写真のおじいちゃんに向かって手を合わせる。遺影の中のおじいちゃんは、ふっくら丸い顔につやつやの肌、白くて短い髪がツンツン生えている。にっこりと上がった口角。きっと明るい人だったんだろうな、と思わせる笑顔だ。
「さて一夏、早く着替えちゃいましょうか」
おばあちゃんが立ち上がった。
「今日はお父さんとお母さんが来るでしょ」
「うん!」
そうだ。今日はお父さんたちが来る。毎年この時期になると、会社から与えられた少ないお盆休みを使って、おばあちゃんに会いに来るのだ。去年までは、私がついて行きたがらなかったので、私にとってはお留守番の日だった。
着くのは昼前くらいになるそうだ。先にお墓参りに行き、それから合流してお昼を食べて、そしてすぐに帰ってしまう。
ずっと一緒に暮らしてるお父さんとお母さんと会うのが二週間ぶり近くになるのが、なんだか変な感じがした。
着替えを済ませて、ひと息つく。障子を開けると、風など殆どなくて、強い日差しが部屋に飛び込んできた。
私は縁側に出て、台所から持ってきたトウモロコシにかぶりついた。
朝ごはんを食べたばかりだけれど、まだちょっと小腹がすいていると言ったら、おばあちゃんが茹でてくれた。じわじわという蝉の声が暑さを際立たせる。ひとりでトウモロコシを食べていると、ブロック塀の向こうからヨウが嗅ぎつけてきた。
「なに食ってるの?」
「おはよう。ヨウも食べる?」
ブロック塀から見ているヨウにトウモロコシを見せると、彼はぴょんっと庭に降り立ってきた。
「じゃ遠慮なく」
「よしきた」
私は食べかけのトウモロコシをポッキリ真ん中で折って、半分ヨウに手渡した。ヨウはトウモロコシを受け取り、私の隣に腰掛ける。
トウモロコシの粒が、口の中で弾ける。素材そのものの優しい甘さがふんわり広がって、夏の匂いがする。
「ねえ、ヨウはおユキさんを捜して里に下りてきたんだよね?」
トウモロコシを口に含みながら尋ねる。隣からも、トウモロコシが砕けるシャクッという音が聞こえてくる。
「この前、絶対死んでるよなんて、切り捨てちゃってごめん」
「でも、絶対死んでるよな」
ヨウがなげやりに返した。トウモロコシの粒が、舌の上を転がる。
「それで、死んじゃってるって分かってるのに、まだ里に来てるのは、どうして?」
「半分くらいは、お前らと遊ぶ目的で」
ヨウは答えながら、途中で言葉を切ってトウモロコシをかじった。
「もう半分は、もしかしたらおユキは生きてたりして、っていう淡い期待」
自分が妖怪だからだろうか。おユキさんの死を受け入れきれていないのかもしれない。
「おユキさんが亡くなってても、その子孫はこの里にいるかもしれないよね」
私はまた、トウモロコシを頬張った。
仏壇に飾られた、艶のある丸顔を思い出す。写真の中の顔しか覚えていないけれど、その血はたしかに私の中に流れているわけで。
「子孫じゃ、おユキさんじゃないからだめ?」
私は、トウモロコシの芯と向き合うヨウの顔を覗き込んだ。
「だめじゃない」
ヨウがトウモロコシからこちらに目を移し、口元をにこりと緩める。
「その人はおユキではないけど、会えるもんなら会ってみたい」
「よかった。早速今から捜そうよ!」
芯だけになったトウモロコシをお皿に置いて、私は縁の下に潜り込んでいたサンダルを足で探った。
「午後から予定があるから、午前中いっぱいね」
サンダルを足に突っかけ、庭に立ち上がった。
*
とりあえず勢いだけで庭から外へ出てみたが、なにからすればいいのか分からない。
「どうやって捜そう?」
そもそも、手がかりがない。
「俺もユキって名前を聞いただけで、この里に住んでるのかどうかも知らないし、もしかしたら、子孫は遠くに住んでるかもしれないよな」
ヨウも腕を組んで首を傾げている。ヨウがこうでは、ヒントが足りない。
「あ、でも。そっくりな人を見つけたら、多分それが子孫だよな」
ヨウがハッと顔を上げた。なるほど。
「おユキさんて、どんな人だった?」
私の問いに、ヨウが考えはじめる。
「ええと、十代後半くらいの若い女の人。お淑やかで品があって、色白で華奢で……とにかく、すっげえ美人だから見れば分かると思う」
「そんなの分かんないよ」
おユキさんがその当時、十代後半くらいの女の人だったとしても、今いる子孫がそのくらいの年齢で女性とは限らない。この界隈に住んでいるとも言いきれない。畑の前でヨウと一緒に手がかりがないか考えていたら、隣の家のドアが開いた。
「あ、ヨウと一夏じゃん」
晴樹が出てきてこちらに声をかける。
「朝からなにしてんの?」
「人捜し。おユキを捜してる」
ヨウが答えた。晴樹の後ろから明奈ちゃんももたつきながら出てきた。
「ゆきさん? 私が知ってる限りだと、そんな人この村にはいないけど……」
事態が飲み込めないふたりに、私は簡潔な説明をした。
「ユキさんっていうのは、三百年くらい前の人なんだけど、その人の子孫がこの村にいないか捜してるの。手がかりがないんだけどね」
「へえ。なんで捜してんの?」
晴樹に問われて、私は首を捻った。まさかヨウの三百年前の知り合いの子孫だなんて、妙な説明はできない。
「私の自由研究の一環……」
それっぽく誤魔化した。あながち嘘でもない。
明奈ちゃんが私とヨウを交互に眺めた。
「自由研究ってことは、そのおユキさんって人は狐の伝説に関係してるの? 私も捜すの手伝う」
明奈ちゃんの言葉を受け、晴樹がうーんと唸った。
「三百年も前の人だろ? そのおユキさんって人が、なにか有名なことをした人だったら、文献とか言い伝えが残ってるかもしれない。そうあるものじゃないと思うけど」
一般人の文献なんてなかなかないと思うが、もしかしたら、彼女に繋がるヒントくらいならあるかもしれない。
そこで私は、おばあちゃんの本棚を思い出した。
「そうだ! おばあちゃんの持ってる本の中に、記録があるかも!」
「本?」
ヨウが首を傾げる。私は勢いよく捲し立てた。
「いつも遊んでる部屋の隣の部屋に、壁いっぱいの大きな本棚があるの。おばあちゃんが集めた、妖怪の伝説の本がたくさん入ってて、狐の呼坂にまつわる本もあった。昔のことが書いてある本なら、おユキさんのこともなにか書いてあるかもしれないよ!」
「そうか、当時活躍した人だとしたら、本に書いてある可能性はあるよな」
晴樹も頷く。私はすぐさま、おばあちゃんの家の玄関の引き戸を開けた。
「おばあちゃーん! 本棚の本、見てもいいー!?」
大声で尋ねながら玄関を上がる。ヨウと晴樹と明奈ちゃんも、私のあとに続いた。
*
おばあちゃんが「もちろんどうぞ」と言ってくれたので、私たちは早速、おばあちゃんの書庫……あの本棚の部屋に入った。
戸を開けた途端、ヨウが目を丸くした。
「うわっ、すっげー本の数!」
「こんなにたくさんあったら、何年かかっても読み切れないね」
明奈ちゃんも本棚を見上げて感嘆する。
おばあちゃんは、どれでも好きなものを読んでいいと言ってくれた。こんなにたくさんあったら、どれから読もうか迷ってしまう。しばらく目線を漂わせていたが、隣にいたヨウがさっさと一冊選んで、ばさっと広げた。ヨウの行動を皮切りに晴樹と明奈ちゃんもそっと本を手にした。
私も、ぼろぼろの表紙の本を一冊取ってみる。中は妖怪の図鑑のようなもので、昔の絵巻物に描かれた妖怪が、丁寧に説明されていた。ぱらぱらと捲ってみると、狐の妖怪のページもある。ひと口に「化け狐」と言っても、階級があったり地域差があったりするみたいで、読んでいると興味が湧いてくる。おばあちゃんが妖怪にハマるのも分かる気がする。
私の横では、ヨウがまじまじと本と睨めっこしている。真剣な顔をしているから、もしかしてなにか重要な資料を見つけたのかもと、私はどきどきしながら声をかけた。
「ヨウ、おユキさんのこと、分かりそう?」
「いや、ちっとも読めない。俺、人間の字は読めないんだ」
晴樹と明奈ちゃんに聞こえないくらいの小声で、彼は言った。読めないくせに、ヨウは真剣な眼差しで資料と向き合っている。
「でも、絵も描いてあるからなんとなく分かる」
たしかに、ヨウが見ている本には狐と人間が向き合っている絵が描かれていた。
私は手に持っていた妖怪図鑑を元の場所に戻して、その隣にあった別の一冊を開いた。これは絵巻物の資料集のようで、見開きいっぱいに、大きな絵が載っていた。
ところどころに書き込まれている説明文のようなもの以外、燃え上がる炎がびっしり画面を覆い、小屋のようなものに引火している。その燃え盛る火の真ん中に、真っ白な大きなキツネが書かれている。動物のキツネの姿だが、きっとこれは化け狐だろう。
「これはなんの絵だろう。狐が燃やされてるのかな」
ひとりごとを呟くと、後ろから返事があった。
「違うわよ。狐が、火をつけてるの。ここに書いてある文によると、どうも人間に追い払われた狐が、怒り狂って火を放ったって」
驚いて振り向くと、いつの間にかおばあちゃんがいた。私はおばあちゃんを見上げ、本の中の狐を指さす。
「この狐が、里を焼いたの?」
「ええ、そうよ」
私は思わず、横目でヨウを気にした。ヨウも私の方を見ており、目が合った途端、彼はふいっと顔を背けた。
「ちょっと、外の空気当たってくる」
ふらっと立ち上がって、ヨウは部屋から縁側に出ていってしまった。狐が里を焼いたと聞いて、自分が悪者のような気がしてしまったのだろうか。
「私もちょっと、休憩しよっと」
私は絵巻物の本を閉じて、本棚に返した。
ヨウは縁側に腰掛けて、庭の緑を眺めていた。
「ヨウ」
声をかけて、隣に座る。
「さっきの絵はショックだったけど、ヨウは悪いことしてないんだから、気にしなくていいからね」
自分から誘ったことだが、申し訳ない気がしていた。
「もし、ヨウが見ててつらいなら、文献探しは私だけでするよ。晴樹と明奈ちゃんも手伝ってくれるかもだけど、ヨウは無理に見なくてもいいからね」
「別に、気にしてねえよ。里の人に嫌われてるのは知ってるし」
そう呟いたヨウの背中に目をやると、尻尾をふわふわと風に靡かせていた。気を抜くと出てきてしまうみたいだ。
「狐が悪さしたのは本当だからな。そういう文献ばっかなの、知ってて見てるんだよ」
「どうして? 悲しくなるなら見なければいいのに。おユキさんの情報だって、あるか分からないんだし……」
「おユキに会えるとしたらさ」
ヨウは真っ直ぐに、庭の景色を見つめていた。
「あの人が狐をどう思ってるのか、知っておきたかった」
じわじわ。木々の隙間から蝉の声がする。
「おユキの子孫のことが分かればいちばんよかったけど、それがなくても、人間側が俺たち狐をどんな目で見てるのか、知りたいってのもあったから」
人間から怖がられている、その事実を受け止めるために、見たくないものにも向き合う。そういうことだろうか。
逆に私たち人間は、向き合えているだろうか。狐は私たち人間を、どう見ているんだろう。里の人間が狐を嫌がるのと同じで、狐も人間を忌み嫌っているかもしれない。先程の絵巻物のあの白い狐が火を放ったのは、人間が狐の怒りを買ったからだと、おばあちゃんが言っていた。
狐も人間が嫌いだとしたら、ヨウは今、私にどんな想いで接しているのだろう。
そんなことを考えていたら、ヨウがちょっと、照れくさそうに下を向いた。
「まあでも、里を焼いた狐の話のとき、イチカがちらっと俺を見ただろ。そのとき一瞬、俺のこと嫌いになってのかなと不安になった……のは、事実」
「えっ?」
「でもイチカはすぐこうして、こっちに来てくれた。イチカは俺のこと、嫌いになってない」
「……当たり前でしょ」
ヨウの言葉が擽ったくて、私も下を向いた。こんなふうに言ってくれるのなら、私はヨウには嫌われてはいない……と、思っていいだろうか。
ヨウがすっと立ち上がる。
「さて、そろそろ戻るか」
それから彼は、ん、と呟いて縁側から背伸びした。
「なあイチカ」
ヨウがブロック塀の先に見える、山道を指さした。
「あれ、なに?」
私も立ち上がって、彼の指さす方に目を凝らす。山道をコトコト下りてくる、赤い車が見えた。
「あっ! 忘れてた!」
間違いない。あれはお父さんの車だ。もうそこまで向かってきていたのだ。本棚の部屋に戻って壁掛け時計を見ると、正午を回っている。
「わあ、こんな時間!」
私の声に反応して、晴樹と明奈ちゃん、おばあちゃんも、同時に時計を見た。兄妹は思い出したように本を閉じて、お昼ごはんを食べにお隣の家に帰った。おばあちゃんも慌ただしくお昼の支度を始める。ヨウはというと、いつの間にか縁側から姿を消していた。
*
数分後、お父さんとお母さんがやってきた。
「お父さん、久しぶり!」
なんだかすごく懐かしい感じがした。見慣れた服も立ち方も、おばあちゃんの家の縁側玄関が背景だと不思議な違和感がある。
「元気にしてたか一夏。いや、お前は元気じゃないときなんてないか」
微笑みを浮かべたお父さんが、一瞬誰かと重なった。誰かに似ていると思ったら、仏壇で見た写真のおじいちゃんだ。輪郭なんかはあまり似ていないけれど、目元や表情や、面影が似ている気がする。
おばあちゃんが台所に向かっていく。
「もう、もうすぐ着くよって連絡くらいくれたっていいのに」
「一夏にメールしたぞ」
お父さんの言葉にハッとなる。最近、携帯を見ていなかった。ヨウと晴樹と明奈ちゃんと遊ぶのに夢中になっていて、携帯を見るのも忘れていた。
お母さんがおばあちゃんに手土産を渡す。
「お義母さん、一夏がお世話になってます」
「こちらこそ、一夏がいい子でお手伝いを頑張ってくれるからとっても助かってるのよ」
おばあちゃんが褒めてから、意地悪な笑みを浮かべた。
「ちょっとお転婆が過ぎて、すぐ近所の子たちと遊びに行っちゃうけど。宿題なんて忘れてるわよね」
それを聞いてお父さんがじろりと睨んできたので、私は目を泳がせて、そそくさと居間へ逃げた。
私が本棚の本を見ている間に、おばあちゃんはお昼ごはんの支度をしていたらしい。台所からほんのり、酢飯の匂いが漂っている。
おばあちゃんが食器を運びつつ、あっと声を上げた。
「そうだったわ、さっきまで縁側で仰いでた酢飯、そのまま置いてきちゃった。一夏、取りに行ってくれる?」
「分かった!」
私はおばあちゃんに言われたとおり、寝室へ向かい半開きの障子から庭を覗き込んだ。縁側に、桶に入った酢飯がある。
それを取ろうと縁側に出て、ぎょっとした。中からは障子でちょうど見えなかったが、庭にヨウがいる。
「あれ? まだいたんだ!」
「なんかいい匂いがしたから、もう一回遊びにきた」
「もう、庭からじゃなくて玄関から入ってきてよ」
私たちの会話が聞こえたのか、背後で戸が開いた。お母さんがこちらを覗き込んでいる。
「一夏、誰と話して……あら、お友達?」
手には味の染みたお揚げの乗った皿を持っている。お母さんはこちらに歩み寄ってきて、縁側からヨウを見下ろした。
ヨウがなにか言おうと、ぱかっと口を開けた。が、その口にお母さんが切ったお揚げを放り込む。ヨウは戸惑いながらももぐもぐ味わっていた。
「おいしい?」
お母さんがヨウに微笑む。この人はこう、自由でマイペースな人だ。ヨウはお揚げを飲み込み、ぱあっと目を見開いた。
「おいしい! なんだこれ」
おばあちゃん特製のお揚げが余程気に入ったか、目をきらきらさせている。キツネに油揚げ、という言葉が頭の中にちらついた。
お母さんが私にもお揚げの皿を差し出した。
「初めまして。一夏のお友達くん」
「この子はヨウっていうの」
私はお揚げを受け取って、口に含む。しっかりと染み込んでいるその出汁は、甘みのある優しい味付けで、おばあちゃんの手料理の味だった。
「そうなんだ。じゃあ、ごはんの時間までふたりで遊んでなさい。ごゆっくり」
お母さんは冷ました酢飯とお揚げを持って、居間に戻っていった。取り残された私とヨウは縁側に座った。
ヨウは膝に頬杖をついて、横目で私を見た。
「あれ、イチカの母ちゃんか。カヨコがいて、カヨコの息子が今の人と結婚して、そんでイチカがいるのか」
「そうだね」
「子孫ってそういうことなんだな。知ってたけど、実感した」
ヨウがどこか遠くを見るような目で、ぽつりぽつりと呟くように続ける。
「狐が人間に嫌われるのは知ってる。本を見て、なんでそんなに嫌われるのかも理解した。おユキの子孫も、多分、狐が嫌いだ」
ヨウは話しにくそうに言葉を選んでいる。私は黙ってその横顔を見つめていた。
おユキさんに繋がる資料はないし、子孫だって見つけられそうにない。それでも希望を持っているけれど、もし会えたときに、拒絶されるのではないかと、ヨウは不安なのかもしれない。
しかしヨウは、瞬時に全部忘れたみたいな笑顔を取り戻した。
「でも俺、やっぱりおユキに会いたいんだ」
初心に返り、彼は言い切った。
「絶対見つける。子孫じゃなくて、願わくば本人を。だって子孫じゃ、カヨコとイチカくらい違うんだろ」
「そうだね、全く別の人だよね。本人に会うのは難しいかもだけど、できるだけ頑張ってみよう」
おユキさん本人が亡くなっていたとしても、せめて彼女が生きた証が見つかれば、と思う。
「で、ヨウ。なんでそんなにおユキさんに会いたいの?」
なんだかんだ聞いたことがないので尋ねてみたが、ヨウは笑って誤魔化した。
「さあ。それよりさっきのふわふわした食べ物、ご馳走さん」
お揚げのことだろう。それだけ言って、ヨウはブロック塀を飛び越えていなくなった。
*
「あの子帰っちゃったの? 一緒にお昼食べようと思ったのに」
居間に戻ると、お母さんがお稲荷さんを並べながらそう言った。食器を置いていたお父さんが、ぽんと手を叩く。
「そうだ一夏。もうすぐ誕生日だな」
カレンダーを見てみると、私の誕生日は明後日だった。
「プレゼントに新しい自転車買ってやる。ずっと欲しがってただろ」
「ほんと!? ありがとう、お父さん大好き!」
何度もおねだりに失敗していた自転車が、ついに。お父さんは笑いながら私の頭をくしゃくしゃに撫で回した。
「夏休みが終わって帰ってきたら、一緒に見に行こうな。誕生日は過ぎちゃうけど、保留ということで」
ふと、お父さんの言葉がどこか心に引っかかった。当日に間に合わないことは全然気にならない。それよりも「夏休みが終わったら」という言葉だ。
夏が終わったら、帰るのだった。来る前はあんなに億劫だったのに、今はむしろ、ちょっと寂しいとまで思ってしまった。
「さて、ごはんできたわよ。食べましょうか」
おばあちゃんの声にちゃぶ台を見ると、きれいに包まれたお稲荷さんと周りにおかずが並んでいた。
「いただきます」
お父さんとお母さんがいる食卓。嬉しいような特別でもないような、変な気持ちになる。
食事中、お喋りなお母さんは終始おばあちゃんと楽しそうに話していた。このふたりは変わり者同士仲良しで、所謂ヨメシュートメ問題とかいう奴は、ふたりの間にはないそうだ。
ヨウが話していたことを思い出す。おばあちゃんの息子がお父さんで、お父さんとお母さんが結婚したから私がいる。
自分の知らない時間を、この人たちが知っている。もっと昔の話になれば、おばあちゃんも知らない時間になる。例えば、おユキさんの生きていた時代とか。昔のことって、そうやって薄れていくのだろう。
お昼を食べたら、お父さんの仕事用の携帯に緊急の電話が入って、お父さんとお母さんは早急に帰らなくてはならなくなった。ふたりして慌てて支度をして、赤い車に乗り込む。
おばあちゃんが寂しそうに見送る。
「今度はまた、ゆっくりしに来てね」
おばあちゃんに会釈して、お母さんはおばあちゃんと私を交互に見た。
「一夏をよろしくお願いします。一夏、おばあちゃんと仲良く元気でね」
お父さんもお辞儀して、赤い車は街に向けて発車した。この場所からあの車の後ろ姿を見送るのは二回目だ。
緑の山と真っ青な空の下で、赤い車はまるでサラダのトマトみたいに、やけに映えて見えた。
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