午後九時、三十分

 晴樹と明奈ちゃんが、一泊二日の家族旅行に出かけてしまった。今日は大人しく、宿題でも進めようか。

 おばあちゃんに頼まれたおつかいやお風呂掃除を終わらせて、部屋でぽつんと座り宿題を広げる。

 なにもない一日のまま、日が暮れてしまった。お風呂に入って濡れた髪をタオルで擦りながらぼうっと考えていた。

 風を浴びたくて、畳の部屋から障子を開けた。縁側に出ると、夜の庭がそよそよと風に靡いている。

 一日を振り返ってみたが、今日はお手伝いと少しの宿題をしただけで、これといって楽しいことがひとつも起こらなかった。こんなに退屈な日もあるんだなあ、なんて考えていたときだった。

 突然、上からなにかが降ってきて、庭の真ん中にぼとっと着地した。

 唐突な出来事にただただ呆然と口を半開きにする。

 落ちてきたものがヨウだったことに気がついて、もう一度びっくりした。

「今、どこから」

「屋根にいた」

「落ちたの?」

「下りたの」

 縁側に間抜けな顔で立っていると、ヨウがこちらに向かってきた。

「行くぞ、イチカ」

「えっ、今から? どこへ?」

 時計を見ると、九時を少し過ぎたところ。困惑する私に、ヨウも今になって考えはじめた。

「どこ、か。どこだろう、どこがいいかな。いいや、ついて来て」

 場所を決めてもいないようだ。

「そんな急に。もう夜だし、明日にしようよ」

 後ろ歩きで部屋に入って障子を閉めようとしたら、ヨウは慌て出した。

「だめなんだよ、今日じゃなきゃ」

「だったら昼間に来てくれればよかったのに」

「昼でもだめだったんだ。おい、どうしても来れないのか?」

 ヨウの声が慌てている。なにがなんでも連れて行きたいらしい。

「とにかく、なにがしたいのか教えてよ」

「見せたいものがあるんだ」

 彼はニッと上目遣いで笑った。

 見せたいもの。なんだろう、狐の呼坂のことでも、なにか教えてくれるのだろうか。

「分かった、支度するから待ってて」

 障子を閉めようとしたら、ヨウが縁側に滑り込んできてがしっと手で障子を止めた。

「そんな暇はない!」

 そこまで急を要するのなら仕方がない。パジャマで縁側の下のサンダルを履いて、ヨウに促されるまま庭から玄関へ向かった。まだ髪も乾いていない。

 外はすでに真っ暗だ。いくら真夏でも、涼しい夜風が吹くと少し肌寒い。

 もともと灯りの少ないこの里では、民家の窓からぼんやり見える光以外、月しか道を照らす物はない。見上げると見事な満月だ。黄色くて丸くて大きい。

 少し前を歩くヨウに視線を投げた。茶色い髪が夜の風にふわふわ揺れている。前だけを見て、ひたすら早歩きで歩いていく。ヨウが突然、声を上げた。

「そうだ、神社にしよう」

「なにを見せてくれるの」

「秘密」

 ここまで連れ出してもまだ教えてくれないで、ヨウは駆け足になった。


 *


 早足でひたすら歩くこと数分、川の辺りまで来ると民家すら減って、明かりは満月だけになった。神社の鳥居は暗い中でも分かるくらい真っ赤で、月の下で神秘的な空気を放っていた。

 ヨウが石段に足を進めた。私もあとを追いかける。黒っぽい服に身を包んだヨウは、暗闇の中に潜ると姿が見えにくくなる。足に巻き付いた白い手ぬぐいだけが月の光を反射して、私を導いてくれる。

 とっても静かだ。石段を上がる、ざり、ざり、という足音と、虫の小さな声だけが聞こえる。ヨウも私も無言だった。私は首に張り付いてくる濡れた髪を払った。

「ねえ」

 沈黙に耐えかねて話しかけた。

「どこまで行くの」

「いちばん上まで。もうちょっとだから辛抱して」

 涼しいから汗はかかないものの、足が重くなってきた。

 やがて、石段のてっぺんに着いた。ヨウがこちらを振り向く。

「ほら、見てみ」

 最後の一歩を踏み込んでから、ヨウが指さす方を見た。

 畑の広がった月十蒔里の真上で、闇夜をまんまるの満月が支配している。黄色い月以外は、真っ黒な色画用紙のようにむらのない黒。その上に散りばめられた、満天の星。灯りが少ないこの里だから、こんなにたくさんの星が見えるのだ。

「うわあ」

 思わず感嘆を上げた。が、ヨウが小声を出した。

「待って、まだ」

 次の瞬間、その黒い星空に、ひゅん、と光る粒が通り過ぎた。

 なにが起こったのか分からなくて目をぱちくりさせる。

 もうひとつ、光が閃いた。

「……流れ星?」

 またひとつ、またひとつ。次第に間隔が狭くなって、数がどんどん増えていく。ヨウが呟くように言った。

「そう、流星群」

 私は目の前に広がる光景に、ただ目を奪われた。口をぽかんと開けて、心が空に飛んでいったみたいだ。

 じゃり、と砂が擦れる音がして、横を見るとヨウが石段に足を投げ出して座っていた。上目遣いに私を見上げて笑う。

「すげえだろ」

 私も彼の横に腰を下ろした。

「ほんと、すっごいね」

「狐の俺たちは、こういうのが起こる夜が分かるんだ」

 彼は空を見上げながらひとりごとのように呟いた。私ははあ、とため息のような感嘆を漏らす。

「きれい」

 目が離せない。なにも考えられなかった。

 やがて少しずつ、流れる数が減っていき、最後のひとつが静かに流れると、空はまた、もとの静けさを取り戻した。

 もう、星は降ってこない。余韻に浸り空を見上げたまま、私はヨウに言った。

「私、初めて流れ星見た」

「俺はもう何度も見てる。それでも何度も、すげえって思う」

 彼も空を見上げたまま、後ろに手をついて肩の力を抜いた。

「狐の仲間にはバカだって、言われた。そんなに毎度喜んで、って」

 それから彼は、いたずらっぽく口角を上げた。

「だから流星が見れるときは、ひとりで見るんだ。他のみんなが楽しまないから、俺がひとり占めしてた空だった」

 くたっと力を抜いた肩から伸びる手は、私のすぐ横の地面をついていた。

「今まではそうだったけど、今日は違ったんだ。初めて、誰かに見せたいって思った」

 ちらと横顔を見る。ヨウは依然として空を見上げたまま。

「……そっか」

 返事とともに、私も後ろに手をついた。

「私もきっと、何回見ても、何回でも感動するよ」

「イチカならそうだと思った」

 ヨウがくすりと笑った。私はヨウの方に顔を向けた。

「ありがと。こんな星空、見せてくれて」

「なんだよ、行くの渋ってたくせに」

「そうだったっけ」

 ふふ、と空気を震わせる。

 ヨウはまた静かになった。ひたすら空を見つめている。私ももう一度、空を見上げた。雲ひとつない濃紺の空に夏の星座がぺったりはりついている。星はゆらゆら瞬いて、私たちを見下ろしていた。

 学校の授業で習った星座くらいは分かるかなと思ったが、全然見当もつかない。ただ星がきれいだなあという陳腐な感想だけが頭に浮かんだ。

 ヨウはというと、じっと空を見上げたまま動かない。静かだ。風も吹かない静かな空間の中、私は沈黙を破った。

「夏の夜空には、こぎつね座って星座があるんだって」

 こぎつね座は夏の大三角形の真ん中にあるそうだ。探せばきっと見つかるのだけど、そもそも夏の大三角形が分からない私には見つけられそうにない。

 ヨウが不思議そうに繰り返した。

「こぎつね座?」

「そう。人間は星に名前をつけたり、星を繋いで絵にしたりするんだよ。でもどこになにがあるのか、分かんないや。こぎつね座もどれか分かんない」

「へえ」

 ヨウがふいにこちらに顔を向けた。

「じゃあさ、イチカも自由に星に名前をつければいいし、星を繋いで絵を描いたらいいんじゃねえか? そしたらそれが、イチカのこぎつね座!」

 私は二回まばたきした。ヨウはまた、星を見上げた。

「一緒に決めれば、俺とイチカだけのこぎつね座だ。なあ、どの星にする?」

 ヨウの瞳に星空が映る。私はその煌めきを眺め、それから彼と同じ空に目を上げた。

「……えっとね。じゃあ」

 空で星がひらりと光る。

 名前も距離も明るさも知らないその星を、私は見ていた。そしてまた、きれいな星だ、と思う。その星を指さして、叫ぶ。

「あそこにある、大きくて白い星が三角に並んでるところが耳!」

「じゃ、あっちの木の上の辺り、あの星が尻尾!」

 ヨウも星を指さした。真夏の夜空に、歪な形のキツネの姿を描いていく。静かな夜に、私たちのはしゃぐ声が溶けていく。

 ぽふ、と音がしたと思ったら、いつの間にか出ていたヨウの尻尾が地面を叩いていた。

「尻尾、星じゃなくて、本物が出てるよ」

「別にいいだろ、イチカしかいないんだし」

 だらりと力を抜いたヨウの肩越しに、彼の右手を見た。触れてしまえそうなくらい近くに手をついている。

 ヨウと手を繋いだら、どんな感じがするのだろう。

 こんなに近くにいるのに、彼に触れたことは一度もない。当然だ、触ってはいけないから、仕方ない。でも、ヨウの柔らかそうな手、体温、ふわふわな尻尾も、触れてみたい。

 届きそうな右手に、私は自分の左手を少しだけ近づけて、止めた。

 意識を逸らそうとして、風にさわさわ唸る木の音に耳を傾けた。遠い夜空の星々が何億光年もの距離をこえてヨウの瞳に憩う。ヨウはこんなに近くにいるのに、触れられないし、考えていることも私とはきっと違う。近いのに、遠い。

 突然、ヨウが声を上げて地面から手を離した。

「危なっ! 手に触りそうだった」

 焦りながらも、セーフ、と零して口角を上げた。

「あっ、うん、ほんとだ。私も気がつかなかった」

 ごめん、わざと近づけたの。なんて言えない。

「さてと、そろそろ戻るか」

 ヨウが立ち上がった。私は彼を見上げ、素っ頓狂な声を出す。

「えっ、もう?」

「もう星は流れてこないぞ。それに、無断で出てきちゃったからカヨコが心配してるかも」

「そっか……うん、帰ろう」

 私も腰を上げるのを、少しだけ渋った。本当はもっと、こうして一緒にいたかった。時間が止まってくれればいいのに、なんて、頭の端っこで思いながら、立ち上がる。

 石段を下りながら、私は呟いた。

「折角流れ星見たのに、願い事、なにもしなかった」

「星なんかに、願い事? 人間は変わったことすんだな」

 ヨウが不思議そうに首を傾げた。

「流れ星が流れ落ちる前に、願い事を三回言えたら叶うんだよ」

「なんだそれ、人間って面白いこと思いつくよな」

 ヨウは可笑しそうに笑って、真上を見上げた。

「願い事なんかより、ふたりで星座作ったんだから、そっちの方が特別だろ」

「……うん!」

 なにもない一日だと思っていたけれど、全然、そんなことはなかった。ヨウと一緒に描いた下手くそな星座は、一生忘れない。

 月が私たちを見下ろしている。 静かな夜の道が、私の帰りを導いていた。

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