繋がる鉛筆

 今日は晴樹と明奈ちゃんが、それぞれ友達の家に遊びに行っているらしい。

 ふたりは私を誘いに来てくれたそうだが、私がうっかり寝過ごしたせいで行き損ねてしまった。

 汗ばむ体で畳の上でごろつきながら、ぼうっと天井を眺めていた。今日は茹だるような暑さで、なにもする気が起きない。しかしひとりでいると妙に冷静になって、毎日遊んでいるわけにもいかないのだと思い出す。宿題を終わらせよう。

 むくりと体を起こして立ち膝で鞄に向かっていき、中をガサガサ漁った。宿題を一覧に書き起こしたプリントと宿題を見比べながら、気分が乗るものを探す。国語の問題集も、算数も、やる気が起きなかった。

 汗でべたつく髪を掻き上げながら扇風機と睨めっこする。一生懸命、生ぬるい風を掻き混ぜている。もう一度宿題一覧に向き合い、出された宿題の名前を目でなぞってみる。ふと、その中のひとつに目が止まった。夏休みの思い出の絵だ。顔を上げると、大きな荷物からはみ出した、筒状に丸まった画用紙があった。

 そうだ、おばあちゃんの家で過ごしていること自体が絵のテーマになる。これでいいや、終わらせてしまおう。

 巻かれて輪ゴムで止められている画用紙を引っ張り出して、筆箱から鉛筆を出した。図工の授業で、シャープペンではなくて鉛筆を使うように言われている。

 なにを描こうか。おばあちゃんの家にいるっぽいもの。そうだ、おばあちゃんの庭がいい。

 障子を開けて縁側に出た。午前十時の日の陽射しに照らされた緑の庭が広がっている。そういえば昨夜、雨が降ったらしい。おばあちゃんが手入れしている草木が雨の露に濡れて、陽射しを反射させてきらきらしている。

 庭の緑が眩しい。縁側に画用紙を広げて寝転がる。輝く庭と真っ白な画用紙を交互に見ながら鉛筆を滑らせた。

 庭の梅の木がガサガサ揺れる。見ていると、木陰からキジ子さんが出てきた。キジ子さんが雨でぬかるんだ庭をトコトコ歩きながら、私の顔を見つめている。彼女はいまいち私に懐いていない。

 キジ子さんはトンッ、と縁側に上がってきた。私は悲鳴をあげそうになって、思わず鉛筆を落とした。そんな泥だらけの足で上がってきたら、縁側が汚れてしまう。

 慌てて捕まえようとしたがもう遅く、案の定、縁側の上にぺたぺたと肉球型の足跡を付けてくれた。板が泥だらけになる。あたふたしているうちに画用紙の上に乗ってきて、白い画用紙に茶色の足跡がスタンプされてしまった。

「あー……」

 汚れに頭を抱える私を横目に、キジ子さんは涼しい顔で畳の部屋に入ろうとする。畳まで泥だらけにされたら敵わないので、私は転がるようにしてキジ子さんの胴をがしっと捕まえた。突然捕まったキジ子さんは、不満げな低い声でナーウと鳴いた。

「縁側が泥だらけだ。とりあえず、これ以上泥まみれにされないようにキジ子さんをなんとかしないと」

 キジ子さんを持ち上げて、抱きかかえる。泥だらけの足が自分に付かないように足を外側に向けて抱え、情けなくもおばあちゃんを呼びながら縁側に沿って歩いた。

「おばあちゃん、キジ子さんが汚いよ」

 おばあちゃんは台所にいた。

「じゃあ洗っちゃいましょうか。ちょっと手が離せないから、一夏、洗っといてくれる?」

「どうやるの? お風呂で洗うの?」

「そうよ。洗い方はシャンプーのボトルに書いてあるから。猫は水が嫌いだから、暴れるかもしれないけど頑張ってね」

 キジ子さんを抱いてお風呂場に向かう。お風呂場のタイル敷きの床に下ろされたキジ子さんは、なにが起こるのか察したらしい。キジ子さんは恨めしそうな声でナーと鳴いた。

 桶にぬるま湯を溜めて、猫用シャンプーを混ぜた。そこにキジ子さんを入れて、足から泥を落とす。キジ子さんは終始、ナーナーと鳴いて抗議してきた。

 キジ子さんを洗い終えて、脱衣所に這い出た。毛むくじゃらのサバ子さんは水を吸ってひと回り小さくなった。キジ子さんを洗っているうちに、私自身もびしょ濡れになってしまった。水を吸い込んだTシャツを絞っていると、横でキジ子さんが身震いして水をはじき飛ばしていた。窓から入ってくる陽射しに、キジ子さんから飛び出た雫がきらきら煌めく。キジ子さんがちら、と私の顔を見上げた。

 次の瞬間、キジ子さんは半開きだった脱衣所のドアに体当たりして、廊下へ飛び出していった。

「こら、まだ乾かしてないでしょ!」

 今度は廊下が水浸しだ。私はキジ子さんを追って駆け出したが、脱衣所の濡れた床に滑って派手に転んだ。

「ったー! 待てキジ子さん!」

 タオルを引っ掴んで脱衣所を飛び出すと、おばあちゃんが台所から顔を覗かせて笑っていた。

 キジ子さんが俊敏な動きで廊下を走っていく。追いつきそうで追いつけない。

 畳敷きの寝室に飛び込んだキジ子さんを目で捉えて、捕まえようと飛びかかったが、キジ子さんはするっと私の手をすり抜けて縁側に向かっていく。まずい、また泥の中に入られたら折角お風呂に入れたのに水の泡だ。

「キジ子さーん!」

 思わず大声を上げた。キジ子さんが畳の上を走り抜けて縁側に飛び出し、障子の影に見えなくなった。

 ああ……取り逃した。半ば諦めながら、足跡が付いたままの縁側に出ると、私はぎょっとして立ち止まった。

 なんと、障子の裏にヨウがしゃがんでいて、キジ子さんを取り押さえていたのだ。

 びっくりして声を出せずにいると、ヨウはキジ子さんを持ち上げてひょいっと私に突き出した。

「捕まえたぞ」

「あ、ありがとう」

 受け取りながらお礼を言う。キジ子さんのびしょびしょの体を抱えると、もとから水を吸っていたTシャツがさらに水を滴らせた。

「でもヨウ、なんでここにいるの?」

 化け狐だから人間のルールは通用しないのもしれないが、勝手に縁側に上がっている。

「遊びに来た」

「また庭から入ってきたの? 玄関から来てくれればいいのに」

 言ったあとで、ハッとなった。庭から上がってきた? つまり、泥の上を歩いた足で。ヨウの足に視線を向けると、やっぱりだ。裸足の足は泥まみれだった。

「ああ……まあいいけどね、どっちにしろ掃除するから」

 ため息を洩らすと、ヨウは意味を理解したらしく、身軽に庭に飛び降りた。

「わりいな、汚しちゃだめだったのか」

 私はヨウがいた場所をちらと見て、私は目を疑った。そこにあったのは、キジ子さんと同じ肉球型の足跡だったのだ。

「えっ、なにこれ。これ、ヨウの足跡?」

「そうだけど?」

 ヨウはきょとんとしていた。私は驚きで固まった。ヨウの足は、どう見ても普通の人間の足だ。

「なんでなんで!? どうしたらこんな足跡がつくの?」

 もう訳が分からない。目を白黒させていると、ヨウはパーカーのポケットに手を入れてだるそうに肩の力を抜いた。

「さあ。俺が狐だからかな?」

「そっか、人間の形をしてるのは術の力なんだっけ。本当は狐だから、狐の足跡がつくんだね」

 言ってから少し考えて頭を振った。

「いやいや、それでもやっぱりおかしいよ。なんで?」

「なんでもなにも、それが事実なんだから仕方ないじゃん。カヨコもよく言ってるだろ、理科で解明できないこともあるんだぜ」

 なんだか分からないけれど、どう考えてもおかしいのは分かる。考えても理解できそうにないし、ヨウが言うとおりそれが事実なら仕方ない。

「それより猫を拭いてやってよ。イチカに『離せ』って言ってるぜ」

 ヨウの台詞に目をぱちくりさせて、私は聞き返した。

「ん? キジ子さんがそう“言ってる”の?」

「そう。言ってる」

 比喩かなと無理やり納得すると、キジ子さんがナウ、と短く鳴いた。

「おう、ちゃんと乾かせよ」

 ヨウが返事した。一瞬思考が停止して、ヨウの顔とキジ子さんを交互に見た。

「今、キジ子さんはなんて?」

 聞くと、ヨウが涼しい顔で答えた。

「ジトジトして気持ち悪いって」

「猫と会話できるの?」

「できるよ」

 ヨウがさも当たり前のことのように言う。私がまたもや固まると、ヨウは可笑しそうに笑った。

「だって俺、化け狐だよ」

 ヨウといると、不思議なことが次々に起こる。

「驚くのも無理もないかもな。イチカは人間だから、動物と話せないのが当たり前なんだもんな」

 認識の違いが大き過ぎる。訳も分からぬまま、私はキジ子さんを床に降ろして持っていたタオルで包んだ。ヨウは縁側に座って、その様子を眺めていた。わさわさとキジ子さんの毛をタオルで擦ると、嫌がったキジ子さんがまた逃げようとしたがヨウが前から押さえてくれた。

「あ、ありがと」

 ヨウが真っ直ぐ私を見て、無言で小さく頷いた。キジ子さんを間に挟んだだけの距離は、ちょっと近すぎてどきっとする。私はキジ子さんごと、じり、と身じろぎした。

 キジ子さんの前足の付け根を押さえているヨウに、私は尋ねた。

「ヨウってさ、キジ子さんには触れるんだね。人間には触れないのに」

 言うと、ヨウはキジ子さんから手を離してこたえた。

「俺たち狐を、害のある存在として迫害したのは人間だからな。猫は関係ないんだよ」

「じゃあ、迫害しない人間なら触れる?」

「触れるわけないだろ。人間と狐っていう、大きな括りなんだから」

 呆れ顔のヨウに、私はそっか、と小さく零した。

「でもさ、狐避けの神社はまるで機能してないんでしょ。じゃあ触っちゃいけない呪いも、もう解けてるんじゃないの?」

「それがそうでもないんだよ。神社は力の弱い人間の術者が作ったからしょぼいけど、触っちゃいけない呪いの方は、人間と狐の契約みたいなもので、そっちは強力なんだって」

 なんだかよく分からないが、神社とは比べ物にならないくらい厳密なようだ。

「手袋して触るとか、だったら大丈夫かな?」

「さあ、触れるかもしれないけど、もしものことがあると嫌だから試したくないな。それにこの暑いのに手袋なんて付けたくないだろ。そこまでして俺に触りたい?」

 そういう言い方をされると。私は思わずキジ子さんを抱き寄せた。

「触りたいっていうか……不便だなあと思っただけだよ。気づかせたいときとか、肩叩いたりできない」

「声をかけてくれれば気づくよ」

「周りで大きい音がしてて声が聞こえない場合は?」

「大丈夫、俺ら狐は自分のこと呼ばれたら絶対聞こえるから。どんなに大きい音がしてる場所でも、ずーっと遠くにいても、問題ない」

 すげえだろ、としたり顔を向けられた。ヨウが不便に感じてないのなら、いいのかなあ。

「じゃあ、逆にヨウが私に触れる必要があるときは? 私は大きい音がしてたら声かけられても気づかないもん。ヨウが私をつつけるようにした方がいいよ」

 押しに押すと、ヨウは小首を傾げた。

「そうなのか」

「そうだよ。うーん、物を介せばいいんだよね?」

 キジ子さんの受け渡しができるのだから、間になにか物を挟めばいいのだ。

 キジ子さんを抱きかかえて、私は画用紙の上に転がっていた鉛筆に手を伸ばした。

「これあげる。これからはこの鉛筆を手の代わりにして」

 ぐいっと鉛筆を差し出す。ヨウは不思議そうに鉛筆を受け取って、しばらく眺めていた。やがて、キャップのついている方を私に向けて、私の肩をつついた。なんだか擽ったい。

 ヨウはしきりに私の肩をつついてきた。

「はいはい。使い方を分かってくれればそれでいいから」

 鉛筆を払ったが、ヨウは今度は私の頬をツンツンつつきはじめた。

「もう、しつこいよ!」

「ふふっ、これ面白いな」

 ようやく彼は鉛筆を引っ込めた。

「イチカってこんな感触なんだなって、なんとなく分かる」

 呟いた表情が、なぜだか一瞬すごく切なそうに見えて、私はなにか声をかけたかった。が、咄嗟に言葉が出なかった。

 ヨウはパーカーのポケットに鉛筆を入れて、ニッと笑った。

「ありがとさん。使うか分かんないけど、一応持っとく」

 私は、キジ子さんをタオルでごしごし撫で回した。

「どういたしまして。キジ子さんを二回も捕まえてくれてるお礼」

 水気を拭き取ったら、キジ子さんは私から逃げるように部屋の隅に歩いていき、体を舐めはじめた。

 ふいに、後ろからおばあちゃんの声がした。

「一夏、大丈夫? びしょびしょに濡れてたし、転んでたわね」

 振り向くとおばあちゃんが廊下からこちらを覗き込んでいる。

「大丈夫だよ、怪我はしてない」

 答えると、おばあちゃんはにっこりと笑ってこちらに歩み寄ってきた。それから部屋からはちょうど障子に隠れて見えなかったヨウに気がついて、目をぱちぱちさせた。

「一夏の新しいお友達?」

 おばあちゃんは私の言葉に先回りしてそう言い、ヨウに優しく笑いかけた。ヨウが首を竦めて、小さく会釈する。

 ヨウ曰くおばあちゃんは妖怪の間では有名らしいので、一方的に彼女を知っている。だがおばあちゃんからしたら、ヨウは初対面の少年である。私はヨウ本人に代わって紹介した。

「この子はヨウっていうの。最近ここに引っ越してきたんだって」

 化け狐なのだと言いかけたのを慌てて呑み込んで、晴樹と明奈ちゃんに言ったのと同じ嘘をついた。おばあちゃんは当然疑わず、にっこりした。

「そう。一夏の友達なら、いつでも遊びにきてね」

 おばあちゃんが部屋を去るのを見届けてから、ヨウがため息をついた。

「あの人、やっぱ苦手だ。妖怪が好きなのか退治したいのか、関わろうとしてきて困るんだよ」

 私は、妖怪の本だらけの部屋を思い浮かべた。おばあちゃんはすごく妖怪の勉強をしていて、妖怪を探したり呼び寄せようとしたりする。そのせいで、妖怪側からも名前を覚えられているのだ。

 そんな話をしていたら、廊下からおばあちゃんの声がした。

「スイカあるわよ。ヨウも一緒にお食べ。あ、でもその前に床の掃除をしてからね。それと、一夏は着替えなさい、風邪引くわよ」

「はあい」

 びしょびしょのTシャツを手で引っ張りながら返事をする。ゆっくりと立ち上がると、座ったままのヨウが私を見上げた。

「苦手だけど、食べ物くれるなら悪い奴じゃないんだな」

「現金なんだから」

 私はふふっと笑って障子を閉めた。箪笥にしまってある乾いたTシャツを適当に選ぶ。

 ふいに、身繕いの途中の姿勢のまま私を見ているキジ子さんと目が合った。

 私には、キジ子さんの言葉は分からない。でもヨウには分かるのだから、キジ子さんはなにも考えていないのではなく、なにかを伝えようとしてくれている。

 私はキジ子さんの前にしゃがんで、三角の耳に口を寄せた。

「キジ子さん、ヨウが狐なのは、おばあちゃんには内緒だよ」

 こそこそっと耳打ちすると、キジ子さんはナア、となにやら返事をしてくれた。

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