月十蒔神社
この村に来て三日目の午後。私はおばあちゃんから貰った五百円玉を持って、お隣の晴樹と明奈ちゃんの家を訪ねていた。
「おばあちゃんがアイス買っておいでって言ってくれたんだ。お店を知らないから、案内してほしいな」
私はまだ、おばあちゃんの家やその周辺しか歩いていなくて、土地勘がなかった。玄関先に出てきた晴樹が快く頷く。
「いいよ、教えてやる。ついでに里を案内するよ」
明奈ちゃんも一緒についてくる。ふたりが靴を履いていた、そのときだった。
「うるさいぞお前ら!」
突然、家の奥から怒鳴り声が聞こえた。
私と明奈ちゃんがびくっと体を縮こませる。晴樹は声のした二階に続く階段をじろりと睨んだ。
「はいはい、すぐ出てくよ」
それから靴紐が半端に結べていない明奈ちゃんの手を引っ張った。
「行くぞ、兄貴が怒る」
靴を履けていない足で玄関を飛び出した。私もそれについて外に出た。
外は蒸し暑くて空が真っ青だった。張り切りすぎた陽射しが、畑の緑を照らしてより鮮やかに見せていた。
「今の声が、中学生のお兄さん?」
歩きながら尋ねると、晴樹が爪先でトントンと地面を叩いた。
「そう。受験勉強に集中したいらしくて、すぐ怒るんだ」
「勉強が好きだから邪魔されたくないんだって」
明奈ちゃんが付け足す。
「勉強が好きなの? 私とは正反対」
私の驚きに晴樹が同意した。
「俺とも正反対。理科で解明できないものはないって言ってる
ざりざりと土の散ったアスファルトの上を歩きながら、私はおばあちゃんの家を振り向く。
「おばあちゃんとも正反対だね」
おばあちゃんは、妖怪や幽霊などの理科で解明できないものが大好きだ。
近くの民家の洗濯物を干すおばあさんや野菜を加工しているおじいさんに挨拶しながら細い道を歩いた。小さなこの里では、全員が顔見知りだという。
周りの風景が畑から田んぼに変わった。伸びかけの稲がひょこひょこと並んでいる。畦道の向こうに、民家に比べひと際大きい木造の建物とグラウンドが見える。その建物を指さして、晴樹が言った。
「あれが学校な」
二階建ての小さな校舎と、その横に畑と小さなジャングルジム。見通しのいい道のお陰で、遠くからでもそれだけ認識できた。
畦道をぽつぽつ歩いているうちに、あっという間に学校の前まで着いた。
「で、学校の向かいにあるのがツキトジ商店。ここでアイス買うぞ」
晴樹の言うツキトジ商店は、学校から道路を挟んで目と鼻の先にある、こちらも木造の古い建物だった。薄汚れた看板に、レトロな文字で店の名前が掲げられている。手前に塗装の剥げた青いベンチが置かれていて、おじいさんがひとり、休んでいる。
車通りのない道路を渡りながら、晴樹が言った。
「ここは文房具とか野菜とか、お惣菜も売ってる。大体なんでも売ってるよ」
扉がなく道に向かって直接商品が開け放たれている店の中は、外から認識できるだけでも豊富な商品が見て取れた。
晴樹が店に入りながら店の主に声をかける。
「こんにちは、アイスください」
打ちっぱなしのコンクリートの床に、商品棚が並ぶ。晴樹が言っていたとおり、ノートが各種並んでいたかと思えば駄菓子もずらりと並び、奥には冷蔵ショーケースに入った冷たい飲み物も充実している。
店の奥が店の主の自宅になっているらしく、奥に見える暖簾から腰の曲がったおばあさんがのろのろと出てきた。
「はいよ、アイスね」
おばあちゃんから預かった五百円で箱入の棒つきアイスキャンディを買って店をあとにする。帰り道を歩きながら、私はアイスの箱を開けた。
「暑いから早速食べようよ」
箱を晴樹に差し出すと、彼はレモン味を引き抜いた。隣の明奈ちゃんにも促すと、彼女も戸惑いながら笑ってイチゴ味をとった。私も一本引き抜く。ミルク味だ。
横から手が伸びてきて、メロン味を持っていった。
「ちょっと晴樹、ひとり一本!」
私はくわっと手の方を見上げ、そして絶句した。
メロン味のアイスを持っていたのは、晴樹ではなくヨウだったのだ。
「あれ、ヨウ。いつからそこに」
「うまそうだな。頂戴」
ヨウはアイスの包みを剥きながら言った。
「全く気づかなかったよ。どこから現れたの」
「その木の上にいた」
アイスをくわえてヨウが道端の木を指さした。
「木って……あんた忍者じゃないんだから」
「だから、忍者じゃなくて狐だって」
言いながら、ヨウがふわっと尻尾を見せてきた。ぎょっとして私は目で訴えて尻尾を隠させた。
夢じゃなかったんだ。
振り向くと晴樹が目を見開いてぽかんと口を開けている。
「えっ……今の」
「なに? なんか見えた?」
私は慌ててとぼけた。まずい、ヨウが狐か狐じゃないかなんて疑っている暇はない。
「どうしたの、お兄ちゃん」
明奈ちゃんは見ていなかったらしく首を傾げている。晴樹が目を擦って首を振った。
「いや、多分気のせい」
よかった、なんとか誤魔化せたみたいだ。
「一夏、知り合い?」
晴樹が改めて私に尋ねてきた。明奈ちゃんも呆然とヨウを見つめている。このふたりは、初めてヨウに会うのだ。
「この前話した、ヨウだよ」
ヨウが山に住む妖怪だとばれないように、私は咄嗟に嘘をついた。
「引っ越してきたんだって。まだこっち来たばっかり」
ヨウが不思議そうに私を見たが、彼はなにも言わず大人しくアイスをくわえていた。
「じゃあ夏休みが終わったら同じ学校だね」
人見知りの明奈ちゃんが、少し怯えながらヨウに声をかけた。
「よろしくね。私、明奈」
明奈ちゃんはヨウに手を差し出した。ヨウはその手を一瞥したが、握らなかった。そうか、ヨウは人間に触れられないのだ。理由を知らない明奈ちゃんは、握手を拒絶されたと思って怯えた目をして手を引っ込めた。様子を見ていた晴樹が眉を顰める。
「おい。明奈が怖がってるだろ」
「ヨウはちょっとスキンシップが苦手なの」
慌ててフォローしたが、晴樹はまだ不機嫌な目でヨウを見つめている。その視線に、ヨウもムッとする。
「なんだよ、その目は」
「そっちがそんな態度取るからだ」
「そっちこそ、いきなり睨んできただろ」
ヨウが牙を剥き、晴樹はもっと眉を寄せた。嫌悪ムードだ。
「いいよお兄ちゃん、私なら大丈夫」
明奈ちゃんが晴樹の腕を掴んでおさえ、ヨウに向き直った。
「ごめんねヨウくん、お兄ちゃんはちょっと過保護なだけ……」
明奈ちゃんに止められた晴樹は大人しく引き下がり、不満そうにアイスをかじり出した。まだ晴樹を睨んでいるヨウに、私は声をかけた。
「残りのアイス、溶けちゃうから帰るよ」
喧嘩を無理矢理終わらせる。ヨウも不機嫌顔でアイスをくわえた。私は帰り道を歩きながら言った。
「これ冷凍庫にしまったら、また里を案内してよ。どこか遊びに行こう、ヨウも一緒に」
晴樹がアイスをくわえたままじろっとヨウを睨んだ。
「仕方ないな、明奈をいじめるなよ。どこ行くか」
私はぴょんっと右手をあげた。
「カラオケ!」
「ない」
「カフェ!」
「ない」
今更だけれど、月十蒔里には遊べる施設がない。ヨウがアイスを口から離した。
「狐の呼坂」
彼がぽつんと零した言葉に、晴樹と明奈ちゃんが一瞬戸惑った顔をした。が、ヨウは気にしていない。
「イチカ、たしか調べてるんだよな」
「そうなのか? なんであんなところ」
晴樹が私を横目で見た。
「郷土伝説を調べてるの。狐の呼坂の伝説のことおばあちゃんから聞いて、面白そうだったから」
私が答えると、晴樹がすかさず返した。
「行かない方がいいと思う」
明奈ちゃんが彼に続いた。
「小さい頃から、あそこには行っちゃだめって言われてるの。妖怪が出るって」
「まあ、妖怪なんか信じてないけど。行かないように言われるからには、なにかしらの理由があるんだろうからな」
晴樹の言葉に、私はちらとヨウの顔色を窺ったが、彼も自分が妖怪だとは言い出さずに黙っていた。
「そんなに、この辺の人たちは化け狐が嫌いなの?」
私が尋ねると、晴樹がこくこく頷いた。
「もう嫌いも嫌い。お年寄りなんかはいまだに妖怪信じてるし、若い人たちもまあ、根付いた風習で不吉なものとして嫌がる人が多い」
もう一度ヨウの顔を見たが、相変わらず静かにアイスを舐めている。
晴樹の言葉に加えて、明奈ちゃんが言った。
「妖怪じゃない、動物のキツネも嫌いな人が多いんだよ。昔から『狐が人を恨むと妖怪になる』って言われてるから」
「へえ、そんなに!」
こんな山間の里なのだ、野生のキツネが出ることもあるだろう。悪いものと見なされているのは、キツネが気の毒な感じがする。
明奈ちゃんはそうだ、と手を叩いた。
「月十蒔祭っていう、化け狐を祓うお祭もあるんだよ」
それを受けて晴樹がアイスを口から離す。
「妖怪を信じてない人が増えてきてるけどさ、昔から続けてることだからな。今じゃ月十蒔里最大のイベントだよ」
皮肉をまじえて答えた晴樹に、私は尋ねた。
「お祭かあ、屋台とかあるの?」
「あるよ。青年団の人たちが、りんご飴とかフランクフルトとか売ってる。うちの両親も、毎年かき氷出してる」
晴樹が言うと、明奈ちゃんも身を乗り出して言った。
「花火も打ち上げるんだよ。とってもきれいなの」
「花火! いいなあ! 行きたい」
由来こそ狐のお祓いのようだが、内容は普通の縁日みたいなもののようだ。
「いつやるの?」
「毎年、八月の最後の土曜日」
明奈ちゃんが微笑んだ。
「その頃、まだ一夏ちゃんこっちにいるよね。私とお兄ちゃんも行くから、一緒に花火、見に行こうよ」
「うん」
楽しみがひとつできた。振り返ると、いつの間にかヨウの姿は消えている。あれっと見渡してみたが、どこにもいなかった。
「なんだあいつ。いつの間に帰った?」
同じく気がついた晴樹が首を傾げていた。
*
家に戻ってアイスを冷凍庫にしまい、台所で野菜を洗っているおばあちゃんに私は声をかけた。
「月十蒔祭に行くことにしたよ」
野菜に当たって撥ねる水がきらきらと光を反射している。
「いいわね。しっかり狐を祓わないとね。そうだ、お祭の夜は浴衣を着ていこうか」
おばあちゃんが目を輝かせてぱちんと手を合わせた。なんだか照れくさくて、私は咄嗟に首を横に振る。
「浴衣なんてやだよ、張り切ってるみたいで恥ずかしいよ」
だが、おばあちゃんは一向に引き下がらない。
「赤地に白のお花の模様の、かわいい浴衣があるのよ! 一夏に絶対似合う。おばあちゃんが着付けてあげる」
火がついてしまったおばあちゃんは、洗っていた野菜を放り出して、浴衣を探しに廊下を小走りして行った。今からでも試着させられそうだ。私はそろりそろりと台所を出て、玄関から逃げ出した。
玄関口に、ヨウが立っていた。
「あ、いつの間に戻ってきたんだね」
ここで待っているように伝えた晴樹と明奈ちゃんはいない。
「晴樹と明奈ちゃんは?」
「あの兄妹ならアイスの棒を捨てるって言って家に入ってったぞ。そのうちまた出てくるだろ」
「ヨウ、さっきはなんで急に消えたの?」
「祭の日が分かったから、神社はもう準備始まってるのかなと思って、様子を見に行ってた」
私はここに来た日に見た森にめり込んだ神社だ。
「神社って、里の入口にある、あの大きな鳥居のだよね」
「そうそう、川の向こうの。あそこが祭の会場なんだ。まだいつもどおり、なんにも変わってなかったけどな」
そうか、ヨウはお祭で祓われる側の化け狐だから、用心しているのだろうか。
「この辺の人が狐を嫌ってるなんて話、狐からしたら悲しかったよね。ごめんね」
私が謝ると、ヨウは平気な顔で言った。
「気にすんな。嫌われてんのは知ってる。俺ら狐も人間嫌いが多いから、お互い様だ」
自分たちを祓うお祭なんてやっている人間が好きなわけない。
「じゃ、ヨウはどうして人里に……」
「お待たせ」
私の質問を遮るように、玄関から出てきた晴樹の声がした。後ろから出てきた明奈ちゃんが提案する。
「ねえ、狐の呼坂に行くのはちょっと怖いから、月十蒔神社に行かない?」
ちょうど、先程ヨウが様子を見に行っていた、その神社の名前だ。明奈ちゃんが続ける。
「月十蒔神社はお祭の会場で、狐が人里に来ないように建てられた神社なんだよ。狐の呼坂の伝説についてもすごく重要なところだから、一夏ちゃんの研究の役にも立つと思うの」
「なんか珍しいね。狐を神様の遣いとして祀ってる神社は聞いたことあるけど、狐を祓うための神社かあ」
そういえば、おばあちゃんもそんなようなことを言っていたなと思い出した。江戸時代に神社ができて、化け狐が里に降りてこないように術をかけただとか。
「面白そう、行ってみたい!」
私たちは月十蒔神社に向かって、四人で歩き出した。
一歩先を行く晴樹と明奈ちゃんの背中を追いかけ、私は、ふと隣のヨウに目をやった。
「そういえば、ヨウ、大丈夫?」
私は晴樹と明奈ちゃんに聞こえないくらいの声で問いかける。
「神社、狐を祓うために作られたって。さっき様子見てきたって言ってたけど、狐を祓う神社なら、ヨウは近づけないんじゃ……?」
「いや、全く。あんまり手入れされてないから、狐避けの機能は全然働いてない。もはや形だけ」
ヨウが私の声量に合わせてぼそぼそ答えた。
そうか、ヨウが人里に下りてきている時点で機能していないのだ。だというのに、この里の人は誰もヨウに気づいていない。私しか知らないと思うと、なんだか可笑しかった。
*
ちょろちょろと細く流れる川の辺りは、住宅地や畑より幾分か涼しく感じた。橋の向こうに山への入り口の坂、そして鬱蒼と茂る森の木々が見える。その緑の中にうずもれて、真っ赤な鳥居が物々しく建っていた。鳥居の向こうには長い石段が高く積まれて、じわじわと蝉の声が降り注いでいる。
私は前を行く三人に続いて石橋を渡った。すぐ目の前で巨大な鳥居がずっしりと小さな私たちを見下ろしている。
鳥居をくぐると、蝉の声がさらに大きくなって私たちを包み込んだ。石段は暗い木々の中に呑み込まれて、先の方は全く見えなかった。
明奈ちゃんが石段に足を乗せた。彼女の横をすり抜け、晴樹が軽快に数段駆け上がって、下にいる私たちを見下ろした。
「この石段、すっげー長いからな。途中で音を上げるなよ」
それをヨウが見上げる。
「よしどっちが先に上がるか勝負だ、ハルキ!」
ヨウの裸足が石段を駆け出す。私の隣で、ぽつりと明奈ちゃんが呟いた。
「ヨウくんって、なんで裸足なんだろう」
駆け上がるヨウの後ろ姿を見ながら、遠慮がちに言う。
「裸足で石段上がったら、足の裏が痛くないかな」
明奈ちゃんの言うとおりだ。走るときだけ履かない、という子はクラスに時々いるけれど、ヨウは普段から履いていない。これも彼が妖怪だから、だろうか。
「イチカ、アキナ、遅いぞー!」
ヨウが振り返ってこちらに向かって叫んだ。
「遅くないもん! すぐ追い越しちゃうから!」
私もヨウに向かって大声で返して、石段を二段飛ばして駆け上がった。
「一夏ちゃん! 最初からそんなにとばしたら、最後の方で息が上がっちゃうよ」
背後から明奈ちゃんの声が聞こえる。
木々に包まれた石段を上ると、緑の洞窟に飲み込まれるような錯覚に陥った。蝉の声がシャワーのように降り注ぐ。葉っぱの隙間からきらきら溢れる日が、石段を斑に照らしていた。
*
「いっちばーん!」
あっという間にヨウと晴樹を追い抜いた私は、いちばんに石段の最上部までのぼりきった。少し目線を上げる。どうやらすごく高いところにいるようだ。月十蒔里の風景が一望できる。斜めになった階段とそれを囲む木々、そしてその向こうに広がる、真昼の月十蒔里。緑の畑とぽつぽつ立つ民家、真っ青な空。
広大な景色につい目が奪われる。畑の上に広がる大空を、大きな鳥がさあっと撫ぜるように飛んでいた。入道雲の積み上がった空に、鳥の影が小さくなっていく。息を呑む景色に、しばらく目を奪われていた。
「すごいだろ、全部見えるんだ」
横から声をかけられて振り向いた。遅れて追いついてきたヨウだ。汗で額に髪が張り付け、荒い呼吸を繰り返している。
彼の背後には神社のお社と、それに続く石畳の参道。周りはやはり木に包まれて、その中で赤いお社は神秘的な空気を放っていた。
ヨウは膝に手をつき、大きく息を吐いた。
「にしてもイチカ、体力ありすぎ。すげー脚速いのな」
「まあね。妖怪のヨウにすら勝っちゃうんだから」
しばらくして、晴樹の声が届く。
「負けた……あとは明奈だけか」
もう三十秒も待つと、明奈ちゃんがよろよろと石段をのぼってきた。
「やっと到着。疲れたあ」
今にも倒れそうだったが、顔を上げ、高い高い石段の上から見下ろす景色を見ると、火照った顔をへにゃっと歪ませた。
「きれい。おうちがちっちゃく見えるね」
「お疲れ様、明奈ちゃん」
私が明奈ちゃんの背中をさすると、彼女はきらきらした瞳を私に向けた。
「それでね。奥のお社の横に、狐伝説について書いてある看板が立ってるの。結構長いけど、面白い話だから読んでほしいな」
参道を進み、お社の前に立つ。晴樹と明奈ちゃんが、手を叩いてお辞儀をした。私も見様見真似で同じようにお祈りしたが、ヨウは腕を組んで見ているだけだった。
明奈ちゃんの言っていたとおり、お社の横に古びた看板が立っている。神様への挨拶を終えた私たちは、看板の前に並んだ。
『月十蒔神社の由来』
筆で書かれた文字は、木の看板に墨が滲んで少し読みにくい。
『かつて月十蒔里の地は、“暦”と呼ばれるメスの妖狐に統治されていた。暦は多くの妖狐を率いて、山の中で暮らしていた』
「『妖狐』って、化け狐のことだよね。たくさんいるの?」
私が聞くと、晴樹がうーんと唸った。
「あんまよく知らないけど、この辺の山のキツネは、この世への未練とか思い入れが強いと妖怪になるんだって、佳代子さんが言ってた」
それを受けて、明奈ちゃんが頷く。
「各地の妖怪伝説で化け狐の生まれ方はそれぞれだけど、少なくともこの辺りの狐はそうなんだって」
私はふいに、隣に立つヨウに目をやった。彼は無言で看板を見つめている。この世への未練や思い入れがある狐が化け狐になるというのなら、ヨウも例外ではない。彼にも、なにか強い想いがあるということだ。
再び、看板に目を戻す。
『暦の支配下の狐たちは、日頃から人里の人間に悪さをしていた。作物を荒らしたり、夫婦仲を悪くしたり、一時的に子供を神隠しにあわせたり』
なるほど、里の人々が狐を嫌うのは、こういういたずらに耐えかねた歴史があるから、らしい。
『里の人間は術者を呼び、狐が人間に悪さできないように、触ることができないように術をかけた。そしてこの神社を建てて、人里に来れない境界にした』
私はまた、ヨウを一瞥した。看板にはこう書いてあるが、実際は神社の力は弱くて、ヨウはこんなふうに人里に下りてきている。
「狐が人間に触ると消えちゃうって、おばあちゃんが言ってた」
私が言うと、晴樹が頷いた。
「俺もそう聞いてる。この呪いは、人間と狐が二度と戦争しないために、お互いに結んだ契約なんだって」
「契約……」
私は思わず繰り返した。
『神社に近寄れない狐たちが人に近づける、もっとも近い場所が、里の入口の坂道である。あの坂には月十蒔里の人間が通りかかるのを待ち、いたずらしようとする狐が出る。狐が人を呼んでいるその坂は、“狐の呼坂”と名付けられた』
晴樹が看板に首を傾げた。
「でもさ、実際、妖怪なんていないよな。昔の話って、山賊とかを妖怪として取り扱ってること多いんだろ。兄貴が言ってた」
兄貴、すなわち晴樹のお兄さんの健太さんは、「理科で証明できないものはない」と言い切る人だ。だから妖怪なんて信じていない。晴樹もそのお兄さんと話すからか、どこか冷めた目で看板と向き合っていた。
私は頭の中で、看板に書かれた伝説を要約した。この月十蒔里は、いたずらする狐たちが里に現れないよう、狐に術をかけた。神社も立てて、人間の里と狐の山を隔てた。その境界線で、狐がギリギリ人間に接触できる場所、それが『狐の呼坂』――。
「さて、そろそろ戻るか」
晴樹が看板に背を向ける。石段の方へと歩いていく彼に、明奈ちゃんもついていく。晴樹は参道を戻りつつ、声だけ投げかけてきた。
「帰りも競争するか。下りは負けないぜ」
「俺だって負けない」
ヨウが勝負に乗っかって、ふたりの背中を追いかける。そのヨウの後ろ姿を見て、私は凍りついた。ふわふわと、茶色い尻尾が揺れている。
「ヨウ! それしまって!」
多分、いっぱい走って疲れたせいだ。化けの術が解けかかって、尻尾が飛び出してしまっている。ヨウはびっくり顔でこちらを振り向いて、自分の尻尾に気づいて慌ててひと振りした。見えていた茶色い尻尾がふわっと消える。
晴樹と明奈ちゃんが、石段の手前でこちらを向いた。
「どうしたー?」
「なにかあったの?」
「なんでもない」
ヨウはそう返事をしてから、私に目配せしてはにかんだ。
帰り道の石段は、傾いた夕陽で柔らかなオレンジ色に染まっていた。競争のつもりだったが、私は走るのをやめた。もう少しゆっくり、この景色を見ていたい。先に下りていく晴樹と明奈ちゃんの後ろ姿を見送ると、ヨウも、途中で止まって私を振り向いた。
「走んないのか? 負けるぞ」
「いいの、さっきいちばんだったから」
私が競争をやめたと知ると、晴樹と張り合っていたはずのヨウも、ゆっくりと石段を歩きはじめた。同じテンポで歩きながら、私は彼に問いかける。
「ヨウはどうして、人里に下りてきたの?」
「ん」
「人間の住む里と狐の住む山、境界線を引かれてるんでしょ。ヨウがその境界線を越えてきてるんだからあんまり効力がないのは分かるけど、人に触るといけないのは間違いないんでしょ。だったら、人のいる里にいるのって、危ないじゃない」
赤い空が眩しい。
「それなのに、ヨウはどうしてそうまでして、里に来たのかなー、って」
私が間延びした声で問うと、ヨウは夕陽色に染まった顔で、じろっとこちらを睨んだ。
「どうしてって……『一緒に遊ぼう』って、イチカが言ったんだろ」
「あ!」
そういえば初めてあった日に、言った。
「だから遊びに来てくれたんだ」
「それにイチカ見てたら、あいつのことやたら鮮明に思い出した。なんか、待ってるだけじゃだめだなあって思ったんだよな」
ふう、とため息をつきながら目線を私から空に向けた。
「おユキ、里に出てでも捜さないと、って思った」
ぽつり付け足して、沈みかけの太陽を見つめる。私も同じ方を向いた。眩しくて目を細める。
おユキ。
そういえば、ヨウは私をその人と間違えるほど、必死に彼女を捜しているのだ。
「あのさ、イチカ。俺、狐だけど悪さはしないから、もう少しだけ里にいさせてくれないか」
ヨウがぽつりと言う。
「もうすぐ、おユキに会える気がするんだ」
夕日を浴びた髪がきらきらと透き通って見える。鳶色のような緑色のような瞳も、光を宿して煌めいている。
「何百年も捜してるんだ。そのおユキに、今なら会えそうな気がするんだよ。そういう理由がなきゃ、俺だって里なんかに下りてこない」
そんな昔の人、とっくに亡くなっているのに、捜してどうするんだろう。よく分からないけれど、ヨウにはヨウなりの理由があって、わざわざ人里にまでやってきたのだ。
「なんかよく分からないけど……私は、ヨウが悪さするなんて、初めから思ってないよ」
そう返すと、ヨウはちらっとだけこちらに目をやって、へへ、と笑った。
目の前の夕陽が眩しくて目を瞑る。瞼の裏に真っ赤な世界が広がって見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます