最悪の幕開け

 緑色の木々の中を、お父さんの赤い車がぼこぼこ揺れながら走る。じわじわとうるさい蝉の声が、私をいらつかせた。

「一夏、もうすぐ着くからな」

 助手席に座る私に、お父さんが声だけ向けた。私の機嫌が悪いとき、気遣い屋のお父さんは無理矢理明るい声を出す。シートの背もたれにぐったり背中を預けると、ポニーテールの根元が後頭部に当たって痛い。

 後部座席には一ヶ月分の荷物。ぼこぼこの山道で車が揺れる度にはねて、時々崩れそうになる。

 私、葛葉一夏は今、おばあちゃんの住む山あいの集落に向かっている。小学校最後の夏休みを、こんな山の中で過ごすことになったのだ。

 こうなったのも、猫みたいに自由人なお母さんの気まぐれのせいだ。それは夏休みが始まる一週間前のことだった。


 *


「今年の夏休みは、おばあちゃんちで過ごそうか」

 お母さんは、おばあちゃんからの電話を切って早々私にそう切り出した。

「おばあちゃん、腰の具合が悪いみたいでね。部屋の片付けとか農作業が大変なんだって」

「えー、私も行くの?」

 正直、行きたくない。夏休みは友達と遊びたい。億劫丸出しな返事をした私に、お母さんはあっさりと言った。

「じゃなくて、一夏だけで行くの」

「へ!? なんで?」

 私はお母さんの言葉に耳を疑った。お母さんは変わらず、淡々と答える。

「だって、お母さんもお父さんもお仕事だもの。一ヶ月、目一杯いられるのは一夏だけよ」

 お母さんには全く悪びれる様子はない。突然告げられた私はたまったものではない。

「そんな急に、しかも夏休み全部、おばあちゃんちで過ごすの!?」

「ちょうどいいじゃない。自由研究のテーマ、郷土伝説でしょ? おばあちゃんの住むところは、妖怪伝説があるらしいわよ」

 それだって、先生が候補に出したテーマから適当に選んだものだ。そんなことのために夏休みを棒に振れるわけがない。

「小学校最後の夏休みなのに。なんで勝手に決めちゃうの?」

 私が怒るのも全く気にせず、お母さんは高らかに笑った。

「小学校の友達なんてそのまま中学校に同じメンバーで持ち上がるんだからいいでしょ」

 たしかに地元の市立の学校に上がる友達ばかりだけれど。でも、よく覚えてないおばあちゃんの家で夏休みが全部終わっちゃうなんて、あんまりだ。


 *


「まあそんなにいじけるな。おばあちゃん、一夏が遊びに来るの楽しみにしてるぞ」

 車を運転しながらお父さんが言った。そのおばあちゃんというのも、私の憂鬱の原因だった。

 おばあちゃんとはもう何年も会っていないけれど、親戚を通して噂は聞いている。

 彼女は妖怪だの幽霊だのを大真面目に信じている変人なのだ。好きなだけなら勝手だが、火の玉を捕まえに行くと言って出かけたり、儀式だと言って部屋の四隅に生魚を並べたりと数々の奇怪な行動を起こすため、親戚一同から変わり者と見られている。

 お母さんが、私の説得に自由研究のテーマを引き出してきたのもそのためだ。おばあちゃんなら、妖怪伝説なんかを語り出したら止まらないほど詳しい。

 そんな変人のところに、小学生の娘をひとりで置き去りにするなんて。

 ため息をつきながら、車窓の外の緑すぎる光景を見つめる。億劫だ。家を出たのはお昼だったのに、木々の隙間から見た太陽はかなり西に傾いていた。まだ着かない。

 ふと、道すがらに出てきた汚い看板が目に入った。

「つき……?」

「ああ、月十蒔里な」

 ツキトジサトとは、私がこれから過ごす、おばあちゃんの住む集落の名前だ。私は「ようこそ月十蒔里へ」と書かれた朽ちかけの看板を忌々しげに睨みつけてやった。

 月十蒔里にはコンビニがない。ゲームセンターもない。学校は分校。都会というほどでもないけれど、それなりに市街地で育った私には想像のできない世界だ。

「そんなとこで一ヶ月も過ごすのかあ」

 弱気に呟くと、お父さんに宥められた。

「いい経験になるんじゃないか? こんな大自然の中で過ごせることなんてそうそうないぞ」

 そのときだ。ガコンと不吉な音と共に車が傾いて、窓に顔を打ちつけた。

「ひゃっ」

 後部座席の荷物がシートの下に落ちた音がした。

「お父さん、今のなに?」

「タイヤが溝に落ちたみたいだ」

 お父さんがエンジンを切って外に出た。私は車内からその声を聞く。

「まずいな。業者を呼ばないと」

「こんな山奥まで来てもらうのに、どのくらいかかるの?」

 問うと、お父さんはちらと車についた時計を見た。

「日が暮れるかもしれないな」

 お父さんは携帯を取り出して業者に電話しはじめた。こんなに山の中だけど、圏外じゃなかったんだなあ、などとぼうっと考えながら、私はその横顔を見ていた。

 お父さんは業者との電話を終えて、ふうとひと息つく。が、直後にかかってきた電話に慌ただしく応答していた。

「あっ、そうだっけ? ……分かった」

 電話を切ったお父さんは、哀れなものでも見るような目で私を振り向いた。

「ごめんな一夏。徒歩で先におばあちゃんの家に行っててくれないか。歩きで十分もかからないから」

「なんで? 車が直ってからじゃだめ?」

「今、おばあちゃんから電話があって。月十蒔里のしきたりで、里の外の人が一泊以上滞在する場合、夕方までに人里に入らないと不幸が取り憑くんだと」

「なにそれ、そんな迷信のために?」

 驚きのあまり、素っ頓狂な声が出た。お父さんは申し訳なさそうに続けた。

「車を戻してると夕方になっちゃうからな。いっそのこと歩いた方が早く着く。荷物は後で車で届ける。とりあえず一夏は日が暮れる前におばあちゃんと合流してくれ」

 納得はしていないが、お父さんの言うとおりにするしかなかった。わざわざ電話をかけてくるくらいだ、おばあちゃんはそういったしきたりを大事にしているのだろう。ここでしきたりを無視して、一ヶ月間気まずくなるのは困る。

「分かったよ。あーあ、ついてないなあ」

 車を降りて、割れたアスファルトに足をつける。

「じゃあ、荷物お願いね」

 私は身ひとつで歩き出した。お父さんがなにか思い出したように、あっと声を出す。

「一夏、この先に分かれ道があるけど……」

 なにか言っていたようだったけれど、もう私の耳には届いていなかった。

 数分歩いたところで突如現れた分かれ道にぶち当たった。あまり聞いていなかったが、そういえばお父さんが分かれ道がなんとかって言っていた。

 木々の塊を挟んで右は、少し道が開けていて明るいが、左は木が鬱蒼としていて暗い。どちらも緩やかに下る坂道だ。

 どちらの道に行けば月十蒔里に出られるのだろう。お父さんに電話で聞こうと、スカートのポケットに手を入れて携帯を探したが、携帯もお父さんに預けた荷物の中に入れてあったのだった。

 しばし悩んで少しの間道を交互に見比べたが、よし、と左に足を向けた。暗い方にしよう。

 間違っていたら元の道を戻ればいいし、暗い方を後回しにしたら時間が経って余計に暗くなってしまう。

 木の茂った暗い道に足を踏み入れる。蝉の声がより一層じわじわと広がって聞こえた。


 *


 何分か歩いたけれど、坂になった道を下れば下るほど森は深まるばかりである。いつの間にか地面にアスファルトが敷かれておらず、落ち葉だらけのどろどろの獣道になっていた。湿った葉っぱで足が滑りそうになる。こちらはハズレだった。これ以上は、進んでも無駄なようだ。

 戻ろうとくるりと踵を返すと、進んできた道もだいぶ暗い。それに、一本道ではなくて道が複数に分かれている。

「あれ、どこから来たんだっけ……」

 日も落ちて空は茜色だった。この上道に迷うなんて、全くついていない。

 仕方なく、当てずっぽうで元の道を戻ろうとしたときだった。ずるっと、足が葉っぱで滑る。

「ひゃあ!」

 体がぐらついて、私は木々の植わった斜面に滑り落ちてしまった。

「いったた……」

 湿った葉っぱの上に転んだせいで、手足も服も泥だらけになった。手のひらを擦っただけで怪我はないのが救いだ。けれど人の歩ける道まで斜面が急で、ちょっとのぼりにくい。

 そこへ、頭上から人の声が降ってきた。

「あんた、そんなとこでなにしてんだ?」

 見上げると、私と同じくらいの歳頃の少年がしゃがんで私を見下ろしていた。

 黒いパーカーにグレーのハーフパンツ。夕日のせいか、茶色っぽく光って見える髪。この辺りの子だろうか。

「落っこちた? だっせえ」

 少年がからかうように笑った。

「うん、のぼれなくなっちゃった。ちょっと手を貸してもらってもいい?」

 少年に向かって手を伸ばすと、彼は嫌そうに首をすくめた。

「はあ? やだよ」

 少年は眉を顰めて、立ち上がってそのままどこかへ去ってしまった。

「ええっ、そんな! 待って!」

 少年の後ろ姿に向かって叫んだが、彼は振り返らなかった。折角助かったと思ったのに、見てられてしまった。このままでは、どんどん日が暮れて暗くなってしまう。

 私は崖に背を向けてしゃがみこんで、遠くの空を見上げた。木々の隙間から、赤い空に薄い雲が貼りついているが見えている。どうしよう。

 小さくため息をついた、そのときだった。

「はい」

 突然の声に、私はぱちぱちとまばたきした。顔のすぐ横まで木の棒を差し出されている。

 見ると、先程の少年がこちらに差し伸べてくれているではないか。

「掴まれよ」

 どうやら見捨てられていなかったようだ。ほっとして、一気に肩の力が抜けた。

「来てくれたんだ、ありがとう」

 少年に間抜けな笑顔を向けて木の棒を握ると、少年は棒ごと私を引っ張りあげてくれた。

「ありがと、助かった!」

 這い上がって膝の泥を払っていると、引っ張りあげてくれた少年が目を丸くしていた。

「あんた……おユキか?」

「へ?」

 私はきょとんと少年の顔を見た。

 不思議な色の瞳だ。一見茶色いが、近くで見ると緑がかっている。彼はその目を、大きく見開いた。

「おユキだろ!? 俺、ずっと捜して……!」

 少年が口を半開きにしてカタカタと肩を震わせた。どうやら、人違いをしているようだ。

「ご、ごめん。私は一夏。おユキさんじゃないの」

「……イチカ?」

 少年が目を細めて私の顔をまじまじと覗き込んだ。それからぱっと離れて、残念そうに眉間に皺を寄せた。

「なんだ。よく見たら全然似てなかった」

 少年は木の棒をぽいっと捨てた。

「おユキはこんなに間抜けヅラじゃないし、子供でもなかった」

「ごめんね、捜してた人じゃなくて」

 悪気はなさそうなのだが、ちょっと口が悪い。彼は手についた泥を払った。

「こんなとこにいるなんて、あんた里の人じゃないだろ」

「うん。隣の県から来たの」

「ふうん」

 少年が泥を落とした手をパーカーのポケットに突っ込む。

「まあいいや。俺はヨウ」

「ヨウ。ヨウくんっていうのね」

「ヨウでいいよ」

 少年、ヨウが粗雑な口調で言う。私は彼の名前を、もう一度繰り返した。

「じゃあヨウ。助けてくれたついでに、私を里まで連れて行ってくれない? 道に迷っちゃったの」

「図々しいな、あんた」

 ヨウは口を尖らせつつも、ふいっとヨウが体の向きを変えた。

「行くぞ」

「ありがとう!」

 私はヨウにくっついて歩き出した。

 向きを変えたヨウの足が裸足だったことに気がついたのは、そのときだった。靴下を履いてないくらいならともかく、完全に裸足だ。左の足首に白い布を巻いているが、靴は履いていない。

 いくら暑いからって、外だし、こんな山道で裸足。不思議な子だ。

 歩いてきた暗い道を戻る。

 ヨウの足首に巻いてある白い布が地面に引きずられている。あれは手ぬぐいかな。

「歩き慣れてるね。その……靴履いてないのに、痛くない?」

 裸足である理由を聞こうとしたが、ヨウは私の言いたいことには気づかずに、スタスタと歩いていく。

「痛くない。この辺は山ばっかだからな。嫌でも歩き慣れる」

「この道、暗いね。時間的にも、どんどん暗くなってく」

 こうして話していると、不安が消えてくる。

「私ね、ひとりで暗い道に入っちゃって、しかも道に迷って、怖かったの。でもたまたまヨウが来てくれたから、今は暗くても怖くないよ」

 もとからおばあちゃんの家で夏休みが消えてしまうのがすごく嫌だったし、お父さんの車は動かなくなるしで、そこへきて迷子だった。ヨウが来てくれなかったら、どうなっていたことか。

「……そう」

 ヨウは振り向きもせず、ぶっきらぼうに言った。私はふと、ヨウの横顔を見た。

「ところでヨウは、どうしてあんな暗いところにいたの?」

 ヨウはやはり、こちらを振り向かなかった。

「別に、なんだっていいだろ」

 ヨウについて歩くうちに、分かれ道まで戻ってきた。

「こっからは明るいから大丈夫だよな。その道を真っ直ぐだから、迷わないだろ」

「よかった! ここまでありがとう」

 私は村へ続く道へ足を踏み入れて、それからヨウを振り返った。

「ねえヨウ。この辺に住んでるんだよね」

 ヨウはポケットに手を突っ込んで私を見つめていた。

「まあな」

「私、夏休みの間だけここで暮らすんだ。今度、一緒に遊ぼうよ」

 笑いかけると、ヨウもニッと笑った。

「おう」

 じゃあね、とヨウに手を振ると、ヨウはまた暗い方の道へと消えていった。里に帰らないのかな。あちらの暗い坂道になんの用事があるのか分からないし、変わった奴だったけど、友達ができた。

 そして、見上げた夕空がうっすらと星を浮かべはじめていることに気づく。

 しまった、明るいうちに人里に入らないと不幸になるのだった。というより、その迷信を信じてるおばあちゃんと仲良くやっていくためにも、早く行かなくてはならない。

 私はアスファルトで舗装された坂を、全速力で走って下った。

 お父さんの言っていたとおり、正しい道を行けば人里の入口まで十分とかからなかった。緩やかな坂道を下っていくと、木々が開けて明るくなってきた。

 坂を下りてすぐ右に大きな鳥居がある。山の木々に埋め込まれるように建っていて、敷地は木のせいで薄暗い。なんだか不気味だ。

 視線を正面に移すと、干上がりかけている細い川とそれに架かった橋、その向こうに見渡す限りの広大な畑や田んぼが広がっている。その隙間を縫うようにポツンポツンと民家が建っているのが見えた。

 おばあちゃんの家がどこにあるのか分からなくて、しばし頭を悩ませたが、見通しのいい道路のお陰でお父さんの赤い車が停まっている家を発見した。大きな木造住宅だ。あれがおばあちゃんの家だろう。

 畑の間の細い道を走ってその家に向かった。私より先に着いてしまっていたお父さんが、荷物を降ろしている。駆け寄るとお父さんが目を丸くした。

「おお、一夏。どこ行ってたんだよ。荷物降ろしてもまだ来なかったら、捜しにいくところだったんだぞ」

「道に迷っちゃった」

 そんなやりとりに割り込むように、おばあちゃんが飛び込んできた。

「一夏! 遅かったねえ。心配したよ」

 いきなり抱きしめられて戸惑った。

「わ! おばあちゃん。今日からよろしくね」

「よろしくね。一夏が来るの楽しみにしてたのよ。お夕飯できてるから、ほら上がって」

 こんなに歓迎してもらえるなんて、びっくりした。でも、久しぶりに会ったのだ。なんだか私も嬉しくなってくる。

 そんな私たちの様子を見て、お父さんはほっとした顔で車の運転席のドアを開けた。

「じゃ、母さん、一夏を頼みます」

 車に乗り込んで、私とおばあちゃんに手を振る。私とおばあちゃんが手を振り返すと、お父さんはエンジンをかけた。

 車が小さくなっていく。いよいよ私とおばあちゃんはふたりきりになった。

 おばあちゃんに、連れられて玄関に入る。

「お邪魔します」

 おずおずと辺りを見回しながら言う。おばあちゃんは優しく微笑んだ。

「ふふ、今日からしばらくは一夏の家なんだから、これからは『ただいま』にしましょうね」

 家の中はおばあちゃんの匂いと焼きたてのハンバーグの匂いがした。

 おばあちゃんの家は、おばあちゃんがひとりで住むには広すぎるくらいの大きな家だ。昔はおじいちゃんが一緒に住んでいたそうだが、私が四歳のときに亡くなってしまった。そのおじいちゃんのお葬式以来、おばあちゃんに会っていなかったので、もう七年ぶりになる。

 おばあちゃんのあとについていくと、ちゃぶ台のある部屋に案内された。畳の上には使い古された座布団と、真新しい座布団がひとつずつ敷かれている。

「一夏はこっちね。手を洗ったら、そこに座って待っていて」

 おばあちゃんが新しい方の座布団を指さした。淡いピンクの花柄の座布団である。どうも私のためにわざわざ買ってくれたようだ。

 洗面所で手を洗うと、先程転んで擦りむいた傷がぴりぴりした。手のひらの小さな傷を見ると、頭の端にヨウのことが蘇る。あの子はあのあと、どこへ言ったのだろう。

 それから元の部屋に戻り、おばあちゃんに言われたとおり座布団に座った。おばあちゃんは台所にいるみたいで、食器の音がする。

 そわそわと部屋の中を見渡す。畳の敷かれた部屋には、真ん中にちゃぶ台、隅にテレビ。壁に沿うように家具が置かれている。

「お待たせ」

 おばあちゃんがハンバーグを載せたお皿を持って現れた。そういえば、お腹が空いた。

「いただきます!」

「はーい。たくさん食べてね」

 おばあちゃんの優しい顔を見たら、胸の奥がほっとした。

 親戚に変人扱いされているおばあちゃんを、私は会う前から煙たがっていた。でもこの人はこんなに温かで、優しい人だ。不安がったり警戒したり、失礼なことをしてしまった。ハンバーグを食べながら、内心反省する。

 大事な夏休みが田舎で消えると知ったときはすごくショックだったが、案外、お父さんの言うとおりいい経験になるかもしれない。

 そんなことを考えていると、おばあちゃんが自分の分のハンバーグにお箸を入れつつ、話しかけてきた。

「それにしても一夏。随分遅かったけど、どうしたの?」

「うん、山で道に迷っちゃったんだ。心配させてごめんね」

 私がハンバーグを飲み込みながら言うと、おばあちゃんは心配そうに頬に手を当てた。

「迷ったって……まさか、『狐の呼坂』には行ってないね?」

「きつねの……よびさか?」

 聞き慣れない言葉に、私は箸を止めた。おばあちゃんが頷く。

「この月十蒔里に伝わる伝説でね。ここに来るまでの途中に、分かれ道があったでしょう?」

 あの、私が間違えたところだろうか。

「あの分かれ道の、左側の坂道が『狐の呼坂』。薄暗くて不気味な坂道が見えたでしょ」

 おばあちゃんの言葉に頷いた。間違えてそちらの道に入ったことを話そうとしたが、おばあちゃんが先に言葉を続けた。

「あそこには、人間を化かす狐のあやかしが出るのよ」

 なにを大真面目に言っているんだ、この人は。

 私は眉を顰めかけて、そういえばオカルトオババだったことを思い出した。

「へえ、化け狐かあ」

 そうだった、親戚一同が彼女を変わり者扱いするのは、こういうところがあるからだった。おばあちゃんは、なお神妙な面持ちで話した。

「あそこに棲む化け狐は、人間に深い怨みを持ってるの」

 その道を歩いてしまったことは、言わない方がよさそうだ。おばあちゃんは満足そうににこりと笑った。

「でも大丈夫。江戸時代に神社ができて、狐は人里には降りてこられなくなったのよ」

 坂の手前にあった鳥居を思い出した。あの神社がそうなのだろうか。おばあちゃんが続ける。

「それに狐には、強力な呪いがかかっているの。化け狐は、人間に触ると消えてしまうのよ」

 私はハンバーグを口に運んだ。

「じゃあ、もし狐に会っちゃっても襲ってこないよね!」

「そうね、でも人間の体に直接触らない方法で、なにかしらのいたずらはしてくるかもしれない」

 おばあちゃんは楽しそうに話した。

 おばあちゃんの話だと、私が間違えて入っていったあの薄暗い坂道が、狐の呼坂だったことになる。だが化け狐なんかいなかった。むしろ、あそこにはヨウがいた。普通に人が出入りしていたのだ。

「そうそう。今年の自由研究のテーマ、郷土伝説にしたんだ。私、狐の呼坂のこと書こうかな」

「いいわね! おばあちゃんも協力するわ」

 おばあちゃんが嬉しそうに微笑んだ。

 それからおばあちゃんは、思い出したように言った。

「そうだわ一夏。ごはんのあと、お祓いするからよろしくね」

「お、お祓い?」

 思わず繰り返すと、おばあちゃんは大きく頷いた。

「一夏は夕方に来たからね。一泊以上いるときは、明るいうちに来ないと不幸が一緒に来ちゃうから、お祓いをするのよ」

 ああ、そんなしきたりがあるのだった。忘れていた。

 夕方以降に来たことを怒られはしなかったけれど、なかったことにはなっていない。やはり、おばあちゃんは変わっている。優しい人だけれど、変わっているのも事実だ。

 これから始まる夏を思って、私は苦笑いした。

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