妍姿艶質な広澄さん

第32話

 私は今、広澄さんと温泉旅行に来ている。


 ペア強化月間で優勝したそのご褒美だ。まさか、広澄さんからふたりで行かないかと誘われるとは思っていなかった。あれから二ヶ月が経過している。


 私たちの仲は何も変わってない、はずだった。



 だけど……この状況はなんだ。

 目の前には広澄さんの顔。お酒を飲み、目をとろんとさせた広澄さんが少しずつ近づいてくる。私はゆっくり尻もちをつきながら後退する。


「ちょ…っと、広澄さん。どうしたんですか」


 目線を少し下にうつすと、緩くなった浴衣の胸元からもう少しで見えそうなぎりぎりのラインで私の理性を煽る肌色が見える。


「私はね、悠ちゃんに怒っているの」





 事の発端は遡ること五時間前。


 温泉の旅館に到着した私たちは、室内着に着替えてゆっくりしていた。いつもと雰囲気の違う広澄さんにどきまぎしながらお茶をそそる。髪も横に流して下ろしているから、いつもより色気が増している気がする。


「久しぶりにこういう旅館もいいわね」


 広澄さんが頬に手を付きながらこちらを見ていた。


「…はい、いいですね」

「ふふっ、なんだか悠ちゃん緊張してる?」


 少し声が小さくなってしまった私のことをからかってくる。それに、二人の時はちゃっかり悠ちゃん呼びになってるし。


「今日は、悠ちゃんのお疲れ様会なんだから。私のことは気にせずゆっくりしてね」

「広澄さんもですよ。ゆっくりしてくださいね。広澄さんのおかげで私は今ここにいるようなものですから」

「またそんなこと言って。悠ちゃんは本当によく頑張っていたと思うの。仕事がよくできるから、私は甘えていたのよ。ごめんなさいね、本当に」


 広澄さんはいつも私のことを庇ってくれる。でも、本当は私が広澄さんのことばかり考えてしまっていて、仕事を疎かにしたことが原因だ。何も広澄さんに悪いことなんてない。謝られると余計に自分の不甲斐なさで虚しくなってしまう。


「この話はもうやめましょう。せっかくの旅行が台無しです」


 へらっと笑って誤魔化した。


「悠ちゃん」


 不意に呼ばれて広澄さんを見る。


「ありがとう」


 なんの感謝か分からなくて、頭の上にハテナを浮かべていると、


「悠ちゃんがペアでよかったと思ってる」


 綺麗な顔の広澄さんがにこっと笑う。曇りひとつない笑顔だった。


 あぁ、この笑顔も部下に向けた笑顔なんだよな…彼女として、だったらどんなに良かったか。


 なんて、また懲りずに欲が顔を出す。しかし、そんな欲は静かに無かったことにする。私はもう心に決めていた。


 …広澄さんとは一定の距離をとろう。


 私に釣り合う相手ではないのだから、大人しく身を引く。これがこの二ヶ月で出した答えだ。好きなのは変わらない。すぐに嫌いになることも出来ない。だから、落ち着くまでは時間が必要だ。


 しかし、だからといって全面的に避ける、とかではない。郷に入れば郷に従えだ。


 相変わらず激しいボディタッチをわざわざ避けることはしない。顔を近づけてくることも、甘い声で囁かれることもあるが、何食わぬ顔で受け止める。それがこれからも広澄さんと仲良くしていく方法だと私は思っている。そして、答えを導いてからというもの、欲が顔を出しても平気になっていた。欲の押し込め方も、表情を変えずにいる方法も、誰にも気持ちをバレないように過ごす方法も身に付けた。心臓だけは誤魔化せないけど。


 美波さんにもこの失恋を伝えると、心配そうにしながらも理解してくれた。本当はこの旅行も断ろうか迷っていたけれど、最後の思い出として行くことにした。広澄さんの熱烈なアプローチに押し負けた、というのもあるが。


「ねえ、もう温泉に行ってみない?」


 広澄さんは艶っぽい笑みで私のことを誘う。


「いいですね、入りましょうか」


 私も負けじとセクシーな微笑みを向けてみる。セクシーになっているのか不明だが、広澄さんは何ともなさそうな顔で準備を始めているから、きっと効果なしだ。


 私も下着類の準備をし始める。静かな部屋の中に、がさごそと音が目立って耳に届く。


 これって、一緒に入りに行くってことだよね…


 冷静に考えてみるけど、やっぱり何度考えても一緒に入ることになりそうだ。…それは良くないと思う。今の私が広澄さんと一緒に温泉はまずい。非常にまずい。完全に吹っ切れているわけでもない。それなら、絶対に入るタイミングをずらすべきだろう。


「広澄さん、私少し時間がかかりそうなので先に入っててください。すぐ行きますから」


 そう言って素直に話を聞いてくれる人ではなかったことにあとになって気付く。


「すぐなんでしょう?それなら待っているわ」

「いえいえ、ほんと大丈夫なので、先に行っててくだい」

「なに、私と一緒に行くの恥ずかしいの?」


 図星をつかれても、私は冷静に答える。


「そりゃ恥ずかしいですよ。でも…すぐ行きますから、すみません」


 すると、広澄さんがゆっくりこちらに向かってくる。何をしようとするつもりなのか。彼女の行動はいつも突拍子もないから困る。


 グッと彼女の顔が寄ってくる。私は身動き取れずに彼女の行動をじっと見る。彼女の唇は私の耳元に近づいてきた。そして囁く。


「ねえ、私と入ってくれないの?」


 でた。広澄さんの悪いところだ。甘ったるい声で誘惑される。心臓も待ってましたと言わんばかりにドクンと跳ねる。全身から心音が漏れてしまいそうなほど忙しなく収縮し始めた。ゴクリと唾を飲み込んで、私は広澄さんを見た。


「広澄さん、えっちですね」

「そう?いつも通りよ」


 魅惑的な笑みで私のことを翻弄する。頭も優しい慣れた手つきで撫でてくる。


 そう、この人はそういう人。間違いなくいつも通りだ。私は撫でている広澄さんの手をゆっくりと掴んで私から離す。


「すぐに触るくせ、どうにかしてくださいよ」


 広澄さんは目をぱしぱしさせたあと、悠ちゃんには全く効果ないのね、なんて呟いてる。全く、この人はこの国の全員を虜にでもするつもりだろうか。


「先に行っててください、広澄さん」


 そう言って彼女を立たせて先に行くように促す。しかし、私は広澄さんの浴衣の裾を踏んでしまっていたみたいで、立ち上がった時に引っ張られて広澄さんはよろめいてしまった。


「きゃっ」


 そして、ぼすんっと見事に私の腕の中に飛び込んできた。私もその勢いで後ろに押し倒される。


 甘いフローラルの香りが鼻をかすめる。広澄さんの髪の毛、良い匂い。肌もすべすべで触れ合う太腿が敏感に彼女のことを教えてくれる。華奢な身体なのに、必要な所にはしっかり実っているみたい。柔らかいものが私の身体に押し付けられた形になる。


 こんなに近距離になったことがないし、彼女を全身で感じることなんて無かったから、脳がびりびりして頭が上手く働かない。


 動けずにいると、広澄さんの方から離れてくれた。と思っていたけど違ったみたいだ。


「ここ、すごくはやいわね」


 そう言った指先が示しているのは、心臓だった。密着した身体から広澄さんにバレてしまったのだ。それにしても、この状況は広澄さんが好みそうなシチュエーションなわけで。一刻も早く彼女から離れないと危ない、そんな風に考えた時にはもう遅かった。


 私好みの綺麗な顔はどんどん私に近づいていて、もうすぐそこに彼女の目、鼻、唇がある。私とどうこうなりたいと思っている訳じゃないのに、すぐにこうやって私を弄ぶ。いつものことだ。


「あの…近いですよ」


あまりにも近すぎて、突然の事で、力ない言葉が出た。


「近くしてるの。ここもどんどんはやくなってる」


 自覚ありの小悪魔だ。


 私の心臓を覆う彼女の手のひら。私は冷静に冷静に言葉を紡ごうとするけれど、やっぱり心臓だけは素直に反応してしまう。広澄さんに触れられている部分だけが燃えるように熱い。


「離れてください…」


 彼女の目を見て言う。パッチリとした澄んだ瞳に私が写っているのが見える。それほどに近い距離。私が動けばキスも出来てしまう。けれど、この状況は一度体験しているから分かる。キスをしようとすれば彼女は離れるだろう。でもそんな傷つくことは私も避けたい。


 私はただ動かずに彼女のことを見る。誰ともキスするつもりもないのに、相手の反応を見てただ楽しむ。もう分かっているから。


「悠ちゃんと仲良くなりたいのよ」


 仲良くなる方法、絶対に間違っている。私は痺れを切らして彼女の肩を押し返す。


「温泉、行きますよ」


 そういうと、広澄さんは唇を尖らせて拗ねていたけど、なんとか起き上がらせて私から離す。その後も彼女は何回も仕掛けてきたけれど、サラッと流してとりあえず広澄さんに温泉に行ってもらうことに成功した。



 部屋にぽつんと一人。嵐が過ぎ去ったようだ。


 …まだ心臓が落ち着かない。あんなこと、本当に他の人にもしているんだろうか。


 私は何もしなかったけど、あの誘惑に耐えられる人がいるとは思えない。でも、きっと彼女のことだから誰にでも出来てしまうんだろうな。


 ふっ、と力のない笑みがこぼれる。彼女が部屋を出ていってから数分間、私は先程の出来事を思い出し、放心状態になっていた。

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