第30話

 目の前には、念願の白瀬さん。


 だけど、思うように言葉が出ない。



 お昼時になり、席を立った白瀬さんを急いで追いかけてきた。ようやく見つけた彼女は既に席に座っていて、彼女の前にはAランチがあった。彼女の手にはお箸があって、迷うことなくポークソテーを口に運んでいる。私はそれを見つけた瞬間に駆け足でAランチの列に並ぶ。何人かに声をかけられたけれど、さらりとかわす。私は早く彼女の元に行きたいのだ。


 ご飯の量は、と食堂のおばさんに尋ねられたけれど、私はそんな声に意識を向ける余裕は無かった。急いでいる私を見て察したおばさんは少しだけ少なめにしてご飯をついでくれた。


 お盆をひっくり返さないようにしながら、早足で目的地に向かう。高鳴る心臓を深呼吸で抑えようとするけど、近づいてくる後ろ姿に心が反応して、上手く制御できない。


 気がつけばすぐ目の前に白瀬さんがいる。


 私はひと呼吸おいて、話しかける勇気をつくる。


 きゅっと唇を結んでから、私は彼女の前にお盆をおろした。いきなり誰かが来て驚いたのか、彼女は咄嗟に私のことを見た。そして、私だと分かってすぐ、整った眉がぴくりと動いたのが見えた。


「ここ、いいかしら?」


 そんな私の問いに彼女は小さく答えた。


「…どうぞ」


 まさか許可がもらえるとは思ってもいなかったから、少しだけ私の声に色がつく。


「ありがとう」


 しかし、私が着席しても、彼女は私のことを見なかった。一度たりとも。


 周りでは、顔も知らない男の人が隣はいいかとひっきりなしに話しかけてくるけれど、私は全て無視をする。無視なんて本当はしたくはないけど、そんなことよりも目の前にいる白瀬さんと話がしたかった。


 話がしたいという衝動でここまで来てしまったけれど、いざ対面するとなるとなんて声をかけたらいいかまるで分からない。


 何を話せばいいんだ。



 私はとりあえずポークソテーに箸を伸ばし、ひとくち目を味わう。彼女のお皿を見ると、ポークソテーはいつの間にか消えていた。ズズーっとお味噌汁を飲んでいるから、今彼女が何を考えているのか、どんな表情をしているのかが見えない。お茶碗の中にもご飯は見えなかったから、白瀬さんは終わりかけなのだと悟る。それならば、早く声をかけないと。


「あ、あの…白瀬さん」


 彼女がお味噌汁をすすり終わったと同時に言葉を紡ぐ。


 お椀がおりて、彼女の顔が見えた。

 彼女は真っ直ぐに私を見ていた。ただ目が合っただけなのに、どくんと心臓が音を立てる。


 あれ、何を話そうとしていたんだっけ。

 緊張からなのか、彼女を前にしてしまったからか、一気に頭の中が吹き飛んだ。


 何も言わない私に痺れを切らしたのか、彼女は静かに言った。


「なんでしょうか」


 淡々と発されたその言葉がやけに冷たく思えた。なんの感情も込められていないようで、きゅっと胸が痛む。


「…その、」


 そうだ、謝ろう。昨日のこと、いくら何でも口が悪かったと思う。だからそのことについて謝ろう。そう腹を括って彼女を見る。


 しかし、タイミングの悪いことに、空気の読めない男が乱入してきてしまった。


「隣、失礼しますね」


 こんな時に誰だ、と顔を向けると奴はにっこりとこちらを見ていた。どうしてこいつの名前を覚えているのか、と私自身にも呆れてしまうけれど、今更忘れるなんて出来ないほどに強烈な男である。そう、藤木だ。

 またこいつか、と心底呆れそうになった。彼女を見ると、彼女もまた藤木を見ていた。その視線には私と同じように呆れ返っている感情が読み取れた。


「あ、広澄さんはお肉派なんですね。俺は今日は魚にしましたよ」


 なんて、無邪気にも笑いながら魚を食べている姿が憎たらしかった。


 ガラガラっと椅子を動かす音が聞こえて、顔を前に戻すと、白瀬さんが立ち上がった所だった。


「え、もう行くの?」


「ええ…食べ終わりましたし」


 少し前ならば、彼女は待っていてくれたのに。私が仕事のやり取りを食前にしていて、食べるのが遅くなった時も、いつだって彼女は微笑みながら見守っていてくれた。それが、過去になってしまったんだと痛感する。


「もうすこ…」


「おふたりでごゆっくりどうぞ」


 私の言葉を遮るようにして、彼女はスタスタと背を向けて行ってしまった。


「白瀬さん、食べるの早いですね。それに、先輩のこと待たないなんて。ま、俺には好都合ですけど」


 ぶつぶつと独り言のような言葉が隣から聞こえてくる。その内容も気分のいいものでは無い。誰のせいでこうなっているんだ。


 深くため息をついてから、私は急いでご飯をかけこむ。白瀬さんを追うつもりは無いけれど、藤木とやらと一緒にご飯を食べたくはない。


 すぐに食べ終わってしまった私は、軽く声をかけて席を立った。そのはやさに驚いているのか、後ろの方で藤木が「ちょっ、ちょっ。はやっ」と慌てている声が聞こえた。それに耳を傾けることなく、私は部署に戻ろうとエレベーター乗り場に向かう。


 ほどなくして扉が開き、私はそこに乗り込んだ。お昼どきだからか、私と同じ方向に乗る人は居なかった。


 静まり返ったエレベーター内で彼女のことを思い出す。かなり怒っていたわよね、あれは。


 先程のことを頭の中で再生してはため息が止まらない。どうすれば、彼女と話ができるのか、それを考えあぐねていると、いつの間にかエレベーターが止まっていた。


 戻っても彼女は席にいないだろうな、なんて考えながらエレベーターから降りると、乗り場の端で外を見ながらぼんやりとしている白瀬さんを見つけてしまった。


 こんな所でなにをしているんだろうか。


 私は思わず声をかけていた。


「白瀬さん…?何してるの?」


 その声に反応した白瀬さんと目が合う。


「あ、広澄さん」


 私の名前を呼んだあと、シャキッと背筋を伸ばしてから、彼女は言った。


「さっき、何か言いかけてたじゃないですか」


「え、」


 食堂での話だろう。まさか、そんなことで私を待っていてくれたのだろうか。突然のことでびっくりしたが、それよりも嬉しいという気持ちが勝った。


「まさか、待っていてくれたの?」


 待っていた、と言って欲しいと言わんばかりにすかさず尋ねてしまった。それに、彼女はしっかりと答える。


「…はい。隣に人がいたので、あそこでは話しにくいかなって。あ、あと…私も言わなきゃいけないことがありますし」


 藤木のことを気にしていたらしい。確かに、あの人がいる前で話をするのはなんだかやりにくい。


「言わなきゃいけないこと?」


 何を言い出すのか想像がつかなくて、悪いことだったらどうしようと、内心ドキドキが止まらない。


「あの…昨日は本当に申し訳ありませんでした。生意気な口をきいてしまいましたし、私のために言ってくださったのを無下にするようなことを言って、、後悔しています。ごめんなさい…」


 昨日の謝罪だった。私が言おうとしていたのに、彼女に先を越されてしまった。


「白瀬さん、私こそ謝ろうと思っていたの。昨日は私も言いすぎたわ。本当にごめんなさい」


「いえ、っ、本当に私が至らないばかりに…すみませんでした」


 ただひたすら頭を下げて私に謝ってくれた。そんなに謝らなくてもいいのに、と思ってしまうほどだった。


「さっきの食堂でも、感じ悪かったですよね…なんか、どう話したらいいかわからなくなってしまって」


 淡々と話していたのは、こういう理由だったらしい。それが聞けただけでも、嫌われていないのだと分かって満足だった。


「私の方こそ、もっと余裕を持つべきだったわ。もう顔を上げて?」


 深くお辞儀をしている彼女の頭に手を乗せて、ゆっくりと撫でた。


 それを合図に彼女は恐る恐る顔を上げた。その顔には今までとは比にならないくらいに、感情が表れていて、彼女の反省の思いがひしひしと伝わってきた。

 今回は白瀬さんが悪いわけじゃない。色々なことが重なっていたのだと思う。私も悪かった部分はあるわけだし。

 しかし、今回の一件を全て自分のせいだと思い込んでいるのか、彼女の表情は暗いままだ。シュンとしおらしくなっている姿が余計に母性本能くすぐられてしまう。


 眉を垂らして下を向いている彼女が、こんな時にでも愛らしく思えてしまって、私は心のままに、身体を動かしていた。


「えっ」


 白瀬さんの口からこぼれ出た呟きは私の胸の中に消えていった。白いシャツを通して、彼女の体温と鼓動を感じる。私は思わず白瀬さんを抱きしめていたのだ。


「もう、気にしないでいいのよ。だから、もうそんな顔しないで」


 切にそう願いながら、ぎゅっと腕の力を強める。私の背中には何も感じない。彼女が腕の行き場を無くしているのを想像できた。

まだ、彼女は私に寄りかかってはくれないみたいだ。だけど、前みたいにはいかないけれど、少しずつ元に戻っているよね。そう言い聞かせる。


 少ししてからトントン、と白瀬さんに背中を叩かれる。それを機に私は意識を現実に戻す。ざわざわっと周りが騒がしくなっている、とようやく気がついた。


 周りを見ると、かなりの人だかりができていたみたいだ。


 今の状況を振り返ると、エレベーターの乗り場の横で女性社員が熱い抱擁をかわしている、と言ったところだろうか。


 …まずい。皆に見られた。


 野次馬のように見に来ていた人々の口元は全員揃って緩みきっていた。


「ひゅーひゅー昼間からお熱いねえ」


 そう声を出したのは、同じ部署のおじさま。


「でも良かったですね、おふたりが仲直り出来たみたいで」


 そう言ったのは、庄司くんだ。同じ部署の方々には心配をかけていたと思うから、この現場を見せることが出来て良かったのかもしれない。……いや、本当に良かったのか?


「仲直りのハグにしては、かなり密着してましたけどね。ね、沖田さん?」


「本当にね、ここは会社なのかって少し疑っちゃいましたよ」


 なんて冗談が飛ばされる。


「それにしてもおふたりはやっぱりお似合いだな」


 なんて口々でからかわれながら、その場は解散されたのだった。


「名コンビって感じ?」


「名カップルでは?」


「いや、名夫婦とかでも…」


「庄司くん、美波ちゃん、うるさいわよ」


 その後も私と白瀬さんが仕事の話をしていると、横で野次が飛んできた。白瀬さんは照れて何も言わないし。


 しかし、そんなことよりも、なによりも、白瀬さんの表情が前みたいに柔らかくなっていたのが、嬉しかった。


 ペア強化月間はあと一週間しかないけれど、白瀬さんとなら乗り越えていけるかな、と思わせてくれるきっかけの一日になった。

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