進退両難な白瀬さん
第29話
会議から戻った私は、大久保さんから呼び出されていた。
「白瀬と上手くいっていないのか?」
紙コップに入ったコーヒーを揺らしながら、そんなことを尋ねられる。課長は私にもブラックコーヒーを勧めてくださったけれど、苦くて私は得意じゃない。だからそれは飲めないと断った。
「珍しいじゃないか、君が誰かと衝突するなんて」
私たちは上手くいっていない。
白瀬さんと昼食を食べなくなってしまった頃からだと思う。いや、白瀬さんがミスを起こしたあの時からだろうか。私たちの関係は一気に変わってしまったのだ。
土曜日のお見合いの日以来、母は執拗いくらいにその後の様子を探ろうとしてくる。上手く行きそうか、良い感じなのか、とか
とにかくうるさいのだ。
その影響もあり気分があまり良くない中で、会社では色々な人からランチを誘われる羽目になり、楽しいと言える毎日では無かった。誘われて、私が断らないのが悪いとは思う。しかし、何かに固執しないように生きてきた私には今更それを変えることができないのだ。
気付けばペアである白瀬さんとの会話は必要最低限になり、業務でのやり取りしか記憶に残っていない。最近は特に外部からの仕事が舞い込んでいたり、他の部署で処理しきれなかった難しい手続きの必要な書類の片付けなどに追われて、私自身余裕が無かった。
白瀬さんに対してもあまり良い対応はできていなかったと思う。しっかりと今まで通りフィードバックをしてあげたいという思いは常にあった。しかし、実際は白瀬さんに甘えていたと思う。何も言わなくても出来てしまう彼女のことだから、察してくれるだろうという甘えだ。何かを言わなくても、こなしてくれるという信頼があるからこそ、特に気にしていなかったとも言える。
そんな日が続く中、私はふと彼女のことを思い出すことがあった。そのタイミングはよく分からない。ただ、最近話していないよな、だとか、昼食はどうしているんだろう、とかその程度のことである。連日豪華なランチに目を輝かせるけれど、その傍らにAランチが懐かしくなる。ああ、久しく食べていないな、と彼女の笑顔がちらつくのだ。値段は目の前に広がるメニューよりも遥かに安いけれど、それでもあのAランチを忘れられない。それはなぜだろうか。心穏やかになるあの空間が大好きだったのに、どうして私は今かけ離れた世界にいるんだろう、と何度頭を悩ませたことか。
そしてついには、理不尽な怒りを彼女に抱くようになっていた。
どうして、白瀬さんは私を昼食に誘わないんだ、と。彼女が私を誘えばAランチを食べられるのに。
つまらない自慢話に愛想笑いを浮かべる時間より、ゆったりとたわいもない話をしていたあの頃の方がよっぽど有意義だったように思えた。
彼女と話がしたい。
そう思っても彼女は何も話しかけない。何も言わない。本来なら抱くはずのない、やるせない気持ちが私を満たす。どうして私が気にしてしまうんだろう。彼女から誘ってくれればそれでいいのに。あの空間が好きだったのは私だけなのだろうか、彼女はもう何も思っていないのだろうか、とあれこれ考え出すと余計なことまで頭に浮かぶ。
そして、これが日常生活に支障を来さないのならまだ良かった。そのままでも良かった。何も変えなくてよかった。
だけど、私の仕事効率は落ちるばかりだった。私らしくない、と何度も叱責した。自分を奮い立たせた。それでも手が止まっては溜息をつき、頭を抱えては忘れようと頭を振る。本当に情けなかったと思う。色々な人から心配の声をかけられ、なにしてんだか、とそんな自分に失望することもあった。
だから、私はようやく決心を固めて私から距離をとる彼女と話をしようとした。
それなのに。それなのに。
彼女はするりと抜け出て、私のそばにとどまってはくれない。
私が彼女を粗末にしすぎたせいなのだろうか。私が何も考えない行動のせいなのだろうか。
ずっとそばにいたはずの人がいない。それがこんなにも虚しくさせるなんて、気づかなかった。あんなにも私を慕っていてくれたのに、今ではあからさまな私への態度の変化に戸惑いを隠せない。
そして、なにより衝撃的だったことは、私を誘う男に彼女が加担していたことだった。
何度か彼女に逃げられていた私は、意を決して彼女を捕まえようと手を伸ばした。その手を握って欲しかったのに。彼女はまた逃げた。
彼女がいなくなったあと、藤木という男は背中に隠していたものを私の前にずいと差し出した。
「これ、お好きですよね」
そこにあるのは、私の好きなカフェラテ。
なぜこの男が知っているんだ、と真っ先に思った。このことを知っているのは白瀬さんだけなのに。つまり、彼女はこの男に教えたと考えるしかない。
「なぜそれを…」
「好きだって聞いて、」
こんなもの、いらない。
照れているのか、目を逸らす仕草がやけに腹立たしく思えた。
「ごめんなさい、今は気分じゃないの」
私はすぐに白瀬さんの後を追った。捲し立てて台詞を吐いた彼女の顔は今にも泣きそうだったのが頭にこびりついている。あんな顔、させるつもりなんてなかった。
いて欲しいと願った彼女は、エレベーター前にはいなかった。急いで駆け下り、迷わず彼女を追った。
昇降口から飛び出ようとした瞬間、ただならぬ気配を察知し、私の足は止まる。彼女の前に立つ美波ちゃんが、頭を撫でている光景が目に入ったのだ。そして、遠くからでも分かるほどに大粒の涙を流す彼女の姿を見て思った。
私はどこで間違えてしまったのか。
どうしてあそこに私ではなく美波ちゃんが立っているのか。何もしてあげられない上司で申し訳ない。泣くほどに辛いことがあったのに、私はその原因を知らない。ペアとして、失格だ、とこの時自分の無力さに息が詰まりそうになった。
結局、声なんかかけられるわけもなく、無様にも私の居場所へと戻っていった。
私が悪いのか、私が悪いわけない、じゃあ彼女が悪いのか、彼女が悪いはずもない。誰が悪いのか、そもそもこれは誰かが悪い問題なのか。
そんな答えが見つからない問題に拘り、正解を探し続けた。しかしその答えなんて、今の現状すら分からない私に分かるわけもない。ただ胸の中の渦がひたすら私を掻き乱す。
そして、ようやく私の中の渦が落ち着いた頃に彼女は帰ってきた。それも目を真っ赤に腫らして。
気にならない訳がない。
シュンと分かりやすいくらいに悲しげなオーラを放ち、しまいにはいつも凛とした彼女が、弱っている。そんな顔でうろついていては、誰か名前も知らない狼に食われてしまいそうだと思った。
私は気付けば誰よりも先に、と彼女の元へと駆けつけていた。勿論、周りにバレないようにゆったりとした空気を纏わせて。
「泣いたのね」
もっと他に良い台詞は無かったのかと自分でも思う。なんて冷めた一言だろう、と後悔しても、発してから気付いたのでは遅いのだ。
その後、何故かお互いにカッとなってしまい、大勢の前で醜態を晒してしまった。その挙句、私は会議を理由に逃げ出してしまった。会議があったのは事実だし、急いでいたのも本当だ。
本当は言うはずでは無かった言葉までもが彼女のことを殴った。
ここ最近の彼女の様子を見て、もしかしたら嫌われているのかもしれないと思い悩むことがあった。そんなことは無いと心のどこかで分かっていても、素っ気ない彼女の態度を見る度に不安になる。たかが部下ひとりのことだ、と言い聞かせても不安はいつまでも消えない。
何か、他の人とは違う感情を彼女に向けているのかもしれない。
そんなことをぼんやりと浮かべながら、私は大久保さんに尋ねる。
「どうしたらいいですかね」
そんな曖昧な質問に、大久保さんはクスッと笑って言った。
「俺は嬉しいよ、完璧な広澄が部下のことで悩むなんて。いや、部下というか白瀬だから…なのかもしれないな」
どこか意味深な発言が引っかかった。
「……と、言いますと?」
「んー…いや、そのままの意味だよ」
少し濁したように言う。やや口角があがっているように見えたけれど、まさか大久保さんが私たちのことを見透かしているとは思えない。
「だから、俺はペアの解消なんて許さないからな」
そうボソッと呟きを残して、大久保さんは空になった紙コップを捨てた。
ひらりひらりと手をはためかせる大久保さんの後ろ姿を見つめながら、〝解消〟という言葉が何度も反響する。
解消、だなんて…そんなこと。
「課長」
「ん、どうした?」
くるりとこちらを向いた課長に、少し大きな声で尋ねる。そうであっては欲しくないけれど、浮かんでしまった疑問を打ち消すほどの信頼関係はまだ築かれていないと思った。
「まさか、白瀬さんが…ペアの解消を求めたり、しましたか?」
私の問いに、ほんの少し課長の瞳が揺れた。
そして沈黙の後、課長は表情を崩さずに口を開いた。
「あぁ、そうだ。
でも、白瀬は感情的になっていたからな。お前たちはお互いに不器用なんだろう…歩み寄ればきっと良いコンビになると俺は思うよ」
良いコンビ、なんてそんな理想像は、今の私たちとはかけ離れている。
解消を求めていた、という事実は、彼女の心にあったであろう辛苦を私の中に写し出した。正直、ショックである。しかし、それと同時に、そこまで私が彼女を追い詰めていたことをこの時に初めて知った。彼女を守るべき立場にある上司が、彼女を泣かせてしまうことは許されないのに。
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