第28話
あんなに泣いてしまっては、影響が出ないわけがなく、誰が見ても目が腫れていると分かるくらいに、ぷっくりと涙袋が強調され、上瞼はいつもより重く眼の上に居座っている。
あぁ、憂鬱だ。仕事に戻らなければならない時間が迫ってはいるのだが、広澄さんにはこの顔で会いたくない。会いたくないと思っても、ペアである私が彼女と会わない訳にもいかない。広澄さんが私の顔を見なければ問題はないが、果たしてそんなに上手く事は運ぶものだろうか。
デスクに向かう足取りは重い。俯きながら、バレないようにそっと部署内へと足を踏み入れる。
よし、大丈夫だ。このまま気付かれずに戻れそうだ。
いつもと変わらない午後の様子を見てホッと一安心していたのもつかの間、バッと私の前に誰かが立ちはだかった。女性の足が見える。この靴を履いてる人なんて一人しかいない。
ゆっくりと顔を上げると、真顔で私を見つめる広澄さんがいた。ぎょっと仰け反りそうになったが、ここはぐっと堪える。
「ど…うか、されました、か?」
しりすぼんでいく声と共に目線は下へと落ちていく。
しかし、そうはさせまいとクイッと顎を持ち上げられる。とは言っても、私の方が背は高いから、ほんの少し持ち上げただけで彼女とは目が合ってしまうのだけれど。
「泣いたのね」
直球ストレートでその言葉は胸に刺さる。周りに人がいるのだから、こんなところでそんなことを言わなくても良いじゃないか、と心に渦巻く黒い影が見えた。決して怒っているわけではない。しかし、配慮というものをしてもいいのではないのかと、心の中の私が叫んでいる。
そろりと慎重に彼女の手が私の方へと伸びてきた。一体、何をしでかすつもりなのか。いつも拍子抜けするようなことをしてくるから、彼女の行動は心臓に悪い。
伸びてきたその指先は私の瞼に触れた。ぽってりと赤くなっているところを、繰り返し撫でている。
その行為にはどんな意味があるのだろうか。意味なんてないんだろうとは思うけれど、私は意味を求めてしまうのだ。
彼女の瞳を見ると、慈しむような優しさを含んでいるように思える。彼女とはあんなに心の距離があったはずなのに、その目を見てしまうと距離がぐっと近くなった気がする。
心配してくれている、と捉えてしまった私は思わず嬉しさが込み上げる。こんな一つの所作でさえ、踊らされてしまうのだから、情けないよな。
「そんな顔でいると他の人に驚かれるわよ」
その通りだと思う。だけど、午後も沢山の仕事が積もっているから職場を離れることはできない。
「…今後は気をつけます」
「そうじゃないわ」
「え?」
「冷やしてきなさい」
「いや、でもまだ仕事が沢山…」
「大丈夫よ、私がやっておくわ」
既に莫大な量の仕事を抱えている彼女に私の分まで頼めない。それに、こんなことで席を離れるようでは社会人としてだめだと思った。
「お気遣いありがとうございます。しかし、それはできません」
はっきりと告げる私を見て、ぴくりと眉が動いた。少し間が空いたあと、彼女は言う。
「…どうして私の言うことがきけないの」
え、?
一瞬何を言われたのか理解できなかった。
その言葉を理解するのに時間がかかった。
「いや…あの…」
「冷やしてきなさい」
今度はさっきよりも強めの口調で言われる。しかし、何度言われようと同じだ。私は広澄さんに迷惑がかかるようなことだけは避けたいと常日頃から思っている。彼女の気遣いはありがたいが、それが彼女の首を締めるのなら、私は断固として頷くつもりはない。
「いえ、本当に結構です」
「遠慮しないで」
「遠慮ではなく、本当に大丈夫なので」
お互いに譲らない。広澄さんもすんなりと私の意見を汲む様子はない。ばちばちに火花が散っている中、彼女は静かに冷えた声色で放った。
「どうしてそんなに反抗するの。そんなに私のことが嫌いかしら」
「え?」
〝嫌い〟という言葉は聞き馴染みがない。まさか彼女の口から出るなんて想像もしていなかった。私が彼女を嫌いになるなんてこと、絶対にありえないのに。上手く状況が呑み込めていない中、彼女は話し続ける。
「仮にそうだとしても、私の指示に従いなさい」
私の言い分は聞かずに次々と話を続けるから、何も言えなかった。広澄さんがピシャリと言い放ったことで、空気がピーンと張りつめる。周りの人も珍しく怒る広澄さんを見てザワついている。
なぜ彼女が怒ってるのかよく分からない。いや、全然分からない。それより、仕事がたまっているくせに、また全ての仕事を請け負おうとしているのが私は気に食わなかった。なぜ私を頼らないのか。頼れないほどの存在だと言われているに等しい行動を取られると、さすがに私も傷つくのに。
「どうして従わなきゃいけないんですか」
「…また口出しするのね」
「ええ、だって広澄さん絶対こなせないですよね」
「なんですって?」
「本当にその量をおひとりでできるとでも思ってらっしゃるんですか?もっと現実を見てください」
「できるに決まっているでしょう。そんな顔で仕事をやられる方が迷惑よ」
「そんなに醜い顔ですか」
誰のせいでこんなに泣き腫らしていると思っているんだ。
「こんな顔、醜いですよね、可愛くないですよね、えぇ分かってます。でも、そんな言い方するより、私の顔が見たくないならそう直接言えばいいじゃないですか。遠回しに言わないでください!」
「あなたの事を見たくないだなんてひとことも言ってないわ。私は白瀬さんのことを心配して言っているのよ」
「そんな心配はいりません。それより、広澄さんは何でも仕事を引き受ける癖をやめてください。私のことは私がします」
「ちょっとちょっと、何を喧嘩しているんだ。二人とも落ち着きなさい」
大久保課長が間に割って入って、止めてくださった。止められなかったら、どんどんヒートアップして取り返しのつかないことまで言っていたかもしれない。
なぜあんな風に言われたのか、未だに私には理解できない。私の事なんて気にも留めていなかったくせに、今更なんだっていうんだ。
「君たち、一旦二人で話し合ってきなさい」
そう救済の手を差し伸べてくださったが、広澄さんはそれを断った。
「本当に申し訳ないのですが、これからすぐに会議があるので、失礼します」
強ばった空気を引き裂きながら、彼女はスタスタと部屋から出ていってしまった。
私は見送るしかできず、モヤモヤがたまったままだ。そんな私を見て、課長はフォローの言葉をかけて下さった。
「まあ、広澄も悪気はないんだ。許してやってくれ。それに、あんなに怒るなんて君を信頼している証だろう。気にするな」
気にするな、と言われてもそれは到底無理な話だ。周りのざわつきから見ても、広澄さんが怒ることは今まで無かったそうだ。それなのに、私ときたら訳の分からないことで急に怒られ、しまいには決め付けで嫌われている、とか言い出す始末だ。嫌っているのは広澄さんの方じゃないのか。
なんだか、このまま広澄さんと上手くやって行ける自信が無い。残り一週間という短い期間も上手く乗り越えられそうな気がしない。
どうせ、彼女は私じゃなくてもいいんだ。私なんかよりもっと綺麗で可愛い子とペアになればいい。もっと頭がきれて仕事も上手くこなせる人をペアにすればいい。
もともと、広澄さんとペアを組みたかった人は多いんだから。わざわざ私なんかと組む必要なんてないだろう。
先程の広澄さんの言葉が頭から離れなくて、まるで私の顔を見たくないかのように言い捨てた台詞も、全部全部苛立ちに変わって私の中へと戻ってきた。
「あの、すみません。お願いがあります」
私はその苛立ちを上手くコントロールすることが出来なかった。だから、大久保課長にそのままぶつけてしまった。
「どうした?」
「あの…、ペアを変えてもらいたいんです」
こんなこと、本当は望んではいない。しかし、この時はそれくらいに彼女とペアであるということが嫌で嫌でたまらなかった。
しかし、そんな申し出を大久保課長は許さなかった。
「許可できない」
「どうしてですか」
「そんなことで気軽に変えているようでは、今後も仕事は続かないぞ。ちゃんと話し合って、それでも彼女が嫌なのであれば、もう一度言いに来なさい」
真っ当な判断である。
「あと…白瀬。今日はもう帰りなさい」
「え、どういうことでしょうか」
「昼間、何かあったんだろう。その顔を見れば誰でも心配する。今は少し冷静になった方が良いと思うんだ。白瀬の仕事は私が引き継いで進めておくから、今日は帰りなさい」
課長に帰れと言われてしまった私は、反抗する力もなく言われるがまま帰宅することになった。
今頃、広澄さんは大事な会議をしている頃だろうに、私は何をしているんだろう。
仕事をなんでも引き受ける癖をやめろと喚いたは言いものの、引き受けてしまうほどに私は情けなかったんだろうか。私は今までの自分の行動を省みながら、とぼとぼと帰路に着いた。
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