第27話
昨日の広澄さんがなんであったにせよ現実はスケジュール通りの時刻を刻んでいて、私はその流れの中に身を委ねなければならなかった。
私はいつも通り出社する。もちろん広澄さんもいつもの場所にいる。そして、普段と何も変わらない日常が流れていく。私たちの部署に仕事でやってきた男性たちが広澄さんの所に寄ることも、彼女が用事で席を立ち廊下に出た瞬間に話しかける女性たちのことも、全ていつも通りだった。このことからも、私と彼女が二人で話す時間が無いというのが分かると思う。誰かしら彼女の近くに人がいる、という見慣れた光景が今日も私の前に広がる。
お昼前になり、午前中の最後の報告をしていた時のこと。昨日と同じように私たちの間に割って入る声があった。
「今お時間いいですか?」
そんなに急がなくてもいいだろうに。こっちは業務連絡をしている最中だぞ、と少しイラつく。まあもう終わっているに等しいのだけれど、途中で遮られた感が否めなくて眉間に皺がよる。広澄さんも、こういう時は怒ればいいのに、と思って彼女の顔を見ると、さすがに今日のタイミングはあまり良くなかったのか、ほんのり怒りの色が表れていた。
誰だ、このタイミングで話しかける奴は、と思った私は男を見た。
その顔には見覚えがある。そう、昨日見た顔だ。数秒見ていると、視線を感じたのかバッチリ目が合う。
「あ、」
「こんにちは」
昨日私に話しかけてきた藤木さんだったのだ。にっこりと微笑み私に挨拶をする姿を見て私の存在には気付いていたことが分かる。なぜか怒るにも怒れず、私は口をきゅっと結ぶ。空気を読めると男だと思っていただけに少し残念だ。
まあ、私には関係ない話か。
「お話の途中で本当に申し訳ないです。藤木と申します。以前一度だけプロジェクトで一緒になったんですが…」
「ええ、覚えているわ」
「っ、ありがとうございます!それで…」
藤木さんは私のことを見た。こっちを見るなと言いたくなった。ここはグッと堪えて彼の意を汲む。おそらく、昼食に行けるように促してくれ、と言うことなのだろう。だから私がいるこの瞬間に割って入ったのかもしれない。
「それで…今日のお昼ご一緒させて頂きたいんです」
その言葉の後、私のことをちらっと見る。すぐに視線は広澄さんの方に戻るけれど、今だ、と言わんばかりの表情だった。
どうしてこうなっているんだ。確かに、昨日は多少背中を押す気持ちで彼に情報を教えたけれど、ここまでするつもりなんてなかった。いつの間に広澄さんのことを好きな奴のサポートをする立場に回っているのか、誰か教えて欲しい。
悶々としている中、私が口を開くその前に広澄さんは言った。
「ごめんなさい、今日は…」
そう言いながら広澄さんも私のことを見た。思いがけない目配せに心臓が止まりそうになる。どうして私のことを見るんですか、と口から出そうになったが、なんとか堪える。
まさか、まさか…私を理由に断るつもりなのだろうか。いや、そのつもりなんだろう。彼女の瞳を見てそんな予感がした。
しかし、そんなことが本当にあっていいのか。広澄さんが私とご飯を食べに行くだなんて、そんなことを彼女から仕掛けるだろうか。
一瞬で思考を巡らせて考えるけれど、やっぱりそんなことが起きるとは到底思えない。都合のいい解釈をすぐに頭の中で訂正して、すかさず彼をフォローした。
「行ってきてください、私のことは気にせずに」
その言葉を聞いた広澄さんは、私を見つめることをやめない。思わずごくりと喉がなる。
「白瀬さん、今日は」
「いいんです、分かってます。お二人で食べるんですよね。…っ、そんなのいちいち私に言わなくてもいいじゃないですか」
広澄さんにはなにも言わせない。半ば強引に遮って捲し立てた私の姿はどれほど惨めに見えているのだろう。
その後、何かを言いかけようとしていたけれど、既に耐えられなくなっていた私は逃げ出した。スマホだけを持って、私は部署を足早に出る。
なんなんだ、この気持ちは。
どうしてこんなに胸が痛むんだ。
本当は誰にも渡したくないのに、誰の元にも行ってほしくないのに。本心とは裏腹に行動が伴わない。
上手くいくように手伝ったくせに、心のどこかで彼を羨ましく思う私がいる。本当にかっこ悪いと思う。こんなに苦しむなら、彼女を譲らなければいいのに、と嘲笑う悪魔がまた顔を出す。自分でも何がしたいのか分からない。曖昧な境界の上をふらふらと彷徨うように、心の中はぐちゃぐちゃだ。
彼女のことを想うとまだズキズキと胸が痛む。しかし、彼女の隣に未熟な私は釣り合わない。私は、ただこのまま胸の痛みに耐え忍べば良いのだ。いつ治まるかも分からない痛みと闘いながら、あと少し自分の役割を全うするだけ。
彼女と私は違いすぎるんだ。
私はスッポンで、彼女は月だ。この差は、一生埋められそうにない。
そう自分に言い聞かせながら、私はエレベーターに乗り込んだ。
「あ、待って待って」
エレベーターの扉の隙間から、ニュッと手が伸びてきた。挟まりそう、と目を細めた瞬間、ぎりぎりのところで扉は開く。
「良かった、追いついた」
開ける視界のそこには、美波さんがいた。一瞬でも広澄さんかと思ってしまった自分を殴りたい。
「急に出ていっちゃうから、慌ててついてきちゃった。お昼一緒に食べよう」
にこにこと微笑みながら、美波さんは閉まるのボタンを押す。
シーンと静まり返るエレベーター内で、ポツリと声が響いた。
「いいの?このままで」
その言葉にピクリと眉が反応してしまった。ゆっくりと美波さんの顔を見ると、そこに先程の微笑みの影は無い。
「あと、一週間だよ」
それは、きっとペアとして関われる残された時間のことだ。
美波さんは、黙りこくった私をただ見つめるだけで、非難をするようなことは言わない。
「君たち、おうちデートをした仲でしょう」
少しおどけて、そんなことを言われる。
「あれだって、せっかく私が機会を作ったのに…。何も起こらずに終わったじゃん」
拗ねたように、ぶーぶー文句を垂らしている。
美波さんは私の思いを勝手に汲み取って、勝手に恋のキューピットになろうとしていた時期がある。頼んでもいないのに、広澄さんに私の話を持ちかけたり、引き合わせようと企んだり、本当にお節介な人である。既にその件については、美波さんから直々に謝罪と説明は受けている。今となってはただの思い出話だ。
「ねえ、今は好きなんでしょ。葵さんのこと」
見透かされているだろうと思っていたが、やはり美波さんは侮れない。
私に答えさせまいと、タイミング良くエレベーターはベルを鳴らす。扉が開き、私と美波さんは歩き出した。
コツコツと足音が響く中、ぐるぐると乱れている頭の中から言葉をみつけて、私はようやく唇を動かす。
「私には無理です」
消えそうなほどに小さい声が出た。それでも美波さんはしっかりと反応をくれた。
「どうしてそう思うの?」
その問いに私は続ける。
「仕事もろくにできない人を、彼女にしたいと思いますか?」
「仕事ができないなんて、誰が言ったの?」
思わぬ素早い切り返しに狼狽えてしまった。
「それは…」
「悠ちゃんは仕事ができる子よ」
〝仕事ができる〟
この一言を飲み込むのに時間がかかった。ハッキリと告げたその言葉が、頭の中で何回も繰り返される。
気付いたら、目の前がじわじわとぼやけていた。
あぁ、これがずっと私が欲しかった言葉なのか。美波さんの温かい言葉が胸にじんわりと染み込んでいく。本当は美波さんのお世辞かもしれない、私を励ますための言葉なのかもしれない。そんなふうに思ったけれど、優しく頭を撫でるそのぬくもりに触れてしまった私は、素直になるしかなかった。
「無理なんてもう言わないで」
皆が行き交うエントランスの真ん中で、私は静かに涙を流した。泣き止むまでずっと、美波さんはそばで頭を撫で続けてくれた。
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