雲壌月鼈と広澄さん

第26話

 今日は広澄さんとペアを組んでから三週目の木曜日である。


 ギクシャクした関係のまま、刻一刻と時間はすぎていく。あれからも広澄さんとの関係は何も変わらない。仕事中は積極的にとまではいかないけれど、やり取りを頻繁にし連携をとっている。傍から見れば、良きパートナー同士だと思うはずだ。

 しかし、休憩中や仕事終わりに一切の関わりはない。これは決して避けているわけではない。彼女は彼女の人付き合いがあり、私はそれに合わせているだけだ。彼女が私のことを気にする様子は特にないから、定時が来たら空気のように存在を消して職場を離れる。先に彼女が帰ることもあるし、私が先の日もある。彼女が先に帰る時はたいてい電話を耳にあてながら忙しなく去っていく。


 今日は一体どっちが先だろう。

 そんなことをぼんやり思いながら資料を総務部に持っていっていると、その途中に私は後ろからちょんちょんと誰かに肩を叩かれた。


 振り向くと見かけたことのない男性がそこにはいた。


「えっと、広澄さんのペアの方ですよね?」


 この時点で察する。用件は私にでは無く、広澄さんに対してだろうと。


「そうですよ」


 広澄さんのペアとして広まっているんだ、と何だか彼女に申し訳ない気持ちを抱きながらも返事をした。


「俺、藤木って言います。それ、総務部にですよね。俺も今から行くので一緒に行きませんか。話したいこともあるので…!」


 突然誘われたこともあり一瞬戸惑ったけれど、どうせ広澄さんのことなんだし、すぐに話を聞いてデスクに戻ろう、そう思った私は藤木さんと歩き出した。


「時間もないので、単刀直入に言うんですけど…良いですか?」


 歩き出してすぐだなんて、本当に展開がはやい。だけど、総務部にはすぐ着きそうな距離だから、早く聞かなければならない。私はどんと構えて彼の言葉を待つ。


「どうぞ」


 私の答えを聞いてすぐ、前のめりで彼は言った。


「俺、広澄さんのことが好きなんです」


 なぜそれを私にいうのか。

 私は広澄さんでもなんでもないのに。


 そんなことを考えたが、直接気持ちを伝えるというのはかなりの勇気が必要だろう。身近な私からせめていくのは仕方ないことなのかもしれない。


「それで、どうして私に?」

「あぁ…えっと、好きな食べ物とか知りたいんです。好きなものとかでもいいですし!」


 声のトーンが高くなったあたり、彼女のことを話すと興奮してしまうのが見てとれた。


 それくらい、広澄さんは愛されているんだなあ。藤木さんは深い愛を捧げられることできる人だと思った。これはもはや直感だ。この人は良い人だと思う第六感のようなものが私に教えてくれた。

 だから、私は知る限りのことを話した。どうしてこんな知らない人のために情報を暴露しているのだろうとも思う。しかし、藤木さんの人柄のことがあり、態度があって、出し惜しみしておくのも良くないと思った。好きな飲み物やクマさんのことをしっかりと伝えると同時に、広澄さんを託すという想いもその上に乗せた。


「ありがとうございます。本当に助かります」


 深々と頭を下げられてしまっては、悪い気はしないし、どうせなら頑張って欲しいと思う。


 私には彼女はもったいない人だ。彼のような誠実な人になら、彼女のことを任せられる。


 それから総務部に資料を渡してから、藤木さんとは別れた。デスクに戻ると、カタカタと指を動かし続ける広澄さんのことが目に入る。もちろん目が合うなんてことはない。逆に合ってしまえば、どう対応したらいいのか分からないから、これでいいんだと思う。


 今では、彼女との距離感がサッパリ分からない。謎のモヤで包まれたように、彼女のことが見えなくなっている。


 私は席に座り、広澄さんと同じようにパソコンとにらめっこをする。彼女のようにカタカタとキーボードを叩けなくても、頭の回転をフルモードにして対抗する。



 定時前、整理した顧客リストを並べてから、それを広澄さんに渡しに行く。


「頼まれていた資料です」

「ん、ああ。ありがとう」


 私のことは見ず、さらっとした口調で感謝を述べた。

 昔はこのような態度じゃ無かったのに。

 確かに昔と比べて仕事の量は増えている。しかし、私を見るくらいはしてもいいんじゃないかと思う。まあ、私のことを気にとめないくらい仕事に集中出来ているなら、それでいいか、と折り合いをつける。


「あの、白瀬さん」

「っへ、」


 間の抜けた声が出た。不意打ちの呼び掛けに、動揺してしまったのだ。いつもと違い声をかけられた事実に驚きを隠せない。


「え……と、っはい」


 何を言われるのか想像が出来ない。口元を見つめて私は彼女の言葉を待つ。目の前の広澄さんは、ちらっと私のことを見るけれど、バチッと捉えるように見つめてこない。何かを言い出しにくそうにしているのは感じるが、何を言おうとしているのかまでは分からない。


 言葉を発さない時間が数十秒流れる。課長が庄司さんを呼ぶ声、パソコンを叩く音、カチカチとクリックする音、普段は耳の中を通り過ぎていく音が今では余計なほどにハッキリと聞こえてくる。


 そして、この沈黙を破ったのは電話の着信音だった。彼女のスマホが揺れて、一気に緊張がほぐれる。仕事の重要事項のようで、それに出た途端、忙しなく対応している。そんな姿を見て邪魔をしてはいけないと思った私は、何も言わずに自分の席に戻った。



 定時はとっくに過ぎているけれど、広澄さんの方を見ると頻繁に電話でやり取りをしているのが見える。あれからずっと忙しそうにしているから、声をかけるタイミングもなく、声をかけられることもない。

 人が帰り始めて周りの人も少しずつ減ってきている。もう帰ってしまってもいいとは思うけれど、先程のことがあって帰ろうにも帰れない。一応、ペアということもあるから無責任な行動は慎まなければならないし。


 最近になって分かったことだが、広澄さんは余計な仕事を回されがちな気がする。引き受けているという言い方も出来るかもしれない。仕事が出来るから、周りの人が任せたくなる気持ちは分かる。しかし、明らかに彼女に集中しているよな、と感じるわけだ。その上、ペアである私にもそれは回してこないのだ。本来の仕事だけを共有したいという強い意思により、私は彼女の仕事の全てを知らない。


「ねえ、悠ちゃん。仕事終わったら飲みに行こうよ」


 前から再び突然の誘いが私を魅了する。


「まだ残るの?」

「あぁ…いや、少し広澄さんの手伝おうかな、と」

「あー、そうだよね。最近葵さんも仕事の効率が落ちてきているし。助け合わなきゃだね」


 仕事の効率…?

 意識したことの無い言葉が心に残る。


「広澄さん、調子悪いんですか?」

「ペアの悠ちゃんの方が感じてるんじゃない?葵さんには珍しく仕事をこなすスピード遅いよね」


 そんなことを言われて、ようやく今までの引っかかっていた何かがスッと外れた。

 いつもなら、この時間には既に仕事がさっぱり終えられているはずだ。何が彼女をそんなふうにしてしまったんだろう。美波さんならその原因を知っているだろうか。


「どうして広澄さんがそうなっているか、何か知ってます?」


 広澄さんに聞こえないように小声で美波さんに聞いた。


「んー、見ている限り…うわの空って感じがするんだよね。何か悩み事か思うところがあるのかもね」


 悩み事、か。一番そばにいたはずなのに、そんなことに気づかないだなんて、やっぱりダメだなあと落ち込む。


「私あと一時間くらい別の課で打ち合わせあるから、それからにはなるんだけど、飲みどうする?」


 それくらい後ならば、仕事を手伝ってから行けると思い、私は承諾した。


「じゃ、あとでね〜」


 美波さんを見送ってから、私は広澄さんが電話をしていないことを確認して仕事をもらいにいく。


「広澄さん、課長から回されていた総合商社の書類終わってないですよね。それ少しやらせて下さい」


 私の言葉に反応した彼女と久しぶりにしっかりと目が合った。


「いや、あれは私の担当だからやらなくていいわよ。ありがとう」


 そうやって一人で抱え込もうとする姿は今までに何度も見てきた。私は引き下がれるほど素直な性格ではないのだ。


「他にも仕事積もってますよね。仕事量が多すぎるので手伝わせてください」


 ハッキリとそう伝えるけれど、彼女も簡単に引かない。


「白瀬さんはじゅうぶん自分の仕事をこなしているわ。これは私の仕事よ、本当に大丈夫だから」


 こんな風に言われてしまっては、そんなに私に仕事を手伝ってもらいたくないのか、とよからぬ事を考えてしまう。私のことを信用できないのだろうか。以前の失態のこともあり、私は少し敏感になる。


 多少なりともその態度に傷ついたけれど、簡単な仕事は私にでも出来る。信用されていないかもしれないが、体裁を整えるくらいはできるのだ。


「何のためのペアなんですか。一応、今だけはペアなんです。簡単な仕事だけでも、サポートさせて下さい」


 そう伝えると、一瞬戸惑いはみせたものの、申し訳なさそうに微笑んで仕事を託してくれた。その顔を見て、久しぶりに彼女特有の柔らかさで包まれる思いがした。くっと込み上げる熱いものを冷静に鎮める。


 それから、また彼女は頻繁にかけられる電話対応に追われ、特に会話をすることなくすぐに時間が経った。


「この資料と、先程の総合商社の書類だけまとめてあります。確認お願いします」

「本当にありがとう。助かったわ」


 彼女と視線がぶつかる。今日はよく目が合う日だ。しかし、急に目が合ったところで上手くかわせない。普通でいようと努力はするのだけれど、少しだけ声によどみが出る。


「とんでもないです。…はやく広澄さんも帰ってくださいね」


 その言葉を残して、足早に帰る支度をする。真剣に取り組んでいたからか、お腹がぎゅるっと鳴った。今日のご飯はいつもより美味しいといいな、と考えていると、すぐ近くに広澄さんの声が聞こえた。


「白瀬さん」


 すぐそこまで来ていたのだ。珍しい距離にドキッとしたけれど、カバンを持って私はすぐに離れた。


「どうかされました?」


 私の俊敏な動きを見て、身体がほんの少し固まっていたように見えたけど、そんな素振りはなかったかのように口を開いた。


「あの、さ」


 また言いにくそうに言葉を詰まらせている。最後までじっと待ちたい気持ちはあったけれど、広澄さんと二人きりでい続けることが難しくて、私から静かな空気を突き破って言う。


「何か、ありましたか?」

「いや…その、」


言い淀む姿は広澄さんらしくない。ついに意を決して言葉を紡いだけれど、それはか弱いものだった。


「今から帰るの…?」


 不思議な質問に違和感を感じる。その先には何が待っているのか、知りたいようで知りたくない。ブンブンと頭の中の私は悪念を振りほどく。深く考えるのはやめる。聞かれたことだけに答えれば良いのだ。


「はい、帰りますよ。これから美波さんとご飯に行くんです」


 そう伝えると沈黙の後、そっか。とだけ零して彼女は私を送り出した。


 一体なんだったんだろう。

 そんな疑問が頭を通過する。最後の表情、まだ何か言いたいことがあったように見えた。それを飲み込み、ただ私を送り出したわけだけれど、奥には大事な何かが隠されていそうに思える。


 しかし、そんなことを考えたところで、何かが起こるわけでもない。お腹を空かせた私はすぐに切り替えて、美波さんの元へと急ぐ。


 広澄さんとだんだんと離れていくその距離が、今の私を安心させていった。そんなことを知れば、彼女は傷つくだろうか。


 いや、きっとなんとも思わないだろうな。


 それが、広澄さんという人だから。





 

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